方便
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
十一、権仮方便について
経典の中に真実と方便とを分判するという権仮方便論は、『法華経』の方便品等に典型的に見られる経説であって、さまざまな思想と宗教的実践を包含している仏教経典を、特定の経典を中心として体系的に領解しようとした教説であった。
方便とは、ウバーヤの漢訳語で、「近づく」「到達する」という意味で、巧みな方法を以て衆生を導き、目的に近づけていくことを意味していた。浄影寺慧遠大師の『大乗義章』一五には、
- 汎く論ぜば方便に四あり。一に進趣方便。見道の前七方便のごとし。二に権巧方便。二智の中の方便智等のごとし。実に三乗なきも権巧してこれを為す。三に施造方便。方便波羅蜜等と説くがごとし。凡そ為作するところは善巧修習なるがゆえに方便という。四に集成方便。諸法同体にして巧みに相集成し、一に一切を備え、一切に一を成ずるがゆえに方便といふ。ゆえに地経のなかに六相門を説いてもって方便と為す。ゆえに彼の論にいわく、この法巧みに成ずるを方便と名ずくと。
といって、四種方便を明かしている。第一の進趣方便とは、見道に進趣する七方便のことで、要するに見道に近づいていく修行のことを方便というのである。第二の権巧方便とは、仏が未熟の機のために方便智をもって、一乗を開いて三乗の法門等を施設することで、これから述べる権仮方便にあたる。
第三の施造方便とは、十波羅蜜の中の方便波羅蜜のことで、般若波羅蜜(実智)を得た菩薩が後得智(権智)を発して為す善巧なる二利の修習のことである。慧遠大師は、これに教道方便、証道方便、不住方便の三種を開いている。すなわち言葉を超えたさとりの領域を言葉で表して人々を導くことを教道方便といい、巧みな手だてを設けて生死に迷う衆生に涅槃を証せしめていくことを証道方便というのである。そのような権実二智の活動が、生死にも住せず、涅槃にも住せず、白利と利他を双修して偏執を離れていることを不住方便というのである。
第四の集成方便とは、縁起している諸法が、相即相入して、一即一切、一切即一といわれるように巧みに相集成している有様を方便という言葉で表す場合をいうのである。このように仏教では方便という言葉は多義的に用いられているが、一般的に用いられるのは善巧方便と権仮方便であった。
まず善巧方便というのは、真実なる如来が大悲をもって衆生に近づいて来られる有様をいう。すなわち、一切の虚妄分別を超えた無分別智(般若・実智)によって確認されている生死一如、自他一如というさとりの本体を曇鸞大師は「法性法身」とよばれている。その自他一如のさとりは、必然的に、虚妄分別に惑わされている衆生の苦悩を自らのこととして共感する大慈悲心を発して、衆生を安らかなさとりの領域に導くために巧みな教説を設定して衆生に近づいてこられる。
すなわち言葉を超えたさとりの世界を言葉で表し、形を超えた領域を形で表現して、迷える人々に近づいて呼び覚ましていく大悲の智慧を後得智というのである。そのように無分別智(法性法身)の必然として起こってきた後得智をもって、大悲の誓願を発し、巧みな教説をもうけて衆生に近づき、救いを呼びかけておられる如来のすがたを、曇鸞大師は、「法性法身よりて方便法身を生ず」といわれている。
阿弥陀仏とは、このような大悲智慧が具体化して私に近づき、私どもを呼びさまされている方便法身だったのである。それは真実そのものが、南無阿弥陀仏という名号となって衆生に近づいてくるありさまであるから「巧方便回向」のすがたであると言われていた。そしてそのようた善巧なる方便のことを『諭註』下に釈して、
- 正直を「方」といふ。外己を「便」といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。外己によるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離す。
といわれている。「方便」の「方」とは方正であり、正直のことで、一如の徳にかなって邪曲を離れた正智の必然として、苦悩の衆生を憐愍する心を生ずることを正直、すなわち「方」といい、「便」とは「安らかにする」という意味をもっている。すなわち自己に執着する心を離れ、不便な状態にある他者を安んずることを「便」というのである。要するに方便とは、智慧の必然として行われる大悲利他の活動を意味していた。ところで、そのような後得智の表現としての如来の教説に、仏の随自意の教説と、随他意の教説とがあるといわれる。それは所化の衆生の根機が種々雑多であることによる。『論註』上の大義門功徳釈下に
