大日本国粟散王聖徳太子奉讚
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大日本国粟散王聖徳太子奉讚
(一)
和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉讚不退ならしめよ
(二)
上宮皇子方便し
和国の有情をあわれみて
如来の悲願を弘宣せり
慶喜奉讚せしむべし
(三)
帰命尊重聖徳皇
用明天皇の親王のとき
穴太部の皇女の
御はらよりぞ誕生せる
(四)
皇女の御夢にみたまひき
金色の聖僧あらわれて
われよをすくうねがひあり
しばらく御はらにやどるべし
(五)
われこれ救世菩薩なり
いゑ西方にありとしめしてぞ
おどりて御くちにいりたまふ
はらまれいます菩薩也
(六)
敏達天皇あめのした
おさめまします元年の
正月一日に夫人の
みやのうちおぞ御遊せし
(七)
御廐のほとりにいたるほど
おぼえずしてぞ誕生せし
女孺いだいてすみやかに
寝殿にいりたまひけり
(八)
金色のひかり西方より
きたりいりてぞてらしける
御身ははなはだかうばしく
ひかずをふるにもにほひけり
(九)
太子誕生ありしより
よつきののちにめづらしく
よくものがたりしたまひて
みだりになきさけびましまさず
(一〇)
太子の御とし二歳の
二月十五のあしたにぞ
ひむがしにむかひて合掌し
南无仏と再拝す
(一一)
太子六歳の御ときに
百済国より法師・尼の
経論わたりきたりしに
皇に奏したまひけり
(一二)
六斎日をおしへしむ
この日は梵王・帝釈の
くにのまつりごとをみたまふに
ものゝいのちをころさざれ
(一三)
みかどよろこびましまして
勅宣くにゝくだされて
この日日にはことさらに
ものゝいのちをたすくべし
(一四)
新羅国より仏像を
たてまつれりきその時に
太子奏したまひけり
西国のひじり釈迦牟尼仏
(一五)
日羅上人新羅より
難波の館にぞきたれりし
これをあやしみきこしめし
太子ひそかにみそなわす
(一六)
そのとき日羅ひざまづき
たなごゝろをあわせてぞ
敬礼救世観音大菩薩
伝灯東方粟散王と礼せしむ
(一七)
日羅おほきにそのみより
しろきひかりをはなちけり
太子そのとき眉間の
ひかりをはなちたまひけり
(一八)
百済国より弥勒の
石の像をぞわたされき
蘇我の馬子の宿禰は
この像をうけとりたてまつる
(一九)
いゑのひむがしにてらをたつ
尼三人をすゑやしなひき
大臣塔をつくれりき
太子ことに令旨あり
(二〇)
塔は仏舎利のうつわもの
釈迦仏の御舎利ぞ
はからざるにもおのづから
いできたりますことあらむ
(二一)
そのとき斎飯のうえにして
仏舎利一粒えたりけり
瑠璃のつぼにいれたまひ
塔に安置し礼しける
(二二)
太子・大臣ひとつにて
三宝をひろめましましき
このときくにのうちにして
やまうおこりて人しにき
(二三)
弓削の守屋と中臣の
勝海のむらじもろともに
皇に奏してまふさしむ
このくにもとより神をあがむ
(二四)
馬子の大臣仏法を
おこしおこなふこのゆへに
やまふもおこりたみもしぬ
人のいのちはとゞまらじ
(二五)
帝皇御ことにのたまはく
まふすところはあきらけし
仏法をはやくとゞめよと
勅宣くにゝくだされき
(二六)
太子奏せしめましましき
ふたりの人はもろともに
因果のことわりしらぬなり
わざわいさだめてみにあらむ
(二七)
よきことことにおこなへば
さいわいきたるとおもふべし
あしきことをおこなへば
わざわいことにきたるなり
(二八)
ふたりの人はいまさらに
わざわいにあはむと奏せしむ
守屋の連寺をやぶる
仏経・堂塔ほろぼしき
(二九)
やけのこれりし仏像は
難波のほりえにすていれき
