操作

別伝記云

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2024年6月4日 (火) 03:50時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (三昧発得記)

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

「別伝記」とあることから『醍醐本法然上人伝記』に追記された伝であろう。 ここでは、通説と違って法然聖人が比叡山へ登られた後に、父の漆間時国が殺されたとしている。 法然聖人が教えをうけた四人の師が、返って法然聖人の弟子となったことが説かれてい。当時は自分の名前二字を記し二字を捧げることは弟子となる意であった。文末で公胤が「源空本地身は、大勢至菩薩なり」と讃嘆しているように。まさに智慧の法然房であった。


別伝記云

別伝記云
別伝記に云く。

法然上人、美作州人也、姓漆間氏也、本国之本師智鏡房 {本ハ山僧}

法然上人は美作州の人なり。姓は漆間氏なり。本国の本師は智鏡房。{もとは山僧なり}

上人十五歳、師云非直人欲登山。

上人十五歳、師ただ人にあらず云いて山に登らしめんと欲す。

上人慈父云、我有敵、登山之後聞被打敵可訪後世云々

上人の慈父云く、我に敵(かたき)有り、登山の後に敵に打たれたるを聞かば後世をとぶらうべしと、云々。

即十五歳登山、黒谷慈眼房為師出家授戒。

すなわち十五歳にして山に登り、黒谷の慈眼房を師となし出家授戒せり。

然間慈父被打敵畢云、上人聞此由師乞暇遁世セムト云。

しかるあいだ慈父敵に打たれて畢(おわ)ると云、上人この由を聞き、師に暇(いとま)を乞い、遁世セムト云。

遁世之人無智悪候也、依之始談義於三所、謂玄義一所、文句一所、止観一所也。

遁世の人も無智なるは悪く候うなり、これに依り三所において談義を始む。いわく『玄義』一所、『文句』一所、『止観』一所なり[1]

毎日遇三所、依之三箇年亘六十巻畢。

毎日三所に遇い、これに依りて三箇年に六十巻[2]にわたり畢んぬ。

其後籠居黒谷経蔵、披見一切経、与師問答。

その後、黒谷の経蔵に籠居し、一切経を披見し、師と問答す。

師時閉口、師即捧二字云、知者為師、今上人返為師云々。

師、時に閉口す。師すなわち二字をささげて云く、知れる者を師となす、今上人を返りて師となすと、云々。

又花厳宗章疏見立、醍醐有花厳宗先達行決之。

また華厳宗の章疏を見立て、醍醐に華厳宗の先達あり、行きてこれを決す。

彼師云鏡賀法橋、法橋云、我雖相承此宗 此程不分明、依上人開処処不審云々

かの師をば鏡賀法橋と云、法橋の云、我この宗を相承すといへども、この程 分明ならず、上人に依りて処々の不審を開くと云々。

依之鏡賀二字即受梵網心地戒品。

これによりて鏡賀二字を、すなわち『梵網』の心地戒品を受く。

或時自御室鏡賀許 花厳 真言勝劣判可進云々

ある時、御室より鏡賀のもとへ華厳・真言の勝劣判じて進むべしと云々。

依之鏡賀思念、仏智照覧有憚、真言為勝。

これに依りて鏡賀思念すらく、仏智照覧にはばかり有りとも真言を勝となす。

爰上人、鏡賀許出来給、房主悦云、自御室有如此之仰云々。

ここに上人、鏡賀のもとへ出で来たもう、房主よろこびて云く、御室よりこのごときの仰ありき。

上人問、何様判思食。

上人問う、いかように判ずるとかおぼしめすと。

房主云如上申、此上人存外次第也。

房主云、上のごとく申す、この上人、存外次第なり。

源空所存一端申サムトテ、花厳宗勝真言事一一被顕、

源空所存の一端を申さんとて、華厳宗の真言に勝れたる事をいちいち顕わせらる。

依之房主承伏、御室返答、花厳勝タル之由申畢。

これにより房主承伏して、御室の返答に華厳勝れたりの由、申し畢んぬ。

其後智鏡房自美作州上洛、上人奉二字但真言宗中河少将阿闍梨受之、

その後、智鏡房は美作州より上洛して、上人に二字を奉る。ただ真言宗をば中河少将阿闍梨これを受く。[3]

