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安心論題/彼此三業

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2010年1月5日 (火) 10:56時点における近藤 (トーク | 投稿記録)による版 ((18)彼此三業)

(18)彼此三業


 「彼此三業」という論題が『安心論題』として取りあげられるのは、「三業帰命」説との関連においてでありましょう。
 「弥陀をたのむ」「弥陀に帰命する」というのは、阿弥陀仏に手強い願力をたにみにし、任せよ必ず救うのよび声に信順することでありますが、これを誤って、阿弥陀仏にどうかお助けくださいとお願いすることであると理解したのが「願生帰命」説であります。
 この「願生帰命」説は、さらに行者の身口意の三業にわたって帰命せねばならないというので、身には阿弥陀仏を礼拝し、口には阿弥陀仏の名を称え、心には阿弥陀仏を念ずるというふうに、身口意の三業をそろえて願生することを主張したので、これを「三業帰命」説といわれます。
 「彼此三業」というのは、「彼此三業不相捨離」の略で、あとに示しますように、善導大師の「彼此三業不相捨離」の解釈の中には、口に阿弥陀仏の名を称え、身に阿弥陀仏を礼拝し、心に阿弥陀仏を念ずるという行者の三業が出ています。
 そこで、「三業帰命」を主張する者は、この「彼此三業不相捨離」の文をもって、自説の正しいことを証する論拠としようといたします。
 けれども、「彼此三業不相捨離」は信後相続の行業の上の所談であって、信一念のとき、行者の三業をそろえて阿弥陀仏にお願いせねばならないという意味ではありません。そのことを明らかにしようとするのが、この「彼此三業」という論題の趣旨であります。
 しかしまた、念仏行者の現生に得る利益として、「彼此三業不相捨離」とはどのようなことであるかを知らせていただくことは、法味愛楽の上からも意義深いものと思われます。


 『観無量寿経』の第九真身観に(真聖全一―五七)、

光明はあまねく十方世界を照らして(光明徧照十方世界)、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず(念仏衆生摂取不捨)。

と説かれています。この「念仏の衆生」とは、善導大師のご解釈によれば、弘願他力の念仏行者のことであります。
 阿弥陀仏の救いの光は、あらゆる衆生を一人も漏らさずお照らしくださいますけれども、その救いを拒絶して受けいれない者は摂取されません。これを信受して念仏もうす者だけが、摂取不捨の利益をこうむるというのです。「摂取不捨」というのは、摂めとって捨てたまわないということで、宗祖親鸞聖人は『御草稿和讃』の「摂取」のところに(親鸞聖人全集五一頁)、「もののにぐるをおわえとるなり」等とお示しくださってあります。
 今まで如来のよびかけを拒んで逃げまわっていた者が、とうとう如来につかまえられて抱きとられ、もう二度と迷界に流転することのない身にしていただく、それが「摂取不捨」であります。古歌に(真聖全五―二九八)、

つきかげの到らぬところはなけれども
ながむる人の心にぞ住む

といわれます。月の光はわけへだてなく地上のすべての者に注がれますけれども、これを見ようとしない者には何の感興もわきません。月の光に気づかされて、これを仰ぎ見る者には、無限の感懐が味わわれることであります。
 この「念仏衆生摂取不捨」について善導大師の『定善義』に(真聖全一―五二一)、「親縁」「近縁」「増上縁」の三義があると示されています。これを摂取の三縁といいます。
 「親縁」とは、念仏の衆生と阿弥陀仏とは親しい関係にあるということ、つまり行者と弥陀とは心が通うということです。
 「近縁」とは、念仏の衆生と阿弥陀仏とは近い関係にあるということ、つまり行者のいる所にいつも弥陀が一緒にいてくださることであるといえましょう。
 「増上縁」とは、衆生のいかなる悪業も往生の障りとはならないこと、つまり、まちがいなく往生すべき身にしていただくことであります。
 この摂取の三縁は、同じく『定善義』の「法界身」釈に(真聖全一―五一八)、「心徧」「身徧」「無障礙」の三義を示されているのと照応すると考えられますが、今はこれを略します。


 さて『定善義』に摂取の三縁を明かされる中の「親縁」のご解釈に、「彼此三業不相捨離」の義が示されています。(真聖全一―五二一)。

一には親縁を明かす。衆生、起行して口に常に仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまう。身に常に仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまう。心に常に仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまう。
彼此の三業、あい捨離せず(彼此三業不相捨離)。故に親縁と名づくるなり。

