蟪蛄
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2011年11月5日 (土) 15:45時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (新しいページ: ' 蜩(ひぐらし)と学鳩(こばと)とがそれをせせら笑っていう、「我々はふるいたって飛び上がり、楡(にれ)や枋(まゆみ)...')
蜩(ひぐらし)と学鳩(こばと)とがそれをせせら笑っていう、「我々はふるいたって飛び上がり、楡(にれ)や枋(まゆみ)の木につきかかってそこに止まるが、それさえゆきつけない時もあって地面にたたきつけられてしまうのだ。どうして九万里もの上空に上ってそれから南方を目指したりするのだろう。(おおげさで無用なことだ)」と。
郊外の野原に出かける者(ひと)は、三食の弁当だけで帰ってきて、それでまだ満腹でいられるが、百里の旅に出る者(ひと)は、一晩かかって食糧の米をつき、千里の旅に出る者は、三か月もかかって食糧を集めて準備をする。 この小さな蜩や学鳩には(大鵬の飛翔のことなど)いったいどうして分ろうか。狭小な知識では広大な知識は想像もつかず、短い寿命では長い寿命のは及びもつかない。
どうしてそのことが分かるか。朝菌は(朝から暮れまでの命で)夜と明け方を知らず、夏ぜみは(夏だけの命で)、春と秋を知らない。これが短い寿命である。
楚の国の南方には冥霊という木があって、五百年のあいだが生長繁茂する春で、また五百年のあいだが落葉の秋である。大昔には大椿という木があって、八千年のあいだが生長繁茂の春で、また八千年のあいだが落葉の秋であった。(これが長い寿命である) ところが、彭祖は(わずかに八百年を生きたというだけで)長寿者として大いに有名であり、世間の人々は(長寿を語れば必ず)彭祖をひきあいに出す。何と悲しいことではないか。