法相法門見立蔵俊決之、蔵俊返二字。

法相の法門を見立て蔵俊これを決し、蔵俊返て二字す。

已上四人師匠皆進二字状、竹林房法印静賢奉値上人取念仏信 {其文者心義也}

已上四人の師匠、みな二字状を進ず。竹林房法印静賢は上人に値(あ)い奉りて念仏の信を取る。{その文とは心義なり}

三井公胤於殿上七箇不審開上人。

三井の公胤は殿上において七箇の不審を上人に開かる。

上人老耄之後不見聖教三十年、其後山僧筑前弟子、為令遂竪義参上人、内内談法門。

上人老耄の後、聖教を三十年見ず、その後山僧筑前弟子が、竪義を遂げしめん為に上人に参上し、内々法門を談ず。

竪者云、三十年不見聖教被仰、文々分明事、当時勧学越非直之人御云々。

竪者の云く、三十年聖教を見ずと仰せを被(こうむ)るとも、文々分明の事、当時の勧学にも越えたまへり、ただびとには非ずと御しけりと、云々。

公胤夢見云、源空本地身、大勢至菩薩、衆生教化故、来此界度度云々

公胤夢に見て云、源空本地身は、大勢至菩薩なり、衆生教化のゆえに、この界に度々(たびたび)来たると、云々。

御臨終日記

御臨終日記

法然聖人の「臨終記」や「三昧発得記」は、御開山の『西方指南鈔』に詳しい。この『醍醐本』では省略があったり漢文で著されているので少しく読みにくい。なお漢文の読み下しや脚注やリンクは林遊が付したものであり、浄土真宗本願寺派とは無縁である。為念。


御臨終の日記。

建暦元年十一月十七日、可入洛之由賜宣旨、藤中納言光親奉也、同月廿日、入洛住東山大谷。

建暦元年十一月十七日、入洛可の由の宣旨を賜る、藤中納言光親の奉にて、同月廿日、入洛して東山大谷に住す。

同二年正月二日、老病之上、日来不食殊増、凡此二三年、耳ヲボロニ心矇昧也。而死期已近如昔耳目分明也。

同二年正月二日より、老病の上に日ごろの不食、(こと)に増して、おほよそこの二三年、耳おぼろに心矇昧(もうまい)なり。[4]

然而死期已近如昔耳目分明也。

しかして死期すでに近づきて昔の如く耳目分明也。

雖不語余事常談往生事。

余事を語らずといへども常に往生の事を談ず。

高声念仏無絶、夜睡眠時舌口鎮動。見人為奇特之思。

高声念仏絶へること無く、夜、睡眠の時、舌口(しず)かに動く。人見て奇特の思ひをなす。

同三日戌時、上人語弟子云。我本在天竺、交声聞僧、常行頭陀、其後来本国、入天台宗、又勧念仏。

同三日(いぬ)の時、上人弟子に語りて云く、我もと天竺に()りて、声聞僧に(まじ)わりて、常に頭陀を行じき、その後本国に来りて、天台宗に入り、また念仏を勧む。

弟子問云。可令往生極楽哉。

弟子問うて云く、往生極楽したまうべしや[5]

答云。我本在極楽之身可然。

答へて云く、我もと極楽に在りし身なれば(しか)るべし。

同十一日辰時、上人起居高声念仏、聞人流涙。

同十一日(たつ)の時、上人起居し高声に念仏す、聞く人涙を流す。

告弟子云、可高声念仏、阿弥陀仏来給也。

弟子に告げて云く、高声念仏すべし、阿弥陀仏来給う也。

唱此仏名者不虚云、歎念仏功徳事如昔。

この仏名を唱へる者は(むなし)からずと云いて、念仏の功徳を歎ずる事、昔の如し。

又観音勢至菩薩聖衆在前、拝之乎否。

また観音・勢至、菩薩・聖衆前に在り、これを拝するや否や。[6]

弟子云。不奉拝。

弟子の云く。拝し奉まつらず。

聞之弥勧念仏給、其時可拝本尊之由奉勧。

これを聞きて、いよいよ念仏を勧め給ふ、その時本尊を拝すべしの由を勧め奉つる。

上人以指指空此外又有仏。

上人指を以つて空を指したまいて此の外にまた仏有りや。[7]

即語云。此十余年奉拝極楽荘厳化仏菩薩事是常也。

すなわち語りて云く、この十余年、極楽荘厳・化仏・菩薩を拝し奉る事これ常なり。

又御手付五色糸、可令執之給之由勧者、如此事者是大様事也云終不取。

また御手に五色の糸を付けて、これを()らしめ給への由、勧めたまへば、このごときの事は、これ大様(おうよう)の事なりと云て(つい)に取らず[8]

