十一対
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じゅう-いちたい
御開山は「行巻」に「一乗の機教」として、教法について四十七(八)対を挙げ絶対不二の教法を示し、次に、絶対不二の機を、
- また機について対論するに
として、浄土門の「機」を対論し、金剛の信心は絶対不二の機であるとされていた。
行と信は、法と機の関係として見ていくのが親鸞聖人であった。{乃至}本願の念仏を絶対不二の教法とよび、本願の信心を絶対不二の機とよばれているのは、念仏と信心は、切り離すことのできない一乗の法と機であるとみられていたからである。(梯實圓『教行信証の宗教構造』 p.265)→トーク:絶対不二
- また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくのごとし。
- しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。
- 現代語
- また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
- 信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
- 善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雑毒の善しかないから悪人と貶称される。
- 正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
- 是非対、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
- 実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
- 真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
- 浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
- 利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
- 奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
- 豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
- 明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
- このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。