三人の尼をばせめうちて
おいいださしむときこへたり
(三〇)
その日そらにはくもなくて
おほきにかぜふきあめふりき
太子かさねて令旨あり
わざわいいまにおこりぬと
(三一)
すなわちかさのやまうおこれりき
やみいたむことやきさくがごとくなり
ふたりの大臣もろともに
おほきにとがをかなしみき
(三二)
帝王ゑことを奏せしむ
このやまうのくるしみいたむこと
たえしのぶべきかたもなし
ねがはくは三宝にいのらむと
(三三)
そのとき勅宣くだされて
三人の尼をめしてこそ
二人の大臣にたまはせて
いのらしめたまひしか
(三四)
そののち寺を建立し
仏法これより興ぜしむ
やまふもとゞまりしづまりて
人民わづらひなかりけり
(三五)
太子の御ちゝ用明皇
くらゐにつきて二年に
朕も三宝に帰依せむと
勅宣ありとぞきこへたる
(三六)
馬子の大臣勅宣に
したがはむと奏してぞ
法師をめして内裏に
いれはじめたまひける
(三七)
太子よろこびましまして
大臣の手をとりてこそ
なみだをながしてのたまはく
三宝のたえなるを人しらず
(三八)
大臣こゝろをよせしめて
うれしくもあるかなと令旨あり
こののちある人ひそかにて
守屋の連につげしめき
(三九)
ひとびとはかりごとをなしてこそ
群兵をまうけよといひければ
これをきゝて阿都のいゑに
こもりて兵士をもとめけり
(四〇)
中臣の勝海の連もろともに
兵士をおこして守屋を
相たすけんとかまへつゝ
天皇を呪咀したてまつる
(四一)
蘇我の大臣はからひて
儲君に奏聞せしめてぞ
守屋をうたむとさだめしに
御かたの軍衆むらがりて
(四二)
守屋の連ことさらに
つわものをおこして城をつき
群兵こわくさかりにて
御かたのいくささわがしく
(四三)
おぢおのゝきてみたびまで
しりぞきかへりしそのときに
令旨をことにくだされて
軍兵こわくさかりなり
(四四)
秦の川勝に命じてぞ
白膠木をとらしめて
四王の像をきざみつゝ
もとゞりにさしほこにさゝぐ
(四五)
願をおこしてのたまはく
わがたゝかひをかたしめよ
四天王を造置して
寺塔をたてむと令旨あり
(四六)
馬子の大臣願じつゝ
御かたのつわものたゝかふに
守屋の連さわがしく
いちゐの木にこそのぼりしか
(四七)
物部の府都の大神の
あらくはなてるやといひて
太子の御あぶみにあたりしに
おそれはさらにましまさず
(四八)
舎人迹見の赤槫にぞ
かさねて勅命くだされて
四天王にいのりつゝ
箭をはなたしめたまへりき
(四九)
守屋がむねにあたりしに
木よりさかさまにおちにけり
御かたのつわものせめゆきて
守屋がかうべをきりてけり
(五〇)
玉造の岸の上に
四天王寺をたてたまふ
仏法これよりさかりなり
王家もいよいよゆたか也
(五一)
太子の御おぢ崇峻皇
この天皇の御宇には
太子の御とし十九歳
かぶりしたまふときこへたり
(五二)
そのとき百済のつかひにて
阿佐王子きたれりき
太子をおがみてまふさしむ
敬礼救世大慈観音菩薩
(五三)
妙教流通東方日本国
四十九歳伝灯演說と礼しけり
儲君そのとき眉間より
しろきひかりをはなたしむ
(五四)
甲斐のくによりたてまつる
あしよつしろき黒駒に
駕してくもにぞいりたまふ
東のかたへぞいましける
(五五)
調使麻呂ばかりこそ
御馬の右にはそえりしか
人人あふぎそらをみる
信濃の国にいたります
(五六)
みこしの坂をめぐりてぞ
三日ありてかへります
日本国のありさまを
さわることなくみそなわす
(五七)
推古天皇のみまえにて
『勝鬘経』を講じましましき
三日講じおはりし夜
そらより蓮華ふりくだる
(五八)
華のながさは二三尺
方三四丈の地にふりみてり
あくるあしたに蓮華を
