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釈迦牟尼仏

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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しゃかむにぶつ

 釋迦牟尼仏 梵語シャーキヤムニ・ブッダ(Śākyamuni-buddha)の音写。釈迦は種族の名、牟尼は聖者(しょうじゃ)、釈迦族の聖者の意。釈尊ともいう。仏教の開祖。約二千五百年前、インドのカピラヴァストゥの王、浄飯を父とし、摩耶夫人を母として誕生した。二十九歳の時、道を求めて出家し、多くの師を歴訪したが満足せず、尼連禅河のほとりの山林で六年間にわたり苦行した。三十五歳の時、のちにブッダガヤー(Buddhagayā)と呼ばれる地の菩提樹の下に座って瞑想し、ついにさとりを開いた。成道後、梵天の勧請によって伝道を決意し、鹿野苑(現在のヴァーラーナシ〈ベナレス〉郊外)に赴いて五比丘に初めて説法(初転法輪(しょてんぽうりん))をした。以後四十五年間各地を巡って多くの人々を教化し、八十歳の時、クシナガラの沙羅樹のもとに身を横たえて入滅した。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:釈尊

しゃくそん/釈尊

紀元前四六三—三八三年頃(生存年代には諸説あり)。仏教の開祖。中インドの北方、ガンジス川流域で活躍した人。Ⓢbhagavān Śākyamuni。釈迦牟尼世尊釈迦釈迦世尊釈迦牟尼などともいう。浄飯王(シュッドーダナⓈŚuddhodanaⓅSuddhodana)と摩耶夫人(マーヤーⓈⓅMāyā)の長子。幼名は悉達多(シッダールタⓈSiddhārthaⓅSiddhattha)、姓を瞿曇くどん(ガウタマⓈGautamaⓅGotama)という。釈迦牟尼は、釈迦族(ⓈŚākyaⓅSakkaⓅSakya)の聖者(muni)の意味で、世尊(bhagavat)は尊い人を表す。前四六三年頃ルンビニーで生まれ、カピラヴァスツの太子として育てられる。一六歳頃に耶輸陀羅(ヤショーダラーⓈYaśodharāⓅYasodharā)と結婚し、羅睺羅(ラーフラⓈⓅRāhula)が生まれる。なお、妻の名をバッダロッチャーやゴーパーとする経典もある。シッダールタは二九歳で出家し、三五歳で覚りを開き仏陀となり、その後、四五年間にわたり伝道の旅を続け、八〇歳で入滅した。釈尊が三五歳で開いた覚りと、その後伝道の旅で残した様々な教えが仏教の礎となり、さらに後世には、仏塔などを通して釈尊そのものへの信仰が発展し、仏教の教理は多様化していった。このような流れの中で、紀元前後には大乗仏教が興起し、大乗経典の編纂が始まったと考えられている。大乗仏教の編纂者たちは、経典の冒頭をそれまでの阿含経典と同様に「如是我聞」とし、経典の説示者を釈尊とした。これが、大乗非仏説論争を巻き起こすことになるが、インド国内をはじめ中国・日本・チベットでは多くの大乗経典を釈尊の直説として受容し、それぞれの教理を発展させた。このような中で、大乗仏教の一つである浄土教における釈尊の役割は、浄土三部経の説示にあり、衆生西方極楽浄土へ向かわせる点にある。すなわち善導が『観経疏』玄義分において「仰ぎおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したまう」(聖典二・一六三/浄全二・二上)といい、『同』散善義の二河白道の説示において「仰いで釈迦発遣して西方に指向せしむる」(同二九九/同六〇下)というように、釈尊は、衆生をこの娑婆世界から西方極楽浄土に向かわせる仏であり、極楽世界から衆生を迎える阿弥陀仏と共に二尊とされる。浄土の教えはこの二尊によるものであり、玄義分冒頭に「今、二尊の教に乗じて、広く浄土の門を開かん」(聖典二・一六一/浄全二・一下)というのも、これを明かしたものであろう。法然はこのような善導の立場を継承しつつ『選択集』一六において、八種選択のうち「讃歎と留教と付属と、この三はこれ釈迦選択なり」(聖典三・一八四~五/昭法全三四七)と述べ、阿弥陀仏や諸仏と同様に、釈尊もまた念仏の教えを選択していることを示している。このように浄土教、さらには念仏往生の教えが、釈尊の教法であることは、善導から法然に至る系譜の中で、理論的に確立され、浄土宗の基盤となっている。


【参考】中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』(『中村元選集〔決定版〕』一一、春秋社、一九九二)


【参照項目】➡大乗非仏説論争八種選択仏滅


【執筆者:石田一裕】