大多勝
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だい・た・しょう
『智度論』では、偉大や優れている意を示す、梵語の摩訶(梵 mahā マカー、マハー)には大・多・勝の意味があるとしていた。大乗の「大」である。↓
御開山は、なんまんだぶを「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と「大行」とされておられた。
- 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれ①もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。②極速円満す、③真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(行巻 P.141)
先人は、この文の「大行」を『智度論』の大・多・勝に配当して、①「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」とは無量の徳で多の義にあたり、②「極速円満す」は勝れた用徳で勝の義、③「真如一実の功徳宝海なり」は、広大無辺な真如にかなう性徳で、大の義にあたると云われていた。量徳(多)、用徳(勝)、性徳(大)である。
なお、「行巻」引文の『十住毘婆沙論」「浄地品」では、
- 問うていはく、二種の増上あり。一つには多、二つには勝なり。いまの説なにものぞやと。
- 答へていはく、このなかの二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味はひを得るがゆゑに、信力転増す。この信力をもつて諸仏の功徳無量深妙なるを籌量してよく信受す。このゆゑにこの心また多なり、また勝なり。深く大悲を行ずとは、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆゑに名づけて深とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆゑに名づけて大とす。(行巻 P.151)
とある。御開山は当然この「大多勝」の三意を御存じであったから『唯信鈔文意』では「多念仏」の多を釈し、
- 「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。(唯文 P.707)
と、されておられた。「第十七願」は、諸仏に「咨嗟称我名」と諸仏に阿弥陀仏の本願を讃嘆させる願であるから仏の作す仏の行である「大行」なのであった。→第十七願 →摩訶止観
『智度論』(*)
- 摩訶秦言大。或多或勝。
- 摩訶とは、秦(シナ)に「大」、或いは「多」、或いは「勝」と言う。
- 云何大。一切眾中最上故。一切障礙斷故。天王等大人恭敬故。是名為大。
- 云何が、「大」なる。一切の衆中に、最上なるが故に、一切の障礙を断つが故に、天王等の大人の恭敬するが故に、是れを名づけて「大」と為す。
- 云何多。數至五千故名多。
- 云何が、「多」なる。数の五千[1]に至るが故に、「多」と名づく。
- 云何勝。一切九十六種道論議能破。故名勝。
- 云何が、「勝」なる。一切の九十六種の道を論議して、能く破るが故に、「勝」と名づく。
- ↑ 所釈の『摩訶般若波羅蜜經』に、 「如是我聞。一時佛住王舍城耆闍崛山中。共摩訶比丘僧大數五千分。 (是の如く、我れ聞けり。一時、仏は王舎城の耆闍崛山中に住まり、摩訶比丘僧の大数五千分と共にしたもう)」とある。