御かどあやしみみたまひき
(五九)
この地に寺をたてたまふ
橘寺とまふすなり
ふれりし華はこの寺に
いまにおさめおかれたり
(六〇)
小野の妹子の大臣を
勅使としたまひてぞ
衡山におはしてたもてりし
『法華経』をとりにつかわしき
(六一)
妹子におしえの令旨あり
赤県の南に衡山あり
般若寺といふ寺もあり
くわしくたづねていたるべし
(六二)
むかしの同法しににけむ
いま三人ばかりあり
御経わたさむ勅使とて
吾使ぞとなのるべし
(六三)
妹子勅命にしたがひて
般若寺にぞいたりける
門にひとりの沙弥ありて
みてすなわちにいりにけり
(六四)
しはおひたる僧三人
つゑをついてぞいできたる
思禅師の使とて
よろこびゑみておしえしむ
(六五)
『法華』一部をひとまきに
あはせかゝれる御経を
勅使の妹子におしへしめ
とらせたりとぞ奏しける
(六六)
いかるがの宮の寝殿の
かたわらにいゑをつくりてぞ
夢殿とぞなづけたる
日ごとにみたびおゆあみて
(六七)
いりてあしたにいでたまひ
閻浮提のことをかたります
この内にいりてこそ
諸経の疏をば製し
(六八)
七日七夜いでずして
戸をとぢ御こゑもしたまはず
高麗の恵慈まふさしむ
太子は三昧定にいらしめり
(六九)
おどろかしますことなかれ
八日といふにいでたまひ
玉の枕のうえにこそ
ひとまきの経おはしませ
(七〇)
恵慈法師をめしてこそ
ことをかたりてのたまはく
吾衡山にありしとき
たもちし経はこれなりと
(七一)
すぎにしとしに妹子が
もちてきたりしその経は
弟子たりし僧の持経なり
三人の老僧みなしらず
(七二)
おもふあまりにひかれつゝ
わがたましひをつかわして
とりよせきたる経なりと
太子くわしく命じけり
(七三)
すぎにしとしの経をみて
いまこの経をあわすれば
なき文字ひとつありとみゆ
さきの経にはさらになし
(七四)
いまこの所持の経巻は
きなるかみにてひとまきに
たまの軸にておわします
老僧しらでおしえたり
(七五)
百済国よりきたれりし
道欣等の十人は
衡山にして『法華経』を
ときたまひしそのときに
(七六)
われらは盧岳の道士とて
ときどきまいりしひとびとと
おのおのなのりまふしてぞ
太子の慈哀をあらわせる
(七七)
妹子の大臣のちのとし
また衡州にわたされき
衡山にまたゆきたるに
老僧ひとりのこりてぞ
(七八)
妹子にかたりおしえける
もとは思禅師とましましき
すぎぬるとしのあきのころ
なんぢがくにの太子は
(七九)
青竜の車にのりてこそ
五百人をしたがへて
東のかたよりそらをふみ
きたりいますとおしへしむ
(八〇)
むろのうちにいりてこそ
さしはさめる一巻の
御経をとりくもをしのぎ
さりにしとこそかたれりし
(八一)
太子衡山にいりたまふ
そのときしりぬあきらかに
夢殿にいりましましゝ
ほどなりけりといふことを
(八二)
上宮太子の后妃は
かしわでの氏の夫人也
御かたわらにさぶらふに
太子かたりてのたまはく
(八三)
君わがこゝろのごとくにて
ひとつのこともたがはねば
まことにさいわいなりけりと
太子の御意にあひかなふ
(八四)
われしになむその日には
おなじくあなにうづむべし
きさきこたへてまふさしむ
千秋万歳ふるまでも
(八五)
あしたゆふべにいたるまで
つかへまつらむとぞおもふ
いかなるこゝろいましてか
おわりのことをば令旨ある
(八六)
太子こたへおはします
はじめあればおわりある
さだまれるよのことおりを
ゆめゆめおどろきおもわざれ
(八七)
ひとたびはかならずむまれしめ
ひとたびはかならずしぬること
ひとのつねのみちなれば
むかしもいまもたえぬ也
(八八)
われあまたのみをうけて
仏道をおこなひきたらしむ