同二十日巳時、当坊上紫雲聳、其中有円戒雲、其色鮮如画像仏、行道人々於処処見之。

同二十日()の時、当坊の上に紫雲聳(たなび)(靆)く[9]、その中に円戒の雲あり、その色鮮かにして画像の仏のごとし、道を行く人々処処においてこれを見る。

弟子云、此空紫雲已聳、御往生近給歟。

弟子の云く、この空に紫雲すでに聳(たなび)く、御往生近ずき給ふか。

上人云、哀事哉、為令一切衆生信念仏也云々。

上人の云く、哀れなる事かな、一切衆生に念仏を信ぜしめん為なりと、云々。

同日未時、殊開眼仰空、自西方于東方見送事五六返。人皆奇之奉問仏在歟

同日()の時、ことに眼を開きて空を仰ぎ、西方より東方を見送ること五六返す。人みなこれを(あやし)みて問い奉る、仏の(いま)すか。

然也答、同二十三日、紫雲立之由令風聞。

しかなり、と答へたまひて、同二十三日、紫雲立つ由を風聞せしむ。

同二十四日午時、紫雲大聳。

同二十四日午の時、紫雲大いに聳(たなび)く。

在西山炭焼十余人、見之来而語、又従広隆寺下向尼、於路頭来而語、

西山に在る炭焼十余人、これを見て来たりて語る、また広隆寺より下向する尼、路頭において来り語る。

爰上人念仏不退之上。自二十三日至二十五日、殊強盛高声念仏事、或一時或二時。

ここに上人念仏不退の上、二十三日から二十五日に至るに、ことに強盛高声念仏の事、あるいは一時、あるいは二時なり。

自二十四日酉時至二十五日、高声念仏無絶、弟子五六人番々助音。

二十四日(とり) の時より二十五日に至るまで、高声念仏絶へること無し、弟子五六人、番々助音す。

至二十五日午時、声漸細、高声時々相交。

二十五日(うま)の時に至りて、声、(ようや)く細く、高声時々相い(まじわ)る。

集庭若干人々皆聞之、正臨終時、懸慈覚大師九条袈裟、頭北面西、誦「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」、如眠命終。

庭に集まる若干の人々皆これを聞く、正(まさ)しく臨終の時は、慈覚大師の九条袈裟を懸け、頭北面西にして、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と誦して、眠るが如く命終す。

