現代語 無量寿経 (巻下)
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
目 次
仏説無量寿経 下巻
曹魏の天竺三蔵康僧鎧訳す
経の中心をなす部分
念仏による往生を明かす
( 22) 釈尊が阿難に仰せになった。
▼ 「 さて、無量寿仏の国に生れる人々はみな正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものはいないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。無量寿仏の名を聞いて信じ喜び、わずか一回でも仏を念じて、心からその功徳をもって無量寿仏の国に生れたいと願う人々は、みな往生することができ、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる 」▲
さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものが生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。
( 23) また阿難に仰せになる。
「 すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものに、大きく分けて上輩・中輩・下輩の三種がある。まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい 」
( 24) 釈尊が続けて仰せになる。
「 次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
( 25) さらに続けて仰せになる。
「 次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである 」
( 26) 釈尊が阿難に仰せになった。
「 無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を敬って供養するのであって、その供養は菩薩や声聞などの聖者たちにまで及んでいる。そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」
菩薩の阿弥陀如来への供養と聞法の歌
( 27) そこで釈尊は、そのことを次ぎのように重ねてお説きになった。
- 東の仏がたの国はガンジス河の砂の数ほどに多いが、
- その国々の菩薩たちは、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見る。
- 南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにあ
- る国々もまた同様であり、
- それらの国の菩薩たちも、無量寿仏の国に往き仏を仰ぎ見るのである。
- 菩薩はみなそれぞれに、うるわしい花と
- かぐわしい香と最上の衣をささげて、無量寿仏を供養したてまつる。
- みなともに美しい音楽を奏で、みやびやかな音色を響かせ、
- すぐれた徳をうたいたたえて、次のように無量寿仏を供養したてまつる。
- 「 実にみ仏は神通力と智慧をきわめ尽し、深い教えの門に入り、
- すべての功徳をそなえ、そのすばらしい智慧は並ぶものがありません。
- その智慧の光明は世を照らし、迷いの雲を除いてくださいます 」 と。
- うやうやしく三度右まわりにめぐって、伏してこの上なく尊い
- この仏を礼拝したてまつる。
- その国は清らかで、思いはかることもできないほどすばらしいことを知り、
- 菩薩はこの上ないさとりを求める心を起こし、自分の国もこのよ
- うにありたいと願う。
- そのとき無量寿仏はにっこりとほほえまれ、
- 口から無数の光を放って、ひろくすべての国々をお照らしになる。
- もどってきた光は仏のお体を三度めぐって、その頭におさまり、
- すべての天人や人々はこれを見て、みなおどりあがって喜ぶのである。
- そこで観世音菩薩は服装を正し、伏して礼拝して問う。
- 「 み仏がほほえまれたのは、どのような理由からでしょうか。
- どうぞ、そのお心をお説きください 」 と。
- 仏は雷鳴がとどろくように、すぐれた徳をそなえた声でお述べになる。
- 「 今、ここにいる菩薩たちが未来にさとりを得ることを約束し
- よう。これからそのことを説くから、よく聞くがよい。
- わたしはさまざまな国から来た菩薩の願をすべて知っている。
- 菩薩たちは清らかな国をつくりたいと志して、その願の通りに
- 必ず仏になることができる。
- すべてのものは夢や幻やこだまのようであるとさとりながらも、
- さまざまなすばらしい願を満たして、必ずこのような国をつく
- ることができるのである。
- すべては、稲妻や幻影のようであると知りながらも、菩薩の道
- をきわめ尽し、
- さまざまな功徳を積んで、必ず仏になることができる。
- すべてみな、その本性は空・無我であると見とおしながらも、
- ひたすら清らかな国を求めて、必ずこのような国をつくること
- ができるのである 」 と。
- 仏がたは自分の国の菩薩たちに、無量寿仏を仰ぎ見るよう、次
- のようにお勧めになる。
- 「 この仏の教えを聞き、求めて修行し、速やかに清らかな世界
- を得るがよい。
- 無量寿仏の清らかな国に往ったなら、すぐさま神通力を得て、
- 無量寿仏によって仏となることが約束され、必ずさとりを得る
- ことができるのである。
- この仏の本願の力により、仏の名を聞いて往生を願うものは、
- 残らずみなその国に往き、おのずから不退転の位に至る。
- そこで菩薩はすぐれた願をたて、自分の国もこの国に異なるこ
- とがないようにと願い、
- ひろくすべてのものを救いたいと思い、その名をすべての世界
- にあらわしたいと望む。
- そして数限りない如来に仕えるため、神通力によりさまざまな国に往き、
- 如来を敬い、喜びを得て、無量寿仏の国に帰るのである。
- もし人が功徳を積んでいなければ、この教えを聞くことはできない。
- 清らかに戒を守ったものこそ正しい教えを聞くことができる。
- 以前に仏を仰ぎ見たものは、無量寿仏の本願を信じ、
- うやうやしく教えを尊び、仰せのままに修行をして喜びが満ちあ
- ふれるに至る。
- おごり高ぶり、誤った考えを持ち、なまけ心のある人々は、こ
- の教えを信じることができない。
- 過去世に仏がたを仰ぎ見たものは、喜んでこの教えを聞くことができる。
- 声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
- まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
- 如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
- 声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけが
- お知りになることができる。
- たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、
- 清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をか
- けて仏の智慧を思いはかり、
- 力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、
- 仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり
- 知ることができない。
- そもそも人として生れることは難しく、仏のお出ましになる世
