良忠
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
りょうちゅう
(1199-1287)鎮西浄土宗の三祖。諱は然阿(ねんな)というので然阿良忠と呼称される。石見国の人で十六歳で出家後、念仏・天台・俱舎・禅・律の諸宗を兼学し,嘉禎二年(1236)に九州へ下り浄土宗鎮西派の弁阿弁長の弟子となった。その後鎌倉に入り東国諸国での浄土宗の教化に努めた。
当時の顕密体制下で、浄土宗の信一念義系の先鋭的な傾向を誡めて妥協な通仏教の立場から浄土宗の教えを説き浄土宗の本流であった。
ある意味では鎮西浄土宗は、御開山の説かれた個々の信心正因を強調する浄土真宗と対極にある。しかして蓮如さんが出られて民衆の信心に火を点けて支持をうけたことから、浄土真宗(当時は一向宗と呼ばれていた)が、浄土教の本流と目されるようになった。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:良忠
りょうちゅう/良忠
正治元年(一一九九)—弘安一〇年(一二八七)七月六日。然阿弥陀仏ともいい、然阿と略称、記主禅師と尊称される。浄土宗三祖。二祖聖光から浄土の教学を伝授され、専修念仏を弘めると共に、多くの宗典を注釈し、浄土宗鎮西流の教学を大成した。姓は藤原氏。石見国三隅庄(島根県浜田市三隅町)に円尊の子として生まれる。建暦元年(一二一一)一三歳のとき、出雲国の天台宗寺門派鰐淵寺月珠房信暹の門に入り、一六歳にして出家受戒した。鰐淵寺では、円信より山門派宝地房・竹林房両流、および寺門派滝淵房流の教学を、信暹からは寺門派の教学を、さらに密蔵尊観からは天台密教を相承した。嘉禎二年(一二三六)出雲の観阿弥陀仏(または生仏とも)とともに九州に下向し、上妻(福岡県)の天福寺に行き、聖光に面謁、翌年の七月まで、『観経疏』『法事讃』『観念法門』『般舟讃』『往生論註』『安楽集』『往生要集』『選択集』『十二門戒儀』などをいちいち読み伝えられ、『授手印』『徹選択集』を授与された。これに応え、良忠は『浄土宗要集』(『西宗要』)を筆受し、『領解抄』を撰述し、聖光の印可を受けた。これ以後、約一〇年間故郷に帰り、安芸地方を教化した。四五歳の頃、高野山明王院学頭源朝阿闍梨が伝法院訴訟の事件に連座して安芸国に左遷された際、良忠は源朝に師事し、真言密教を学んだ。建長元年(一二四九)頃信濃の善光寺を経て、下総に向かう。良忠は千葉氏一族の外護を受け、常陸、上総、下総の三国にわたる教化活動を続けるとともに、浄土宗典の講述活動を精力的に行う。
良忠による講述活動は三期に分けることができる。第一期千葉在住時代(五一歳—五九歳)は草稿本の時代で、各宗典の第一回目の講述期である。第二期鎌倉在住時代(六〇歳—七七歳)は前期で講述した宗典の再講述・再治をくり返す時期である。第三期京都在住時代(七八歳—八八歳)は極再治本『伝通記』・五巻本『決疑鈔』等を完成させ、その上で『浄土宗要集』(『東宗要』)を完成させる時期である。千葉時代における、宗典の第一回目の講述には『三心私記』、四巻本『決疑鈔』『観経疏聞書』(玄・序・定)『無量寿経論註聞書』『法事讃聞書』『往生礼讃聞書』『疑問抄』等がある。しかし、寺領問題と感情問題で外護者と衝突し、正元元年(一二五九)頃鎌倉に移住した。当時の鎌倉にはすでに他の法然門流のうち、長楽寺義の南無房智慶・願行円満、西山義西谷流の観智・行観、諸行本願義の念空道教・性仙道空らがそれぞれの浄土教を布教・展開しており、良忠はその中にあって異流に対抗しつつ、布教教化と講述の活動に全力を傾けた。すなわち、良忠は同一の宗典に対して第二回目・第三回目の講述や再治をくり返し行っている。例えば、『観経疏』講述の経過をたどると、前期千葉時代の建長七年(一二五五)良忠五七歳のときに①草稿本『観経疏聞書』を講述して以後、②『二十五帖鈔』(正嘉二年〔一二五八〕)、③『観経疏略鈔』(弘長二年〔一二六二〕—文永元年〔一二六四〕)、④一五巻本『伝通記』(建治元年〔一二七五〕)等の三回の講述・再治を経て、鎌倉下向後の弘安一〇年(一二八七)、八九歳のとき⑤極再治本『伝通記』をようやく完成させた。第一回目の草稿本の講述から数えると、実に三二年間にわたって『観経疏』の講述をくり返し続けたことになる。