安心論題/正定業義
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(17)正定業義
一 真宗の行信について、くわしく解釈してくださったのは善導大師であります。その善導大師は、本願の「乃至十念」を称名であると定め、称名念仏は本願に誓われた行であるから、正しく往生の決定する業因(正定業)であると明示せられました。法然上人は善導の釈義に依って、専修念仏(もっぱら称名念仏を修する)の法をわが国にひろめてくだされ宗祖親鸞聖人は、法然上人から親しく念仏往生の法を承けて、浄土真宗を顕わされたのであります。 この善導大師の示された「正定業」とは、どういう意味か。また宗祖は善導・法然の釈義を承けて、名号を正定業と仰せられた、さらに信心を正定業といわれたところもあります。それらをどのように理解するのか。また、称名正定業といえば、称名正因になって、信心正因と矛盾するのではないか、等といった問題を解明しようとするのが、この「正定業義」という論題であります。
二 善導大師の『散善義』の深心釈の就行立信(行に就いて信を立てる)の釈に(真聖全二―五四引用)、 一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるが故に。 (一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。) と述べられています。これが「正定業」という言葉の出拠であります。 この就行立信の釈にあっては、すべての行を雑行と正行とに分け、その正行の中をさらに正定業と助業とに分けられています。いまは阿弥陀仏の浄土に往生する行として分別するのですから、阿弥陀仏を所対(対象)としない行はすべて「雑行」とし、阿弥陀仏を所対とする行を「正行」とされます。その正行として、阿弥陀仏の法を説かれた浄土三部経を読誦する「読誦正行」、阿弥陀仏やその浄土を観想する「観察正行」、阿弥陀仏を礼拝する「礼拝正行」、阿弥陀仏の名号を称える「称名正行」、阿弥陀仏を讃嘆し供養する「讃嘆供養正行」の五種を示されています。この中、第四の称名が本願に誓われた行であるから、まさしく往生の決定する業因(正定業)であるとし、他の前三(読誦・観察・礼拝)後一(讃嘆供養)は助業であると示されています。 法然上人は四十三歳のとき、この善導の文を閲読して、称名念仏一行で往生を得るのは、「かの仏の願に順ずるが故」であるというところに深く感動せられ、これによって聖道の法を捨てて専修念仏の浄土門に帰入されたと伝えられています。上人はその主著『選択本願念仏集』の第二、二行章に、善導の文を引き(真聖全一―九三四)、その意味を解釈されて(真聖全一―九三五)、 問うていわく、何が故ぞ五種の中に独り称名念仏をもって正定の業とするや。 答えていわく、かの仏願に順ずるがゆえに。意にいわく、称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。故にこれを修するもの、かの仏願に乗じて必ず往生を得るなり。 と示し、同じく十六章の終わったあとの結勧の文には(真聖全一―九九〇)、 正定の業とはすなわちこれ仏の名を称するなり。(正定之業者即是称仏名)。称名は必ず生をう。仏の本願に依るが故に。 と述べられています。宗祖はこの『選択集』の結勧の文を『教行信証』の行巻に引用せられ(真聖全二―三三)、『尊号真像銘文』にこれを解釈されて(真聖全二―五七一)、 「正定之業者即是称仏名」(選択集)というは、正定の業因はすなわちこれ仏名を称するなり。正定の因というは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねともうすなり。 等と仰せられています。善導・法然は称名を往生の決定する業因であるといい、宗祖は仏果を得べき業因である、と示されていますが、いずれにしても、この称名は行者のとなえるという行為に功を認めるような自力の念仏ではありません。歩いていても(行)、立ちどまっていても(住)、すわっていても(坐)、寝ていても(臥)、称名念仏する期間の長い短いを問わない他力の念仏であります。 阿弥陀仏の名号は、私の心に届いて信心となり、声に現われて称名となってくださいます。今はその声となって現われたところで、名号願力の力用を語られますから、称名を正定業といわれるのです。私の舌を動かして声を発するという行為に、往生を決定する力があるというのではありません。この意味において、称名正定業ということは、称名正因とは異なるのであります。