- に生まれることもまた難しい。
- その中で信心の智慧を得ることはさらに難しい。もし教えを聞
- くことができたなら、努め励んでさとりを求めるがよい。
- 教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶものこそ
- わたしのまことの善き友である。だからさとりを求める心を起すがよい。
- たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、教え
- を聞くがよい。
- そうすれば必ず仏のさとりを完成して、ひろく迷いの人々を救うであろう 」 と。
( 28) 釈尊が阿難に仰せになった。
「 その国の菩薩たちは、みな一生補処の位に至ることができる。ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願の功徳を身にそなえて、その位につかないでひろくすべての人々を救うこともできる。
阿難よ、その国の声聞たちが身から放つ光は一尋であるが、菩薩の放つ光は百由旬を照らす。中でもふたりの菩薩がもっともすぐれていて、その神々しい光はひろく世界中を照らすのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「 そのふたりの菩薩は何というお名前なのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「 ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。このふたりの菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国に生れたのである。
阿難よ、だれでもその国に生れたものは、みな仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえて、智慧に満ちあふれ、すべてのものの本性をさとって教えのかなめをきわめ尽し、自由自在な神通力を得て、すべてを明らかに知ることができる。そして、資質に応じてあるものは音響忍や柔順忍を得、あるものは尊い無生法忍を得るのである。またその菩薩たちは、仏になるまで二度と迷いの世界に帰ることがなく、自由自在な神通力で常に過去世のことを知り尽くしている。ただし、わたしがこの国に出てきたように、菩薩自身の願によって、他の五濁に満ちた悪い世界に生れ、そこの人々と同じ姿を現すことも自由である」
続けて釈尊が仰せになる。
「 その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事をするほどの短い時間のうちにすべての数限りない世界に行き、さまざまな仏がたを敬い供養する。香り高い花・音楽・天蓋・幡など、思いのままに数限りない供養の品々がすぐさまおのずから現れてくるのであるが、みなとりわけすぐれて珍しく、この世では見られないものばかりである。
菩薩がそれらの品々を仏がたや菩薩や声聞たちにささげると、まかれた花は空中で花の天蓋となってきらきら輝き、香りがあたり一面に広がる。この花の天蓋は、周囲が四百里のものから、だんだん大きくなって世界中をおおうほどのものまである。そしてそれらの花の天蓋は、新しいものが現れるにしたがい、前のものから次々と消えてなくなる。菩薩たちはともに喜びにひたり、空中にあって美しい音楽を奏で、すばらしい歌声で仏の徳をほめたたえ、教えを聞いて限りない喜びを得る。このようにして仏がたを供養しおわり、食事の時までに、たちまち身もかるがると無量寿仏の国に帰るのである 」
( 29) さらに釈尊が阿難に仰せになる。
「 無量寿仏が声聞や菩薩たちに法をお説きになるとき、すべてのものは七つの宝で飾られた講堂に集まる。そこでひろく教えを説き、すばらしい法をお述べになると、これを聞いてみな喜び、心に受けとめて、さとりを開かないものはない。そのとき、あたり一面からおのずから風がおこって宝の樹々に吹きわたると、さまざまな音を出し、数限りなく美しい花を降らし、その花が風に運ばれて国中に散りしかれる。このような供養がおのずからおこり、絶えることがない。また天人はみな、数えきれないほどの香り高い花や万にものぼるさまざまな種類の音楽で、無量寿仏をはじめ菩薩や声聞たちを供養する。香り高い花をひろく散らし、さまざまな音楽を奏で、自由に行き交うのであるが、そのときの快さ楽しさはとても言葉にいい尽くすことができないほどである 」
( 30) さらに釈尊が阿難に仰せになる。
「 無量寿仏の国に生れた菩薩たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない。
その国土のすべてについて自分のものだという思いはなく、それに執着する心もない。どの国へ行くのも帰るのも、進むのもとどまるのも、自分の思いにとらわれることがなく自由自在であって、何ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、人と競い争うこともない。あらゆるものに大いなる慈悲をもって利益を与えようとするのである。いつも柔和であり、怒りや恨みの思いを持たず、煩悩を離れた清らかな心を持ち、なまけおこたることがない。つまり、すべてのものを平等に救おうという思い、すぐれた志、深い慈悲、乱れることのない静かな心、あるいは教えを愛し楽しみ喜ぶ心ばかりで、すべての煩悩を滅し迷いの心を離れているのである。
またすべての菩薩の修行をきわめて、はかり知れない功徳をすべてその身にそなえ、深い禅定とさまざまな智慧を得て、七菩提分を修行し、仏のさとりを求める。その眼は五眼の徳をそなえており、清く澄みとおって、明らかでないものは何もなく、すべての世界を自由に見とおし、さまざまな道を見きわめ、平等の真理に到達し、すべてのものの本性をさとり尽している。こうして、何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く、迷いの世界はみな空であり、とらわれるようなものはないと見きわめて、仏のさとりを求め、巧みな弁舌の智慧によって人々の煩悩のわずらいを除くのである。真如の世界から現れ出た菩薩であるから、すべてのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手だてを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである。
これらの菩薩たちは、さまざまな功徳を積んで仏のさとりを敬い求め、すべては本来空であるとさとり、肉体も煩悩も、迷いの因果はともに尽き、奥深い教えを聞いて疑いためらうことなく、常によく修行する。その大いなる慈悲は実に深くすぐれており、すべてをわけへだてることがない。大乗の教えをきわめて、人々をさとりの世界に至らせ、疑いの網をすべて断ち切り、智慧はその心からわき出て、仏の教えをすべて残すことなく知り尽している。その智慧は大海のように深く広く、その禅定は須弥山のように揺らぐことがない。智慧の光が清く明らかなことは太陽や月に越えすぐれており、清らかな功徳はすべて欠けることなくそなわっている。
