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大多勝

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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だい・た・しょう

『智度論』では、偉大や優れている意を示す、梵語の摩訶(梵 mahā マカー、マハー)には大・多・勝の意味があるとしていた。
御開山は、なんまんだぶを「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と「大行」とされておられた。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(行巻 P.141)

先人は、この文を『智度論』の大・多・勝に配当して、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」とは無量の徳での義にあたり、「極速円満す」は勝れた用徳での義、「真如一実の功徳宝海なり」は、広大無辺な真如にかなう性徳で、の義にあたると云われていた。
なお、「行巻」引文の『十住毘婆沙論」「浄地品」では、

 問うていはく、二種の増上あり。一つには、二つにはなり。いまの説なにものぞやと。
 答へていはく、このなかの二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味はひを得るがゆゑに、信力転増す。この信力をもつて諸仏の功徳無量深妙なるを籌量してよく信受す。このゆゑにこの心またなり、またなり。深く大悲を行ずとは、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆゑに名づけて深とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆゑに名づけてとす。(行巻 P.151)

とある。御開山は当然この「大多勝」の三意を御存じであったから『唯信鈔文意』では「多念仏」の多を釈し、

 「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「」はのこころなり、のこころなり、増上のこころなり。はおほきなり、はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。(唯文 P.707)

と、されておられた。

『智度論』(*)

摩訶秦言大。或多或勝。
摩訶とは、秦(シナ)に「」、或いは「」、或いは「」と言う。
云何大。一切眾中最上故。一切障礙斷故。天王等大人恭敬故。是名為大。
云何が、「大」なる。一切の衆中に、最上なるが故に、一切の障礙を断つが故に、天王等の大人の恭敬するが故に、是れを名づけて「大」と為す。
云何多。數至五千故名多。
云何が、「多」なる。数の五千に至るが故に、「多」と名づく。
云何勝。一切九十六種道論議能破。故名勝。
云何が、「勝」なる。一切の九十六種の道を論議して、能く破るが故に、「勝」と名づく。