といへり
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
以上の文は『存覚法語』に引く後鳥羽上皇の『無常講式』からの引用であるため「といへり」という。(御文章 P.1203)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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「世をこぞって蜉蝣の如し。朝に死し、夕べに死し、別れるものの幾許ぞや。或いは、昨日已に埋みて、墓の下に涙を拭う者、或いは今夜に送らんと欲して、棺前に別れを泣く人。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一期の過ぎる程なり。三界無常なり。古より未だ万歳の人身あることを聞かず。一生過ぎやすし。今にいたって、たれか百年の形態を保つべきや。実に我や前、人や前、今日とも知らず、明日とも知らず、後れ先だつ人、本の滴、末の露よりも繁し。原野を指して、独り逝地と為す。墳墓を築き、永く栖み家と為す。焼きて灰となり、埋みて土となる。人の成りゆく終わりのすがたなり。」
『存覚法語』、『聖教全書三』歴代部P360
- 『後鳥羽天皇御作無常講式』の第二段
擧世如浮蝣。于朝死于夕死別者幾許哉。
- 世こぞって蜉蝣の如し。朝に死し、夕べに死して別れるものの幾許ぞや。
或昨日已埋*(木+禁)涙於墓下之者。
- 或いは、昨日已に埋みて、墓の下に涙を拭う者あり、
或今夜欲送泣別棺前之人。凡無墓者人始中終、如幻者一朝過程也。
- 或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。
三界無常也。自古未聞有萬歳人身。一生易過。在今誰保百年形體。
- 三界無常なり。古よりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。今に在て誰か百年の形體を保たん。
實我前人前。不知今日不知明日。後先人繁本滴末露。
- 實(まこと)に、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴、末の露よりも繁し。
指厚野爲獨逝地築墳墓、爲永栖家。燒爲灰埋爲土。人成之終之資也。
- 厚野を指して獨り逝地と築墳墓をなし永く栖家となす。燒けば灰となり埋めて土となる。人の成りゆく終りの資(すがた)なり。
嗚呼。撫雲鬢戲花間朝。百媚雖難別、先露命、臥蓬下。夕九相皆可捨爛一兩日過者悉傍眼。
- ああ、雲鬢を撫でて花の間に戲ふるは、朝(あし)た百媚と別れ難しといえども、露の命を先立ちて蓬の下に臥す。夕に九相皆な捨つべし、爛れて一兩日を過ぐる者悉く眼を傍(そは)む。
臭三五里行人皆塞鼻。便利二道中白蠕蠢出。手足四支上青蠅飛集。
- 臭くして三五里を行く人、皆な鼻を塞ぐ。便利二道の中より白き蠕(むし)蠢き出で、手足四支の上より青蠅飛び集まる。
虎狼野干馳四方、置十二節於所々。鵄梟*(馬+周) 鷲啄五藏、投五尺腸於色々。肉落皮剥但生髑髏、日曝雨洗、終朽成土。雲鬢何収。
- 虎狼・野干は四方に馳せて、十二節を所々に置きて鵄梟*(馬+周)・鷲啄は五藏を啄(くら)ひて、五尺の腸(はらわた)を色々に投ぐ。肉は落ち皮は剥げ、ただ生(なま)しき髑髏、日に曝し雨に洗はる。終に朽ちて土と成んぬ、雲鬢何(いずく)にか収まる。
華貌何壞。眼秋草生。首春苔繁。白樂天云、「故墓何世人。不知姓與名。和爲道頭土。年々春草生云云。」
- 華の貌(かんばせ)何(いずく)か壞るる。眼には秋草の生(お)ひ、首には春苔の繁し。白樂天の云く、「故墓、何れの世の人ぞ、姓と名を知らず、和して道の頭(ほとり)の土となして、年々に春の草生ふと」云云。
西施顔色今何在。春風百草頭云云。
- 西施の顔色、今や何(いず)くに在る。春の風、百草の頭(ほとり)と有るべしと、云云。
再生汝今過壯位。死衰將近閻魔王。欲往先路、無資糧。求住中間、無所止。
- 再び生れて、汝じ今、壯(さかり)なる位を過ぎたり。死し衰ろえて將に閻魔王に近ずかんと、先路に往かんと欲するに資糧なく、中間に住(とど)むを求むるに所止なし。
一切有爲法如夢幻泡影。如露亦如電。應作如是觀。
- 一切の有爲の法は夢幻(ゆめまぼろし)の泡の影の如し。露の如く電(いなびかり)の如し、かくの如しの觀をなすべし。
南無阿彌陀佛
「後鳥羽天皇御作無常講式」第二段。