それはまた雪山のようである。すべての功徳を等しく清らかに照らし輝かすから。また大地のようである。清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、わけへだてなくその上に載せるから。また清らかな水のようである。さまざまな煩悩の汚れを洗い除くから。またさかんに燃える火のようである。煩悩の薪をみな残らず焼き尽くすから。また激しく吹く風のようである。どの世界にあってもさまたげられることなく活動するから。また大空のようである。すべてのものにとらわれないから。また蓮の花のようである。世俗の中にあっても汚れに染まらないから。また大きな乗りもののようである。多くの人々を載せて迷いの世界から運び出すから。また厚い雲のようである。雷鳴をとどろかせるように法を説き、目覚めていない人々の目を覚すから。また大雨のようである。すぐれた教えを甘露のように降りそそいで人々を潤すから。また鉄囲山のようである。さまざまな悪魔や外道のものも揺り動かすことができないから。また梵天のようである。さまざまな善い教えで人々を導くもっともすぐれたものであるから。また尼狗類樹のようである。すべてのものをおおってその木陰に入れるから。また優曇華のようである。世に出ることがまれであって容易に出会うことはできないから。また金翅鳥のようである。すぐれた力により外道のものをひれ伏させるから。また小鳥のようである。決して余分にはたくわえないから。また牛の王のようである。何ものにも負かされないから。また象の王のようである。すべてを巧みに制御するから。また獅子の王のようである。何ものをも恐れることがないから。その慈悲の広いことは大空のようである。すべての人々を平等に慈しむから。
また、菩薩たちは嫉妬心を滅ぼして、人をねたむようなことがないから、ひたすら教えを願い求めて飽きることがなく、いつも人々のために法を説こうと思い、疲れることがない。太鼓を打ち旗を立てて勇ましく進むように仏法をひろめ、智慧の光を輝かせて愚かさの闇を除き、互いに敬いあい、常に法を説き、雄々しく努め励んで、志が中途でひるむようなことはない。菩薩たちは、世を照らす灯となり、また人々のもっともすぐれた功徳のもととなる。いつも人々のために指導者となり、すべてのものに対して等しくわけへだてをせず、ひたすら正しい法を説こうと願い、他に喜び憂えることは何もない。さまざまな欲望の刺を抜いて、多くの人々を心安らかにするのである。このようにその功徳や智慧が実にすぐれているから、だれひとりとしてこれらの菩薩を尊敬しないものはない。 この菩薩たちは、煩悩の汚れを滅し、さまざまな神通力を自由に使うことができる。因の力、縁の力、意思の力、誓願の力、方便の力、不断に努める力、功徳を積む力、禅定の力、智慧の力、聞法の力、六波羅蜜を行ずる力、正しく念じ正しく観ずる不可思議な力、教えのままに人々を導く力など、このような力をすべてその身にそなえているのである。
その国の菩薩たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳や弁舌の智慧などをそなえて世間に並ぶものがない。また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる。さらに菩薩が修める六波羅蜜の行をきわめ、空・無相・無願三昧や、不生不滅をさとる三昧などのさまざまな三昧を修めて、声聞や縁覚の位をはるかに超えすぐれている。
阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。今、わたしはそなたのためにそのほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽すことはできない 」
お釈迦さま自身の説法
( 31) 釈尊は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。
「 無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。
それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。
ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や火災や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉して気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うようなことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。 また、貧しいものや身分の低いものは、いつも物がなくて苦しんでいる。田がなければ田が欲しいと悩み、家がなければ家が欲しいと悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品品に至るまで、なければないでまたそれらが欲しいと悩むのである。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりはすべてを取りそろえたいと思う。
そうしてやっとこれらのものがみなそろったと思っても、すぐにまた消え失せてしまう。そこで嘆き悲しんでふたたびそれを求めるが、もうそのときには得ることができず、ただ思い悩むばかりで身も心も疲れはて、何をしていても安まることがない。いつも憂いに沈んで、このように苦しむのである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。またときには、そういう苦悩のために、命を縮めて死んでしまうことさえある。善い行いをせず、修行して功徳を得ようともしないで、寿命が尽きて死んだなら、ただひとり遠く去っていく。行いに応じて行く先は決っているが、その善悪因果の道理をよく知るものはひとりもいないのである。
世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない。また持ちものは互いに融通しあって、むさぼり惜しんではならない。そしていつも言葉や表情を和らげて、逆らい背きあってはならない。争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。
人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっておリ、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。
それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。
このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることや、人に恵み施せば福が得られることを信じない。善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。 生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。
こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。
あるときは、一家の親子・兄弟・夫婦などのうちで、一方が死に一方が残されることになり、互いに別れを悲しみ、切ない思いで慕いあって憂いに沈み、心を痛め思いをつのらせる。そうして長い年月を経ても相手への思いがやまず、仏の教えを説き聞かせてもやはり心が開かれず、昔の恩愛や交流を懐かしみ、いつまでもその思いにとらわれて離れることがない。心は暗く閉じふさがり、愚かに迷っているばかりで、落ちついて深く考え、心を正しくととのえてさとりの道に励み、世俗のことを断ち切ることができない。
こうしてうかうかしているうちに一生が過ぎ、寿命が尽きてしまうと、もはやさとりを得ることができず、どうするすべもない。世の中すべてが濁り乱れており、みな欲望をむさぼって、迷うものが多く、さとるものが少ないのである。まことに世間はあわただしくて、何一つ頼りにすべきものがない。それにもかかわらず、身分の高いものも低いものも、富めるものも貧しいものも、みなともにあくせくと世渡りのために苦しんでいる。そして各自が毒を含んだ恐ろしい思いをいだき、外にはその思いを見せないで、みだりに悪事を犯すのである。これは世の道理に背き、人の道にもはずれた行いである。
このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである。ついにその罪が行きつくところまで行くと、定まった寿命が尽きないうちに、とつぜん命を奪われて苦しみの世界に落ち、繰り返しその世界に生れ変り死に変りして、何千億劫もの長い間、浮び出ることができない。その痛ましさはとうてい言葉にいい表せない。実に哀れむべきことである 」
( 32) 続けて釈尊が弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになる。
「 わたしは今、そなたたちに世間のありさまを語った。人々はこういうわけでさとりの道に入ることがないのである。そなたたちはじっくりとよく考えていろいろな悪を遠ざけ、善い行いに励むがよい。欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて失われてしまう。本当に楽しむべきものは何一つない。さいわいにも今は仏が世にいるのであるから、努め励んでさとりを求めるがよい。まごころをこめて無量寿仏の国に生れたいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである。
欲にまかせて仏の戒めに背き、人に後れを取るようなことがあってはならない。もし疑問があって、わたしの教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。わたしはそのもののために説いて答えよう 」
弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申しあげる。
「 世尊の神々しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことにありがたく存じます。世尊の教えを聞かせていただいて、よくよく考えてみますと、世の人々のありさまはまことに仰せの通りであリます。今、世尊が哀れみの心を持ってまことの道をお示しくださいましたので、わたしたちは真実を聞く耳と真実を見る目を得て、この先長く迷いを離れることができました。世尊の教えをお聞きして喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、みなそのお慈悲によって煩悩を離れることができます。
世尊の教えは、実に深く実に巧みであります。その智慧は、明らかにすべての世界、すべての時を見とおして、きわめ尽くさないことがありません。今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊が前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげであります。世尊の恩徳はひろく人々をおおい、さとりの徳は高くすぐれ、光明は余すところなく照らし、空の道理をきわめ尽しておいでになリます。
さらに、さとりの道を開いて人々を導き入れ、教えのかなめを説き述べ、誤った考えを正し、すべての世界を打ち震わせることは、まことにきわまりがありません。世尊は法門の王として、他の聖者がたに超えすぐれてひときわ尊く、ひろくすべての天人や人々の師として、その願いに応じて、みなさとりを得させてくださるのであります。今わたしたちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏のことを聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました 」
( 33) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたのいう通りである。仏を敬愛することは実に大きな功徳となる。仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着を根本から抜き去り、すべての悪の源を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている。教えを取りまとめる仏の智慧はすべてのさとりの道のかなめであり、教えは筋道を固くたもってはっきりしている。そしてこれを迷いの世界の人人に開き示して、まだ救われていないものを救い、迷いの世界とさとりの世界を正しく明かすのである。
弥勒よ、知るがよい。そなたは、はかり知れないほどの遠い昔から菩薩として修行をし、人々を救おうと願い、今日まで限りない時を経てきた。そしてその間、そなたによって仏道に入り、さとりを開いたものは数えきれないほど多い。しかしながら、そなたをはじめ、さまざまな世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、みなはるかな昔から迷いの世界に生れ変り死に変りして憂え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。
そして、今もなお迷いの世界にとどまり続けている。このたびそなたたちは仏に出会い、教えを聞き、また無量寿仏のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。わたしもそれをともに喜びたい。
そなたたちは、今こそ生・老・病・死の苦しみを離れようと思うがよい。この世は醜く汚れに満ちていて、楽しむべきものは何もない。すすんで決断して、身も行いも正しくし、より多くの善い行いをし、身をつつしんで心の汚れを洗いきよめ、言葉と行いに偽りなく、裏表のないようにするがよい。そして自分が迷いを離れるとともに他の人々をも救い、往生してさとりを得ることをひたすら願って、功徳を積むがよい。
一生涯、努め励み苦しんだとしても、それはほんのしばらくの間であって、後には無量寿仏の国に生れてきわまりない楽しみを受けるのである。それから先はずっとさとりにかなって智慧が明らかとなり、永遠に迷いの世界から離れ、ふたたび貪りや怒りや愚かさのために苦しむことはない。寿命は一劫でも百劫でも、あるいは千万億劫でも、自由自在に得ることができる。まことにその国ははからいを離れた世界であり、涅槃のさとりに至るのである。だから、そなたたちはそれぞれに努め励んで、往生を求めるがよい。疑いを起して途中でやめ、すすんで罪をつくることとなり、その国土のほとりにある七つの宝でできた宮殿に生れ、五百年の間、仏を見たてまつらないなどのわざわいを受けるようなことがあってはならない 」
そこで弥勒菩薩がお答えした。
「 世尊の懇切丁寧な教えをいただきましたからには、ひたすらさとりを求めて仰せの通りに修行し、決して疑うようなことはございません 」
五つの悪を説く
( 34) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類をみないことであろう。なぜなら、他の仏がたの国の天人や人人はおのずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである。今わたしがこの世界で仏となって、次に述べるような五悪と、五痛と、五焼に満ちた世の中にいることは、たいへんな苦労なのである。しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心を抑えて、五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させたいと思う 」
釈尊が続けて仰せになる。
