四十七対
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そもそも「行文類」で顕された本願の念仏(名号)は、万人を救うて浄土へあらしめるべく如来が選択された無上功徳の行法であるから、正定の業といわれ、浄土へ往生すべき「能生の因」ともいわれている。
そしてそれは第十七願に誓われているように、十方の諸仏の讃嘆をとおして、十方世界の衆生にひとしく回向されている普遍の法であった。
それに対して信心とは、「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」〔一多証文〕といわれているように、疑いをまじえずに本願の名号を領受している状態を表していた。
すなわち信心は、法を機の上に領受した「機受」をあらわす言葉であった。いいかえれば大行が万人を救う普遍の行法をあらわしているのに対して、大信はその法が個人の中に実現して、一人一人の成仏の因種となっていることをあらわしているのである。
このように行と信は、法と機の関係として見ていくのが親鸞聖人であった。
それゆえ大行を教法の成就を誓う第十七願で顕し、大信を機受を誓う第十八願で顕されるのである。
すでに述べたように「行文類」の一乗海釈のなかで、本願の念仏を絶対不二の教法とよび。本願の信心を絶対不二の機とよばれているのは、念仏と信心は、切り離すことのできない一乗の法と機であるとみられていたからである。(教行信証の宗教構造 p.265)