生仏一如
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しょうぶつ‐いちにょ
迷いの衆生 (しゅじょう) と悟りの仏とが、その本性においてはまったく同一であるということ。 生仏一体。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:生仏一如
しょうぶついちにょ/生仏一如
「生」は衆生の意味。迷える衆生と悟れる仏とも本質においては異なりなく、不二であること。生仏不二、仏凡一体、生仏平等などともいう。その対概念が生仏各別である。『般若経』の空概念にはじまり、如来蔵、仏性思想において説かれる概念。多くの仏典に確認できるが、代表的見解は如来蔵系経典の一つ『不増不減経』に見られる。そこには「シャーリプトラよ、この深奥なる意義というのは、すなわち、究極の真理(第一義諦)のことにほかならない。究極の真理というのは、(シャーリプトラよ、)衆生の本質(衆生界)の同義語である。衆生の本質というのは、シャーリプトラよ、如来蔵の同義語である。如来蔵というのは、(シャーリプトラよ、)すなわち(如来の)法身(すなわち、真理の世界そのものとしての如来の身)の同義語である」(『大乗仏典』一二、五四頁)とある。同経では、法身が煩悩に纏われている状態を「衆生(界)」、その状態を脱するために修行を重ねる状態を「菩薩」、その修行が成就した状態を「仏」としている。
【参考】高崎直道『如来蔵系経典』(『大乗仏典』一二、中央公論社、一九九二)
【執筆者:中御門敬教】