「 それでは、その五悪、五痛、五焼とは何であるか、また、五悪を除いて五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えてさとりを得させるとはどういうことか、これから説き述べよう 」
( 35)釈尊が仰せになる。
「 第一の悪とは次のようである。天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている。
善い行いをすることを知らず、五逆十悪の罪を犯して道にはずれているものは、後にその罪の罰としておのずから悪い世界へ行かなければならない。天地の神々がその人の犯した罪を記録していて、決して許さない。それでこの世には、貧しいものや、身分の低いものや、身よりのないものや、身心の不自由なものや、才知の劣ったものなどさまざまな不幸な人がいるのである。また身分の高いものや、裕福なものや、才知のすぐれたものなどがいるのは、みな過去世で人を慈しみ、親に孝行を尽すというような善い行いをして徳を積んだことによるのである。
世の中には法令に定められた牢獄があるのに、少しも恐れないで悪い行いをし、罪を犯しその刑罰を受ける。それをどれほど逃れたいと思っても、逃れることはできない。この世にも現にこのような苦痛がある。さらに命を終えて後の世には、ひときわ深く激しい苦痛を受けなければならない。苦しみの世界に生れ変ることは、この世界でもっともきびしい刑罰を受けるのと同じほどの苦痛である。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受ける。次々とその身を変え姿を変えて苦しみの世界をめぐり、長短の寿命を受けるのであってそのこころはおのずから行くべきところに行くのである。そしてたとえひとりで行っても、前世に憎みあったもの同士は同じところに生れあわせ、かわるがわる報復しあって尽きることがなく、犯した罪が消えない限り、互いに離れることができない。こうして地獄や餓鬼や畜生の世界を転々とめぐって、浮かび出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。世の中にはこのような因果の道理がある。たとえ善悪の行いによって、すぐにその結果が現れなくても、いつかは必ずその報いを受けなければならない。これを第一の大悪、第一の痛、第一の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければその人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第一の大善というのである」
( 36) 釈尊が言葉をお続けになる。
「 第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家のものも、道義をまったくわきまえず、規則にしたがわず、贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺き惑わしあっている。言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞をいい、賢いものをねたみ、善人を悪くいい、他人をけなしおとしいれるのである。
もし上に立つものが愚かであり、よく考えずに下のものを用いると、下のものは、思うがままにいろいろな策を弄して巧みに悪事をはたらく。国法を守り世情によく通じたものがいても、上に立つものがその地位にふさわしい力量をそなえていないから、そのために欺かれて、忠義を尽すものはかえって不遇な目にあうばかりである。これは道理に反している。このように下のものが上のものを欺き、子は親を欺き、兄弟・夫婦・親族・知人に至るまで、互いに欺きあっているのである。それは各自が貪りと怒りと愚かさをいだいて、できるだけ自分が得をしようと思うからであって、この心は身分や地位にかかわらず、みな同じである。そのために家を失い身を滅ぼし、先のことも後のこともよく考えないで、親類縁者まで被害にあって破滅してしまう。
あるときは、親族や知人、町や村のもの、また素姓の知れないものたちが、ともに悪事にたずさわり、互いに利益を争って腹を立て、恨みをいだくこともある。また裕福でありながらも物惜しみして人に施し与えようとせず、財産に執着するばかりで身も心もすりへらしてしまう。こうしていよいよ命が終わる時には、何もあてにできるものがなく、結局、独り生れ来て独り世を去るのであって、何も持っていくことはできない。善も悪も禍も福も、すべては因果の道理にしたがうのであり、天人や人間として生れるものもいれば、地獄や餓鬼や畜生の世界に生れるものもいる。そうなってからいくら後悔しても、もはやどうにもならない。
世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず、ただ悪事を好んで、道理に背いたことばかりをするのである。他人が得をしていると、それを見ていつもうらやみ、盗んで手に入れようと思い、盗めばすぐに使いはたして、また手に入れようとする。心がよこしまで正しくないから、いつも人の顔色をうかがい恐れ、先のことなど考えもせず、事が起きてようやく後悔するというありさまである。
この世には現に法令に定められた牢獄があるから、罪に応じてその刑罰を受けなければならない。前世においてさとりの徳を信じず、功徳を積まずに、この世でまた悪を犯すなら、天の神がその罪を漏らさず記録しているから、命が終われば悪い世界に落ちなければならないのである。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを、第二の大悪、第二の痛、第二の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第二の大善というのである 」
( 37) さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「 第三の悪とは次のようである。世間の人々は、みな寄り集って同じ世界の中に住んでいるが、その生きている年月はそれほど長くはない。しかしその短い生涯の中にも、上は賢いものや力のあるもの、また身分の高いものや裕福なものなど、下は貧しいものや身分の低いもの、また力のないものや愚かなものなどに分かれる。そしてそのどちらの中にも、善くないものがいるのである。
そのものはいつもよこしまな思いをいだき、みだらなことばかり考えて、悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。そしてあくまで執念深く、みだらな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使ってみだらな振舞いをし、自分の妻をうとましく思ってひそかに他の女性のところに出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。
あるものは徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで、欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。あるものは他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人をおどして財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第にみだらな楽しみをむさぼる。ときには親族に対してさえも、年の上下に関係なく礼儀を乱して、家族や親類などがそのために憂え苦しむのである。