鎌倉移住一二年後の文永八年(一二七一)、当時の鎌倉における実力者、極楽寺良観・理智光寺道教・浄光明寺行敏らとともに日蓮宗開祖の日蓮と対抗し、鎌倉幕府に告訴、日蓮は佐渡流罪となった。同年大病を患った良忠は、比叡山に修学中の良暁を鎌倉に呼び寄せ、自らが京都に上洛する建治二年(一二七六)までの間に浄土の奥義を授けた。建治二年良忠は京都の弟子、然空・良空らの招請に応じて上洛した。良忠上洛時の、京都における他の法然門流の動向を概観すると、まず長楽寺義は、その主流の多くは鎌倉に移住したため少なく、ただ信瑞が『広疑瑞決集』『明義進行集』『黒谷上人伝』等を著し、良忠上洛三年後に入寂している。次に九品寺義は、義祖長西がすでに一〇年前に入寂しており、門弟の証忍・阿弥陀・澄空らが活躍していた。このうち、門弟阿弥陀は、良忠が上洛翌年に撰述した『選択疑問答』の質問者、毘沙門堂阿弥と同一人物の可能性がある。さらに西山義では、良忠と接触の可能性があるのは東山義と深草義である。東山義祖証入の弟子遍空は健在で、後世知恩院六世に数えられる。また深草義祖円空は良忠上洛時六四歳で、その三年前に『深草抄』を撰述し終わっており、良忠とは九年間年代的に一致する。その弟子顕意道教は良忠上洛時三七歳で、新進気鋭の学僧であった。良忠の上洛期間中に、九品寺義の証忍と四年間にわたって教学論争を展開した。
このような、京都における他の法然門流の動向の中で、良忠は法然の遺弟を尋ね、法然の遺文の収集を行った。すなわち明遍の弟子正念房、住心の弟子本願房、良遍の弟子良喜(悟阿)らを尋ねた可能性があり、また源智の弟子信慧とは上洛後、弘安四年(一二八一)までの間に、いわゆる赤築地における宗義の校合を行い、かつ宿蓮房から、「故上人自筆の抄」を伝得したと自著に記している。「故上人自筆の抄」とは『醍醐本法然上人伝記』である可能性がある。法然の遺弟を尋ね、法然の遺文を収集した良忠は、それらの新証言・新資料をもとに四巻本『決疑鈔』を大幅に増補・再治し、五巻本を完成させた。草稿本である①四巻本を撰述したのが、良忠五六歳の建長六年(一二五四)であり、途中②『三心私記』(建長六年)、③『決疑鈔裏書』(正元元年)、④『選択集略鈔』(文永二年〔一二六五〕)、⑤『選択疑問答』(建治二年)等の四著の撰述を経過し、『浄土宗要集』撰述以前、遅くとも鎌倉下向の弘安九年(一二八六)、八八歳までには⑥五巻本『決疑鈔』を完成させた。実に三十数年間にわたって『選択集』の講述をくり返し続けたことになる。さらにはすでに上洛前にほぼ完成していた再治本『伝通記』をも加え、これら二著にもとづいて浄土宗鎮西義の論題集『浄土宗要集』(『東宗要』)を撰述した。『東宗要』の二四論題は①善導『観経疏』からとられた論題、②法然の著述からとられた論題、③他の法然門流の異義に対抗した論題の三つのグループに分けられる。このうち、第三の異義に対抗した論題には第一一九品辺地(対長楽寺義)、第九諸行本願・非本願、第一八正雑二行と専雑二修(以上、対九品寺義)、第四要門・弘願、第一〇諸行不生、第一四正因正行(以上、対西山義)等の六論題が含まれる。つまり、良忠教学の対論相手は長楽寺義・九品寺義・西山義の三義であって、就中、西山義が良忠教学の最大の対論相手であったことは明らかである。浄土宗義史上における良忠の業績は、『選択集』『観経疏』を中心とする浄土宗典ひとつひとつについてきわめて厳密、かつ依憑に足る註釈書の撰述と、それらにもとづく浄土宗義の体系書(『浄土宗要集』)の撰述とによって、二祖三代の相伝を確立した点にあるといえよう。在京一一年、良忠は弘安九年の秋鎌倉に下向した。その直後の九月六日良暁に付法状を授与し、その文に良忠は初めて法然—聖光—良忠の「三代相伝」といい、「三代之義勢」を明確に表明するにいたった。そしてついに翌一〇年七月六日、八九歳で入寂した。良忠の滅後、その門流は白旗派(良暁)・藤田派(性心)・名越派(尊観)・三条派(道光)・一条派(然空)・木幡派(慈心)の六派に分かれ、そのうち白旗派が主流となり、現在に至っている。
【参考】恵谷隆戒『浄土宗三祖然阿良忠上人伝の新研究』(金尾文淵堂、一九三四)、大橋俊雄『三祖良忠上人』(神奈川教区教務所、一九八四)、玉山成元『中世浄土宗教団史の研究』(山喜房仏書林、一九八〇)、良忠上人研究会『良忠上人』(大本山光明寺、一九八六)、佛教大学三上人御遠忌記念出版会『源智弁長良忠三上人研究』(佛教大学三上人御遠忌記念出版会、一九八七)
【執筆者:廣川堯敏】