わづかに小国の太子として
たえなるみのりを流布せしむ
(八九)
法なきところに一乗の
深義をひろめときをきつ
五濁のあしきよよまでに
ひさしくあそばむとおもわれず
(九〇)
きさきなみだをながしてぞ
かなしみあわれみましまして
太子難波よりしてぞ
いかるがの宮にかへります
(九一)
かたをかやまのほとりにて
うへたるひとふしたりき
くろこまあゆまずとゞまれり
太子むまよりおりてこそ
(九二)
うゑ人ふしたるそのうへに
むらさきのうへの御衣を
とひておほいましまして
御歌をたまひてのたまはく
(九三)
うゑ人かしらをもちあげて
御かへりごとをぞたてまつる
あわれかなしき御ことかな
奉讚まことにつきがたし
(九四)
太子みやにかへります
のちにうえ人しにおわる
太子かなしみましまして
はぶりおさめおわします
(九五)
うゑ人しにてそののちに
むらさきの御衣をとりよせて
もとのごとくに皇太子
著服してぞおはします
(九六)
大臣已下七人の
そしりあやしむことしげし
勅命をくだしましまして
ゆきて片岳をみるべしと
(九七)
臣下ゆきてみるにかばねなし
ひつぎはなはだかうばしく
みなひとおどろきあやしみき
まことにあだの人ならず
(九八)
太子みやにましまして
きさきにかたらひおはします
おゆあみみぐしをあらわせて
きよき御衣をぞきたまひし
(九九)
われもろともにこよひは
さりなんとゆかをならべてぞ
ふしたまひぬとみえたまふ
あくるあしたにひさしくも
(一〇〇)
御おとまさずあやしくも
御殿のみとをひらきてぞ
人々あまたまいりしに
きさきもともにかくれます
(一〇一)
御かほはもとのごとくにて
はなはだかうばしくおわします
御としは四十九歳なり
仏法のともしびきえたまふ
(一〇二)
くろこまいなゝきよばいけり
くさ・みづくわずかなしみて
御こしにしたがひまいりてぞ
御廟にいたりつきにけり
(一〇三)
ひとたびいなゝきよばわりて
たうれしぬとぞみゑたりし
そのかばねをばすなわちに
御廟のかたにうづまれき
(一〇四)
太子崩御のその日にぞ
衡山よりの御経は
にわかにうせましましぬ
恋慕渇仰つきがたし
(一〇五)
妹子がもちてわたれりし
経ばかりこそいますなれ
まことに不思議のおほきこと
奉讚きわなくあわれ也
(一〇六)
新羅国よりたてまつる
釈迦牟尼仏の尊像は
やましな寺の東の
精舎にいまにおわします
(一〇七)
百済国よりたてまつる
石の弥勒菩薩は
ふるきみやこの元興寺の
東の精舎におわします
(一〇八)
太子のつくりおわします
御寺はそのかずあまたあり
四天王寺・法隆寺
中宮寺・橘寺
(一〇九)
蜂岡寺・池後寺
葛城寺・日向寺なり
このほか御てらきこゆれど
伝記・縁記をひらくべし
(一一〇)
太子の御名はあまたいます
廐戸・豊聴耳の皇子なり
御誕生のところゆへ
廐戸ともにあらわせり
(一一一)
十人一度にまふすこと
ひとりももらさずきこしめす
ことわりいますによりてこそ
とよきゝみゝとはまふしけり
(一一二)
皇太子の御誕生
御ありさまをたづぬれば
僧の威儀にていますゆえ
聖徳太子とまふしけり
(一一三)
『勝鬘』・『法華経』等の
義疏をつくりひろめしめ
有情をわたしたまふゆへ
聖徳太子とまふすなり
(一一四)
王宮のみなみにすましめて
儲君とあがめましましき
まつりごとをまかせて
上宮太子とまふしける
已上一百一十四首
日本記、平氏伝聖徳太子御伝、上宮記、諾楽古京薬師寺沙門景戒撰日本国現報善悪霊異記等見也。三宝流布讚略云、日本国、始人更无、葦二筋生立。神成代知。自是豊葦原水穂国名。神代七代第四、日天下神成。依此吾国名日本。人世百王定。神武天皇始即位元年辛酉歳、釈迦滅後数二百五十年成。