このような人々も法令で禁じていることを恐れないものであるが、こういう悪は人にも鬼神にも知られ、太陽や月の光も照らし出し、天地の神も記録している。このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第三の大悪、第三の痛、第三の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないようにと努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第三の大善というのである 」
( 38) さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「 第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起すのである。
あるいは善人をねたみ賢いものをおとしめて、自分は陰にまわって喜んでいる。また両親に孝行をせず、恩師や先輩を軽んじ、友人に信用なく、何ごとにも誠実さを欠いている。しかも自分自身は尊大に構えて、自分ひとりが正しいと思い、むやみに威張って人を侮り、自分の誤りを知らずに、悪を犯して恥じることがない。また自分の力を誇って、人が敬い恐れることを望むというありさまである。
このような人々は天地の神々や太陽や月に知られることを恐れず、教え導いても善い行いをせず、まったく手の施しようがない。自身は横着を決めこんで、いつまでもそうしていられると思い、将来を憂えることなどなく、いつも傲慢な心をいだいているのである。
このようなさまざまな悪は天の神によって残らず記録される。だから、その人が前世で少しばかり功徳を積んでいたことにより、しばらくの間はそのおかげで都合よくいくとしても、この世で悪を犯して功徳が尽きてしまえば、多くの善鬼神に見放され、ひとりきりとなり、もはや何一つ頼るものがなくなってしまう。そうして寿命が尽きると、これまでに犯したさまざまな悪がおのずからその身に集まってきて、その人とともに次の世に至る。また天の神がその行いをすべて記録しているから、その罪に引かれて行くべきところへ行くのである。罪の報いは必然の道理で、決して逃れることができない。やがては必ず地獄の釜に入って、身も心も粉々に砕かれて痛み苦しむことになる。そのときになってどのように後悔しても、もはや取り返しはつかない。まことに因果の道理は必然であって、少しのくい違いもないのである。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第四の大悪、第四の痛、第四の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に身を焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も行いも正しくし、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第四の大善というのである 」
( 39) さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「 第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困りはてる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉も荒く口答えをする。その逆らうようすはまるでかたきを相手にするようであって、こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。
また物のやりとりにしまりがなく、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを考えることなく、無理に人を押えつけようとし、人が善いことをするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。親兄弟や妻子など、一家の暮しむきがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。心にはいつも悪い思いをいだき、口にはいつも悪い言葉をいい、身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。
また古の聖者たちや仏がたの教えを信じない。修行により迷いの世界を離れてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生れ変わることを信じない。善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家のものを傷つけようとさえ思っている。そのため身内のものから憎みきらわれて、そんなものは早く死ねばいいと思われるほどである。
このような世間の人々の心はみな同じである。道理が分らず愚かでありながら、自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生れてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬのである。それを哀れに思って教え諭し、善い心を起させようとして、生死・善悪の因果の道理が厳然としてあることを説き示すのであるが、これを信じようとしない。どれほど懇切丁寧に語り聞かせても、それらの人には何の役にもたたず、心のとびらを固く閉ざして、少しも智慧の眼を開こうとしない。そして、いよいよこの世の命が終ろうとするとき、心に悔いと恐れがかわるがわる起きるのである。以前から善い行いをせずにいて、そのときになってどれほど後悔しても、もはや取り返しはつかない。
この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、だれもこれに代わるものはない。まことに因果応報の道理は必然である。悪い行いをすれば罪はそのものにつきしたがい、決して捨て去ることはできない。善人は善い行いをして、より好ましい世界へ生れ変り、ますますさとりの世界へ近づくのであり、そして悪人は悪い行いをして、より苦しい世界へ生れ変り、ますます深く迷いの世界へ沈むのである。この道理はだれも知るものがなく、ただ仏だけが知っている。そのため、わたしはこの道理を人々に教え示しているのであるが、信じるものは少ない。それでいつまでも生れ変り死に変りして、迷いの世界を離れることができないのである。このような世間の人々のありさまは、そのすべてを述べ尽くすことなどとてもできない。
このようにして、悪を犯したものは、おのずから地獄や餓鬼や畜生の世界で、はかり知れない苦しみを受け、その中を転々とめぐって、果てしなく長い間浮び出るときがなく、その苦しみを逃れることは難しい。その痛ましさはとてもいい表すことができない。これを第五の大悪、第五の痛、第五の焼という。その苦しいことはちょうど燃えさかる火に焼かれるようである。
もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、迷いの世界を離れて浄土に生れ、さとりを得ることができるであろう。これを第五の大善というのである 」
( 40) 続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 今わたしがそなたたちに語ったように、世の人々はこの五悪のために苦しんでいるのであって、その五悪から次々に五痛・五焼の報いが生れるのである。いろいろな悪ばかりを犯して功徳を積まないなら、みなおのずからさまざまな苦しみの世界に生れる。あるものはこの世で難病をわずらい、死にたいと思っても死ぬことができず、生きたいと思っても生きることができないで、罪の報いを世の人々の前にさらすのである。そして命が終われば、その行いに応じて地獄や餓鬼や畜生の世界に沈み、はかり知れない苦しみにその身を焼き焦がして苦しむのである。
