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慚愧

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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ざんぎ

 罪を恥じること。

Ⅰ 慚は自ら罪をつくらないこと。愧は他人に罪をつくらせないようにすること。

Ⅱ 慚は心に自らの罪を恥じること。愧は他人に自らの罪を告白して恥じ、そのゆるしを請うこと。

Ⅲ 慚は人に恥じ、愧は天に恥じること。

Ⅳ 慚は他人の徳を敬い、愧は自らの罪をおそれ恥じること。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ざんぎ 慚愧

 罪を恥じること。慚と愧とに分けて種々に解釈する。『涅槃経』 (信巻引文・註 275) には三義を挙げている。

①慚は自ら罪をつくらないこと、愧は他人に罪をつくらせないようにすること、
②慚は心に自らの罪を恥じること、愧は他人に自らの罪を告白して恥じ、そのゆるしを請うこと、
③慚は人に恥じ、愧は天に恥じることの三。なお、慚は他人の徳を敬い、愧は自らの罪をおそれ恥じることとする解釈もある。(浄土真宗辞典)

御開山が引文された『涅槃経』には、

二つの白法あり、よく衆生を(たす)く。
一つには(ざん)、二つには()なり。(ざん)はみづから罪を作らず、()は他を教へてなさしめず。(ざん)は内にみづから羞恥す、()は発露して人に向かふ。(ざん)は人に()づ、()は天に()づ。これを慚愧と名づく。
慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす[1]慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。(信巻 P.275)

とある。

梯實圓和上は、

浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
 そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。(『親鸞聖人の教え・問答集』p.103)

と、仰っておられた。
そして、どうせ私は凡夫ですからとうそぶく浄土真宗の僧俗の風潮に、慚愧なき真宗は外道に堕する、とお示し下さったものであった。


  1. 名づけて畜生とす。ここで畜生とは犬や猫の事ではない。慚愧のない者の事を畜生と言っている。