道
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どう/みち
Ⅰ (どう) さとりへの道。また、さとりのこと。(信巻 P.237,238,254, 化巻 P.407)
Ⅱ (どう) 智慧のこと。(信巻 P.252)
Ⅲ (どう) 仏果。仏のさとり。 (証巻 P.340, 浄文 P.482,讃弥陀偈 P.171、要集 P.868)
Ⅳ (どう) 行の意、 (真巻 P.359)
Ⅴ (みち) 神道を指す。(御伝鈔 P.1058)
Ⅵ (どう) 仏道。 (安楽集 P.279、安楽集 P.283)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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形而上者謂之道 形而下者謂之器。
- 形よりして上なる者、之(これ)を道といい、形よりして下なる者、之を器といふ。(『易経』繫辭上])
天地宇宙の間には、形のあるものと形のないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるので、器といわれ、それ以上のものは、形のないもので、道という。この『易経』の形而上の語から現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを対象とする学問を意味する metaphysics を日本語に翻訳して「形而上学」と呼ぶようになった。
《道》という漢字は、長く通じている「みち」、ひいて、みちを行く、「みちびく」意を表わす。ここから正しいすじみち、方法、手段の意を持ち、老荘(道教)ではタオとして宇宙の根本原理をいう語として用いられた。また道には「いう(言)」という意味もあり、六字釈で帰命の命の八訓で道をあげておられる。道の言うという意味では禅の語録の表現ではよく使われ、現代でも報道(知らせ言う。報には知らせるという意がある)と熟語されて使われている。
仏教では、この道という漢字を、梵語マールガ mārga(さとりへの道、智慧へいたる過程、目的に至らせる通路、行うべき道)の翻訳語として使用したり、梵語ガティ gati(趣、六趣、六道の道など)の訳としたり、また梵語ボーディ bodhi(覚りの智慧)の音写語の菩提の意味としても使われた。このように仏教で、道という語は、①真理そのものを顕わす場合と、その②真理を悟る智慧を顕わす場合と、その③真実の智慧に至る過程を顕わす場合と、そして④歩むべき実践法の(梵語チャリャー caryā)を顕わす場合があるなど、非常に広い意味を持っているので、文脈に沿って読む必要がある。 『論註』では阿耨多羅三藐三菩提を、
- 「阿」は無に名づく、「耨多羅」は上に名づく、「三藐」は正に名づく、「三」は遍に名づく、「菩提」は道に名づく (*)