其時午正中也。

その時(うま)の正中也。

諸人競来拝之、供如盛市。

諸人競(きお)いて来りこれを拝む、供(とも)に盛市の如し。

或人七八年之前有感夢。有人見以外大双紙、思何文而見之、注諸人往生文也。

ある人七八年の前に夢を感ずることあり。人ありて以外に大なる双紙を見、何の文と思ひてこれを見るに諸人の往生を(しる)す文也。

若有法然上人往生注処遥至奥注也。

もし法然上人の往生注せる(とこ)ろ有ると遥かに奥に至つて注す也。

有光明遍照四句文、上人誦此文可被往生夢覚不語上人、不語弟子、令符合此夢、生奇特思、

「光明遍照」{観経} 四句の文有り、上人この文を誦し往生せらるべし。夢() めて上人語らず弟子にも語らず、この夢をして符合せしめ、奇特の思を生ず。

上人往生之後、以消息被注送。恐繁不載。

上人往生の後、消息を以て(しる)し送らる。繁きを恐れて載せず。

旁有不思議夢想等、可足之故略不記。

かたがた不思議の夢想等あり、これに足るべきが故に略して記ぜず。御入滅者満八十也。
御入滅は満八十也。

如来滅後一百年、有阿育王。不信仏法、国中人民歌仏遺典。

如来滅後一百年に、阿育王有り。仏法を信ぜず、国中の人民、仏の遺典を歌う。

大王云、仏有何徳超衆生、若有値仏者、往而可尋。云々

大王の云く、仏、何の徳ありて衆生に超えん、もし値仏あれば、往いて尋ぬべしと、云々。

大臣云、波斯匿王妹比丘尼値仏之人也。

大臣の云く。波斯匿王の妹の比丘尼、値仏の人也。

其時大王請問、仏有何殊異。

その時大王請じて問ふ、仏に何の殊異あり。

比丘尼云、仏功徳難尽粗説一相。

この丘尼云く。仏の功徳、尽し難(かた)ければ、粗(ほぼ)一相を説く。

王聞此功徳即歓喜心開悟。

王、この功徳を聞きて即ち歓喜して心開悟す。

上人入滅以後及三十年、当世奉値上人之人、其数雖多、時代若移者、於在生之有様定懐矇昧歟、為之今聊抄記見聞事。

上人入滅以後三十年に及ぶ、当世に上人に値(あ)い奉まるの人、その数多しといへども、時代もし移れば、在生の有様に於いて定めて矇昧を懐くか。この為に今聊(いささか)見聞した事を抄記す。



三昧発得記

三昧発得記

又上人在生之時、発得口称三昧 常見浄土依正、以自筆之、勢観房伝之。

また上人在生の時、口称三昧を発得して常に浄土の依正を見る、以てこれを自筆す、勢観房これを伝ふ。

上人往生之後、明遍僧都尋之、加一見流随喜涙、即被送本処。

上人往生の後、明遍僧都これを尋ね、一見を加へて随喜の涙を流し、すなわち本処に送らしむ。

当時聊雖聞及此由、未見本者不記其旨。

時に当りて、いささか此の由を聞き及ぶといへども、(もと)を見ざる者は、其の旨を記さず。

後得彼記写之。

後に彼記を得てこれを写す。

御生年当六十六《長承二年癸丑誕生》

御生年、六十六に当たれり。{長承二年癸丑誕生}。

建久九年正月一日、従山桃法橋教慶之許、帰後未時、恒例毎月七日念仏始行之。

建久九年正月一日、山桃の法橋教慶の(もと)より帰りて後、(ひつじ)の時、恒例毎月七日の念仏これを始行したまふ。

一日明相少現之、自然甚明也。

一日、明相を、これを少しこれを現じたまふ、自然として甚明なり。

二日水想観自然成就之。

二日、水想観自然にこれを成就したまふ。

総念仏七箇日之内、地想観之中、瑠璃相少分見之、二月四日朝瑠璃地分明現之。云々。

総じて念仏七箇日の内に、地想観の中に、瑠璃の相少分これを見たまふ、二月四日の朝、瑠璃地分明にこれを現じたまふと、云々。

六日後夜瑠璃宮殿相現之。云々。

六日、後夜に瑠璃の宮殿の相これを現じたまふと、云々。

七日朝重又現之。

七日、朝に重ねてまたこれを現じたまふ。

即似宮殿類其相現之、総水想 地想 宝樹 宝池 宮殿之五観、始自正月一日至于二月七日三十七箇日之間也。

即ち宮殿類に似てその相これを現ず、総じて水想・地想・宝樹・宝池・宮殿の五観、始め正月一日より二月七日に至るまで、三十七箇日の間なり。

毎日七万反念仏不退勧之、依之此等相現也云々。

毎日七万反の念仏不退にこれを勧む。これに依て此等の相現ずるなりと、云々

始自二月二十五日明処開目、自眼根仏出生、赤袋瑠璃壺見之。

始めに二月二十五日より、明るき処にして目を開く、自らの眼根、仏を出生す、赤袋瑠璃壺これを見る。

其前閉目見之開目失之。

その前に、閉目してこれを見る、目を開きてもこれを失せず。

二月二十八日依(病)為念仏延之。

二月二十八日、(病)に依つて為に念仏これを延ぶ。[10]