長い時を経てふたたび人間界に生れても、また互いに憎みあって、小さな悪から始まりやがて大きな悪を犯すようになる。これはすべて、財欲や色欲をむさぼって人に恵みを施すことができないからである。人々は愚かな欲望に追い回されて、わがままな考えをいだき、いつまでも煩悩に縛られたままで、自分の利益ばかりを考えて他人と争い、悪い行いを反省してすすんで善い行いをしようとはしない。たまたま裕福になり繁栄しても、一時の快楽にふけり、耐え忍ぶことがなく、すすんで善い行いをしようとしないために、その勢いも長続きしないですぐに落ちぶれてしまう。身に受ける苦しみは尽きることなく、後の世になるほどその激しさを増すのである。
因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕えられて、逃れることができない。ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変ることがない。まことに痛ましい限りではないか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう 」
さらに釈尊が仰せになる。
「 そなたをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい。各自がその戒めを守って、聖者を尊び善人を敬い、ひろく人々に愛情をそそぎ慈悲の心を垂れて、決して仏の教えに背くことがあってはならない。そしてさとりの世界を求めて、迷いの世界にとどまる原因を断ち、さまざまな悪をその根本から抜き去り、地獄や餓鬼や畜生などのはかり知れない苦悩の世界から離れよ。
そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。よく耐え忍んで努め励み、心を静めて智慧をみがき、次々と互いに導きあって、すすんで徳を積み善い行いをするがよい。心を正しくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる。なぜなら、無量寿仏の国はさとりにかなった世界であって、だれでも多くの善い行いをすることができ、まったく悪のないところだからである。またこの世界で昼夜十日間善い行いに励んだなら、他のさまざまな仏がたの国で千年間善い行いに励むよりも、さらにまさっているといえる。なぜなら他の仏がたの国は、善い行いをするものが多く悪い行いをするものが少なく、功徳がおのずからそなわり、悪を犯すことのない世界だからである。ただこの娑婆世界だけが悪が多くて、功徳がおのずからそなわることなどなく、苦労して欲望を満たそうとし、互いに欺きあって身も心も疲れはて、苦を飲み毒を食らって暮しているようなありさまで、いつもあくせくとして、これまで少しの間も安らいだことがない。
わたしは、そなたたち天人や人々を哀れみ、懇切丁寧に教え諭して功徳を積ませ、相手に応じた導き方で教えを授けるのであるから、これを信じて修めないものはない。すべてのものは願いのままにさとりを得るのである。
仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである 」
釈尊が仰せになる。
「 わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである。しかしわたしがこの世を去った後には、仏の教えがしだいに衰えて、人々は偽りが多くなり、ふたたびいろいろな悪を犯して、五痛と五焼の報いをもと通り受けるようになる。それは時を経るにしたがってますます激しくなるであろう。そのようすを一々詳しく説くことはできないが、今はただ、そなたたちのために簡単に述べたのである」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 そなたたちはそれぞれにこのことをよく考え、互いに教えあい戒めあって、仏の教えを正しく守り、決してこれに背くようなことがあってはならない 」
そこで弥勒菩薩は合掌してうやうやしくお答えした。
「 世尊はたいへん懇切丁寧にお説きくださいました。世の人々のありさまについては、実に仰せの通りであります。そのために如来は、これらの人々を慈しみ哀れんで、すべてのものをお救いくださるのです。わたしたちもまた、世尊の丁重な教えをいただいて、決して背くことはありません 」
智慧段
( 41) 釈尊はさらに阿難に仰せになった。
「 阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほめたたえておられるのだから 」
そこで阿難は、仰せ通り座を立って衣をととのえ、姿勢を正して西方に向かい、うやうやしく合掌し、大地に身を伏して、はるかに無量寿仏を礼拝して申しあげた。
「 世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を、まのあたりに拝ませてください」 この言葉が終わるとすぐさま無量寿仏は大いなる光明を放ち、ひろくすべての仏がたの国々をお照らしになった。すると、鉄囲山や須弥山やその他大小の山々など、すべてのものが等しく金色に輝いた。ちょうど、この世の終わりに際して大洪水が世界中に満ちあふれるとき、さまざまなものがみなその中に沈み去って、見わたす限り一面にただ水ばかりが見えるように、無量寿仏の光明のために声聞や菩薩などのすべての光明はみなおおい隠されてしまい、ただその仏の光だけが明るく輝いたのである。
そのとき阿難は、無量寿仏のお姿が、ちょうど須弥山がすべての世界の上に高くそびえているように、実に気高く、そのお体から放たれる光明がすべての世界を残らず照らすようすをまのあたりに見たてまつった。ただ阿難だけでなく、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、ここに集まっていたものはみな同時に見たてまつり、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界を見たのである。
( 42) そこで釈尊は阿難と弥勒菩薩に仰せになった。
「 そなたたちは、その国の大地から天空に至るまでの間にあるすべてのものが、実にすぐれて清らかなことをよく見ただろうか」
阿難がお答えする。
「 はい、その通りに見させていただきました」
「 ではそなたは、無量寿仏が、すべての世界に響きわたる声で教えを説き述べて、人々を導いておられるのを聞いたか」
「 はい、その通りに聞かせていただきました」
「 では、その国の人々が、百千由旬もある大きな七つの宝でできた宮殿にいながら、何のさまたげもなく、ひろくすべての世界へ行き、さまざまな仏がたを供養しているのを見たか」
「 はい、見させていただきました 」
「 ではまた、その国の人々の中に胎生のものがいるのを見たか」
「 はい、それも見させていただきました」
釈尊が仰せになる。
「 その胎生のもののいる宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬という大きさで、みなその中でとう利天と同じように何のさまたげもなくさまざまな楽しみを受けているのである」
( 43) そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「 世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか 」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