三 正定業というのは、すでに窺ってきた通り、往生成仏のまさしく決定する業因という意味であって、「正決定の業因」と解釈(釈名)されます。しかしそれ以外に、「正選定の業因」という解釈もあり、また「正定聚人の作業」という解釈もされています。法然上人の『大経釈』には(漢語燈録、真聖全四―二八四)、 「正定」とは、法蔵菩薩、二百一十億の諸仏の誓願海の中において、念仏往生の願を選定す。故に「定」というなり。 と示されています。これは諸仏浄土の因の中から、法蔵菩薩は往生の業因として、称名念仏をまさしく選びとられたのであるという意味で、正定業を「正選定の業因」と解釈されたものであります。 次に、「正定聚人の作業」とか、「正定聚後の作業」という解釈は、聖教の上に文証があるわけではなく、宗義の上からいわれたものであります。これは、称名は信心獲得して正定聚(まさしく往生成仏することに定まった人たち)の身になった者の作業(しわざ、つとめ)であるというのです。称えるという私のしわざに往生決定の力用(ちから、はたらき)があると考えてはならない、という配慮に基づく一つの解釈といえましょう。 以上、正定業という言葉について三通りの解釈をあげましたが、第一の「正決定の業因」というのが、その本来の意味であって、第二の「正選定の業因」というのは、選択本願の念仏ということをあらわすための一つの解釈であると考えられます。第三の「正定聚人の作業」という解釈は、正定業という言葉の本来の意味からは、よほど離れたものと思われます。したがって、第一の「正決定の業因」、すなわち往生(成仏)のまさしく決定する業因という解釈が、正定業の基本的意味であるといわねばなりません。
四 次に、正定業といわれるのは、善導・法然にあっては他力の法名念仏についてでありますが、宗祖にあっては、名号や信心についても正定業といわれます。『正信偈』(真聖全二―四三)、 本願の名号は正定の業なり と仰せられます。これは本願成就の名号が、まさしく往生成仏の果を得べき業因である、といわれるのです。 およそ、『教行信証』の行文類一巻は、証果を得べき業因の義をあらわされます。その証果を得べき業因として、宗祖はあるいは名号を出され、あるいは称名で示されています。それは要するに、諸仏の讃嘆されている本願成就の名号、本願の行者の上に「乃至十念」の称名となって現われている名号、その名号が私どもとして往生成仏の果を得しめる業因である、という義を明らかにされたものとうかがわれます。これによって、覚如上人も『執持鈔』に(真聖全三―四二)、 名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆえなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なお不定ならば正定業とはなづくべからず。 等と、阿弥陀仏の名号願力が正定業である旨を述べられています。 次に、信心を正定業といういい方は、宗祖の『一念多念文意』に(真聖全二―六一三)、 「是名正定之業、順彼仏願故」(散善義)というは、弘誓を信ずるを報土の業因と定まるを正定の業となづくという。仏の願にしたがふがゆえにと申す文なり。 と、善導の称名正定業の文を解釈されるについて、信心を正定業といわれています。本願の法にあっては、信心も称名も、名号を領受したすがたですから、信心のところで、名号の徳は行者の身にそなわります。つまり名号の徳を具有していることで、信心を正定業といわれたものと考えられます。 以上、正定業のものがら(体)として、称名と名号と信心との三つが示されていますが、称名正定業といっても、能称(よく称える)の功をもって業因とするのではなく、その力用は所称(称えられる)の名号そのものにあります。その名号の力用を称名というすがたの上で語られるのが、称名正定業の義であります。信心を正定業といういい方は、信心獲得のところに名号の全徳を具有するという辺から、信心を正定業といわれたものと窺われます。従って、正定業として称名と名号と信心との三つが示されていますが、つきつめていえば名号正定業のほかはないということになります。
五 「正定業」というのは、法の力用をあらわす言葉であります。いいかえますと、阿弥陀仏の名号願力が衆生を往生成仏せしめる業因であるということを示します。「正因」というのは、宗学上の用法から申しますと、個々の人の上に往生成仏の業因が成就することをあらわします。つまり、名号願力を信受することによって、その人は往生成仏すべき業因が満足するのであります。これが信心正因ということであります。名号が正定業(業因)であるから、これを領受した信心が正因となるのです。 薬は病気を治す力を持っています。だからこれを服用すれば病気が治るのです。船や車は人を乗せて目的地に運ぶ力を持っています。だからこれに乗れば、その人は目的地に着くことができるのです。たとえは一部分しかあらわしません。法義の上では、名号願力が動いて私の信心となり、称名となってくださるのです。そういう意味はこのたとえではあらわすことはできませんが、名号正定業と信心正因とは矛盾するものではないということは、このたとえで理解することができましょう。『正信偈』には(真聖全二―四三)、 本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因とす と示されています。前の一句は第十七願の意で、諸仏の讃嘆したもう本願成就の名号が、まさしく往生成就の果を得べき業因である旨をあらわします。これは行文類一巻の要であります。後の一句は第十八願の信心正因の義をあらわされます。これが信文類一巻の要であります。わずか二句の偈文に、行信両巻の肝要が簡明に示されていることを、意義深く味わうことであります。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p188~