 これがまさしく今の「彼此三業」という論題の出拠であります。
 「彼此三業」というのは、「彼」とは阿弥陀仏、「此」とは念仏の衆生、「三業」とは身口意の三業であります。
 念仏の衆生が、口に弥陀の名号を称えれば(口称)、阿弥陀仏はこれを聞いてくださる。身に弥陀を礼拝すれば(身礼)、阿弥陀仏はこれを見てくださる。心に弥陀を念ずれば(心念)、阿弥陀仏はこれを知ってくださる。このように念仏の衆生と阿弥陀仏とが互いに捨て離れないのを「不相捨離」といい、親密な関係にあるからこれを「親縁」といわれます。
 この場合、衆生の口称・身礼・心念は三業ですが、阿弥陀仏の聞・見・知は直ちに仏の三業とはいえません。けれども、衆生の三業にあい従うということで「彼此の三業」といわれるのです。
 なお、身口意の三業を出されたあとは(前掲)

衆生、仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したもう。

と、「憶念」が示されています。これは身口意の三業の中で、その本となるのは意業ですから、重ねて意業の憶念を出して、三業を結ばれたものと考えられます。
 お粗末な私の口に称えるお念仏、いつでもどこでも称えても阿弥陀仏は聞いてくださいます。私の合掌礼拝の姿、それは人が見ておろうが見ておるまいが、阿弥陀仏は見ていてくださいます。心のうちに阿弥陀仏のお慈悲を思うとき、誰知るまいと思うたが、阿弥陀仏は知っていてくださいます。私どもは、阿弥陀仏とこのように親密な関係のうちに生活させていただいているのである、ということを有難く尊く思わずにはいられません。


 この「彼此三業不相捨離」の義によれば、「三業帰命」説は正しいといえるかと申しますと、それは正しいとはいえません。
 なぜなれば、「彼此三業不相捨離」は、信一念のときのことではなくて、信後相続の行業について示されたものだからであります。
 どうしてそれが知られるのかと申しますと、はじめに、「衆生、起行して」とあります。これで信一念のことではなく、信後の起行の所談であることが知られます。また三業の行を示されるところには「口に常に」「身に常に」「心に常に」と、「常に」という言葉がついています。これによっても信後の相続行についての所談であることが知られるのです。
 もし信一念のときに衆生の三業の行があるというならば、信一念のとき往生は決定するのですから、衆生の三業の行があって往生が決定するということになり、それでは衆生の行業が往生決定に関与するということになります。これでは他力による救いとはいえません。
 往生決定は、如来の名号願力が私の心に満入したとき、すなわち無疑愛楽の信心がおこったときであって、そこに私の三業が入る余地はありません。それが本願成就文の「聞其名号信心歓喜」の初一念に「即得往生住不退転」の利益を得るという浄土真宗の宗義であります。  このように見てまいりますと、この「彼此三業不相捨離」の義は、念仏行者の信後相続の行業についていわれたものであって、信一念のときに三業をそろえて帰命するなどということではないことは、文の上からも理の上からも明らかであります。したがって、これは「三業帰命」説を正しいとする論拠にはなりません。


 念仏行者の信後の相続行の上で「彼此三業不相捨離」の義があるのはなぜかと申しますと、法蔵因位の三業の行徳を全うずる名号を領受したのが衆生の信心ですから、その信心からあらわれる衆生の三業の行も、阿弥陀仏と離れないのであるといわれます。つまり、阿弥陀仏の法をいただいて、それが出てきた称・礼・念の行ですから、阿弥陀仏とあい捨離しないのであります。『安心決定鈔』に(真聖全三―六三一)、

いまいうところの念仏三昧というは、われらが称・礼・念すれども、自の行にはあらず、ただこれ阿弥陀仏の行を行ずるなりとこころうべし。

とあるのは、その意味でありましょう。
 なおまた、『御文章』の三帖目第七通には(真聖全三―四六一)、

されば南無阿弥陀仏の六字のいわれをよくこころえわけたるをもって、信心決定の体とす。しかれば南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に阿弥陀仏という四つの字のいわれは、弥陀如来の衆生をたすけたまえる法なり。このゆえに、機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこのこころなり。
これによりて、衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」と釈したまえるも、このこころなり。

と仰せられています。衆生の弥陀を信ずる機も、弥陀の衆生を助くる法も、南無阿弥陀仏の六字のほかにはない(機法一体)。その南無阿弥陀仏のいわれをよく心得わけたのが信心ですから、信後の称・礼・念の三業の行も阿弥陀仏と離れないのであるといわれます。これは信相続の「彼此三業不相捨離」の義をもって、前に示された機法一体の義を論証されるといういい方であります。


 以上、『観経』の「念仏衆生摂取不捨」について、善導大師が親縁・近縁・増上縁の三義を示され、その「親縁」の解釈に「彼此三業不相捨離」の義が述べられてあること、そして、それは信後の相続行のことであって、「三業帰命」説を正しいとする論拠とはならないことをうかがいました。

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p199~