これに対して、無量寿仏の五種の智慧を疑いなく信じてさまざまな功徳を積み、まごころからその功徳を持ってこの国に生れようとするものは、ただちに七つの宝でできた蓮の花に座しておのずから生れる。これを化生といい、たちまちその姿を光明や智慧や功徳などを、他の菩薩たちと同じように、欠けることなく身にそなえるのである。
( 44) また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
弥勒よ、よく知るがよい。化生のものは智慧がすぐれているが、胎生のものは智慧が劣っていて、五百年の間まったく無量寿仏を見たてまつらず、教えを聞かず、菩薩や声聞たちを見ず、また他の仏を供養することもできない。菩薩の自利利他の修行ができず、功徳を積むことができない。よく知るがよい。これらのものは、過去世において智慧がなく、仏の智慧を疑ったからにほかならない」
( 45) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「 たとえば転輪聖王が王の宮殿とは別に七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、いろいろな旗などがかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その宮殿の中に入れられて黄金の鎖でつながれるのであるが、食べものや飲みもの、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、すべて父の王と同じように何一つ不自由することがない。さてその場合、王子たちはそこにいたいと願うだろうか 」
弥勒菩薩がお答えする。
「 いいえ、そのようなことはないでしょう。いろいろな手だてを考え、力のある人を頼ってそこから逃れ出たいと思うでしょう」
そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。
しかしこれらのものが、その苦は仏の知恵を疑った罪によると知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、すぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養することができる。また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさまざまな功徳を積むこともできる。
弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである。そうであるから、無量寿仏のこの上ない智慧を疑いなく信じるがよい 」
( 46) 弥勒菩薩がお尋ねした。
「 世尊、この世界から、不退転の位にある菩薩がどれくらい無量寿仏の国に生れるでしょうか 」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 この世界からは、六十七億の不退転の位にある菩薩がその国に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである。その他、行の劣った菩薩やわずかな功徳しか積んでいないものも数えきれないほどいるが、どのものもみなその国に往生するであろう」
釈尊が続けて仰せになる。
「 この世界のものだけが無量寿仏の国に往生するわけではない。他の仏の国からもまた同様に数多くその国に往生するのである。
第一に遠照仏の国からは、百八十億の菩薩がみな往生するであろう。第二に宝蔵仏の国からは、九十億の菩薩がみな往生するであろう。第三に無量音仏の国からは、二百二十億の菩薩がみな往生するであろう。第四に甘露味仏の国からは、二百五十億の菩薩がみな往生するであろう。第五に龍勝仏の国からは、十四億の菩薩がみな往生するであろう。第六に勝力仏の国からは、一万四千の菩薩がみな往生するであろう。第七に師子仏の国からは、五百億の菩薩がみな往生するであろう。第八に離垢光仏の国からは、八十億の菩薩がみな往生するであろう。第九に徳首仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。第十に妙徳山仏の国からは、六十億の菩薩がみな往生するであろう。第十一に人王仏の国からは、十億の菩薩がみな往生するであろう。第十二に無上華仏の国には、数えきれないほどの菩薩がいて、みな不退転の位にあり、すぐれた智慧をそなえている。すでに数限りない仏がたを供養し、普通なら百千億劫にもわたって修めなければならない尊い行を、わずか七日のうちに修めたほどのすぐれた菩薩であるが、これらの菩薩もみな往生するであろう。第十三に無畏仏の国には、七百九十億のすぐれた菩薩たちをはじめ、行の劣った菩薩や修行僧も数えきれないほどいるが、みな往生するであろう 」
続けて釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 この十四の仏の国のものだけが往生するわけではない。数限りないすべての仏の国からも同じようにその国に往生するのであり、その数は実に限りなく多い。わたしが、ただそのすべての仏がたの名とそれぞれの国から無量寿仏の国に生れる菩薩や修行僧の数をあげるだけでも、夜となく昼となく、一劫という長い間をかけても説き尽すことはできない。今はそなたのために、そのほんの一部を説いたに過ぎない 」
教えを後世に伝える方法
( 47) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」
釈尊が仰せになる。
「 わたしは今、すべてのもののためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土のようすを残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら、ためらうことなく問うがよい。わたしがこの世を去った後に疑いを起すようなことがあってはならない。やがて将来わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
「 如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となリ、さまざまなさとりへの道を示し、ついにこの無量寿仏の教えを説くに至ったのである。そなたたちは、ただこれを信じて教えのままに修行するがよい 」
( 48) 釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くのものが、みなこの上ないさとりを求める心を起した。一万二千那由他の人々が清らかな智慧の眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢のさとりに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、さまざまな功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。
そのとき、天も地もさまざまに打ち震え、大いなる光明はひろくすべての国々を照らし、実にさまざまな音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。
釈尊がこの教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめ、さまざまな世界から来た菩薩たちや、阿難などの声聞の聖者たち、ならびにそこに集うその他すべてのものは、その尊い教えを承って、だれひとりとして心から喜ばないものはなかった。
仏説無量寿経 下巻
出典:本願寺出版社発行 浄土三部経(現代語版)初版。 著作権:浄土真宗本願寺派。聖典編纂委員会 |