- それ病あるにはすなはち薬あり。理数の常なり。『法華経』にのたまはく、「釈迦牟尼如来、五濁の世に出でたまへるをもつてのゆゑに、一を分ちて三となす」と。浄土すでに五濁にあらず。三乗なきことあきらかなり。
といわれているとおりである。阿弥陀仏の浄土のような純一大乗の世界では、二乗三乗のような権仮の教法を必要としないから、ただ一乗の教法のみであるが、五濁悪世には、千差万別の機類かいるから、それに応じて三乗の教法を説かねばならない。すなわち未熟の機に、仏の本意である悉皆成仏という一乗法を説いたとしても、それを正確に受け容れることができない。そこで一仏乗を開いて声聞乗、縁覚乗、菩薩乗といった三乗の教法を説いて未熟な機根を育て導いて、如釆の真意を聞き受けることのできるようにしなければならないからである。
このように、所化の機根に随って説かれた教説を随他意の教という。それは機根を調えて真実に近づかせるように誘い導いていく(調機誘引)ために暫く仮に用いる教説であるから権仮方便の教というのである。それに対して仏が是非とも伝えたい事柄を、自らの本意に随って説かれた教えを随自意の説というが、それは仏の本意にかなった究極の教えであるから真実教といわれる。
このように同じ後得智をもって説かれた教説の中にも、所化の機根の違いに随って暫く仮に説かれる随他意の権仮方便の教説と、仏が究極の本意に随って説かれた随自意真実の教えとがあるというのが『法華経』の方便品などに見られる説教の権実であった。
十二、権仮方便の構造
ところで未熟の機を調育し、真実の教法へと導いていく権仮方便の教えは、暫用・還廃という構造を持っている。未熟の機を調育するために暫く用いることを暫用という。そして機根が熟して、真実の教法を受け容れることが出来るようになれば、真実の教えが顕露に説かれ、方便の教法は還って廃される。それを還廃というのである。こうして権仮方便の教法は廃されるべく説かれたともいえる。いいかえれば権仮方便の教えは、まず真実の教えがあって、それを受け容れられるよう機根を調えるために暫定的に設けられた教えであるから、実は真実から出てきた教法であるといわねばならない。それを従真垂仮(真より仮を垂れる)という。
だから方便の教法といっても真実の教えと全く違ったものではなくて、むしろ真実の教法が、所化の機の理解能力に応じてさまざまな現れ方をしているものをいうのである。それは機根に応じて無数の階層性をもった教えとして施設されていく。
これを応病与薬とも言い慣わしている。機根の不同によって八万四千の法門が説かれたといわれる所以である。そうでなければ未熟の者を育てて真実に近づけることが出来ないからである。こうした権仮方便の教法によって、真実から遠く離れた状態に在る虚妄の衆生を、より真実に近い状態へと近づけ、最終的には方便を捨てて真実に帰せしめるように階層性をもって説かれているのである。それを従仮入真(仮より真に入らしめる)と呼んでいる。
そのような権仮方便の教えを浄土真宗の立場から大きく分けると、聖道門の教えと、浄土門内の方便教である要門(第十九願にもとづく諸行往生の法門)と、真門(第二十願にもとづく自力念仏往生の法門)とに要約することが出来るというのが親鸞聖人の方便論であった。「化身土文類」に方便の教法として要門、真門、聖道門が説かれている所以である。
「化身土文類」の初めに、阿弥陀仏が第十九願を建立し、釈尊が『観経』を開説しなければならたかった所以を説いて、
- しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく。
といわれている。ここには、まず九十五種の邪道の呪縛から人々を解放して、真実に導くために釈尊は聖道門の「半(小乗)満(大乗)・権(方便教)実(真実教)」といわれるさまざまな教を説いて人々を誘引していかれたといわれている。しかし真実を悟る者は希有であり、虚偽から脱出できずに迷妄の殻の中に閉じこもって流転する者が殆どであった。そこで釈尊は福徳蔵(『観経』)を顕説して群生を浄土門へと導いていかれたというのである。その背後には阿弥陀如来が聖道門に行き詰まって悩む未熟の機を調育して、真実の法門に誘引ずるために誓われた悲願、すなわち修諸功徳の願(第十九願)があったというのである。 {以下略}
「真実は真実だけでは真実にならん。真実は真実ならざるものによって真実を顕すんじゃ、これが本当の真実じゃ」と爺さんが言っていたが、ありがたいこっちゃ。