一万或二万返、左眼其後有光明放。又光端赤。

一万あるいは二万返、左眼にその(のち)光明放つことあり、また光の端は赤なり。

又眼有瑠璃、其眼如瑠璃壺。

また眼に瑠璃あり、その眼、瑠璃壺のごとし。

瑠璃壺有赤花、如宝瓶。

瑠璃壺に赤花あり、宝瓶のごとし。

又日入後出見四方有、亦有青宝樹、其高無定。

また日入りて後(のち)、出でて四方を見ればあり、また青宝樹あり。その高さ定め無し。

高下随喜、或四五丈、或二三丈云々。

高下、喜に随いて、あるいは四五丈、あるいは二三丈と、云々。

八月一日如本七万返(七万遍)始之。

八月一日、本のごとく七万返これを始む。

及九月二十二日朝、地想分明現。

九月二十二日の朝に及びて、地想分明に現ず。

周円七八段許也。

周円七八段ばかりなり。

其後二十三日後夜并朝又分明現之云々。 その後、二十三日の後夜、ならびに朝にまた分明にこれを現ずと、云々。

正治二年二月之比、地想等五観、行住坐臥随意任意任運現之。

正治二年二月のころ、地想等の五の観、行住坐臥、意に随いて意に任(まか)せ任運にこれを現ず。

建仁九年二月八日後夜、聞鳥舌琴音聞、笛音等聞。

建仁九年二月八日の後夜に、鳥の舌(さえずり)を聞く、琴の音を聞く、笛の音等を聞く。

其後随日自在聴音正月五日、三度勢至菩薩御後丈六許御面現云々。

その後、日に随いて自在に音を聴く。正月五日、三度勢至菩薩の御うしろに丈六ばかりの御面(ごめん)を現ずと、云々。

西持仏堂勢至菩薩形丈六面現。

西の持仏堂の勢至菩薩の形たり、丈六の面現ず。

是則此菩薩既以念仏法門為所証法門故、今為念仏音示現、其相不可疑之。

これ則ち此の菩薩、すでに念仏法門を以つて、所証の法門となすが故に、今、念仏音の為に示現す、その相これを疑ふべからず。

同二十六日始座処下四方一段許、青瑠璃地也云々。

同二十六日、始めて座処より下、四方に一段ばかり、青瑠璃の地なりと、云々。

於今者、依経并釈往生無疑。

今においては、依経ならびに釈、往生疑い無し。

地観文々心得無疑故云々。可思也。

地観文々心得、疑い無きが故にと、云々。思ふべき也。

建仁二年二月二十一日、高畠少将殿於持仏堂謁之。其間如例修念仏。

建仁二年二月二十一日、高畠の少将殿、持仏堂に於いてこれを謁ず。その間、例のごとく念仏を修したまふ。

見阿弥陀仏之後、障子徹通仏面而現。

阿弥陀仏の後を見るに、障子より徹通して仏面を現ず。

大如長丈六仏面 即忽隠給。

大いに長大六の仏の面のごとし。即ち忽(たちまちに)に隠れ給いぬ。

二十八日午時也。

二十八日、午(うま)の時なり。

元久三年正月四日、念仏之間、三尊現大身。又五日如前云々。

元久三年正月四日、念仏の間、三尊大身を現ず。また五日前のごとしと、云々。

此三昧発得之記、年来之間、勢観房秘蔵不披露。

この三昧発得の記、年来の間、勢観房秘蔵して披露せず。

於没後不面(図)伝得之書畢。[11]

没後に於いてはからずもこれを伝へ得て書き畢んぬ。

  法然上人伝記依及覧雖為枝葉書之

                義演




末註:

  1. 『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』のこと。
  2. 天台大師智顗の、『妙法蓮華経文句』10巻、『妙法蓮華経玄義』10巻、『摩訶止観』10巻と、妙楽大師湛然の、『止観輔行伝弘決』10巻、『法華玄義釈籤』10巻、『法華文句記』10巻を60巻というか。
  3. 中河少将阿闍梨とは『法然上人行状画図』に出る中川の少将上人のことか。→実範
  4. 晩年の法然聖人は、今でいふ認知症であったのだろう。認知症では情緒の安定が重要である。しかして専修念仏の業力によって、心は平安であったことはこの書から窺える。
  5. いままさんと死なんとする法然聖人に、妥協を許さず、往生すべきか否かと弟子が問うような真剣勝負のところが法然教団であったのであろう。
  6. 臨終を迎えた法然聖人の目には、観音・勢至・菩薩・聖衆が目の前に臨在しているのであった。以下のように弟子にはそれが見えなかったのであった。
  7. 弟子が仏像を安置して礼拝するように勧めたが、法然聖人は空を指しこの他の仏があるのか仰った。
  8. いわゆる源信僧都以来の「臨終行儀」を否定しておられる。なんまんだぶ以外は助業であるからである。
  9. 聳。聳はそびえると訓じて、たなびくの漢字は靆なのだが、送り仮名にしたがって、たなびくと読んだ。
  10. 病の一字をを追記して読んだ。『西方指南抄」や『法然全集』では、病に依つて中断したとあるので、病気で念仏行を中断したのであろう。
  11. 不面を不図に改めて読んだ。『浄土宗全書』では不図となっている。