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機無・円成・回施・成一

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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きむ・えんじょう・えせ・じょういつ

 機無(き-む)円成(えん-じょう)回施(え-せ)成一(じょう-いつ)とは、「信巻」三一(さん-いち)問答の法義釈(信巻 P.231)で、至心(し-しん)信楽(しん-ぎょう)欲生(よく-しょう)の三心は、本来真実の三心をおこすことの出来ない衆生に代わって阿弥陀仏(因位の法蔵菩薩)が成就して回向して下さる心であることを示す。
 すなわち浄土真宗における信の本体は、阿弥陀仏の大悲の仏心であり、衆生を摂取する決定摂取心である。この心を三心成一の信楽として衆生に回施されるから、これを正しく受けいれた仏心であるような信は必ず往生成仏の真因となるのである。仏心は無漏の金剛心であるから、これを正しく受けることを「正受金剛心(まさしく金剛心を受けて)」(信巻 P.244)とされ、真実の信心は阿弥陀仏の心を受けることであり。私の側にみないのが浄土真宗の信心である。
あらわし方が少しく違うが、「仏願の生起本末」に準じていえば、機無は仏願の「生起」、円成は仏願の「本」であり、回施は仏願の「末」である。なお、機無・円成・回施・成一の表現は、至心、信楽、欲生で少しく顕わし方が違うので、それぞれの文にあたって領解すること。→安心論題/三心一心

  • 機無(き-む) 衆生(機)には、清浄真実の心は全く無い。因位の阿弥陀仏が衆生をみそなわすに、煩悩成就の衆生には、生死を離れて仏となる因である清浄で真実な心は全く存在しないということ。この機無は、機の深心に通じる。
  • 円成(えん-じょう) 阿弥陀仏が衆生に代わって、兆載永劫に衆生を救うために清浄真実なる因を、(まどか)に成就されたこと。
  • 回施(え-せ) 阿弥陀仏が成就した、往生成仏の涅槃のさとりの因である功徳を、衆生に等しく回向し施して下さること。
  • 成一(じょう-いつ) 至心も欲生も、疑蓋無雑の一心である信楽に帰一するということ。