勝劣の義
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しょうれつのぎ
阿弥陀仏が本願として選取した念仏には勝れた功徳を具えており、選捨した他の諸行は劣った功徳にとどまっているということ。
『選択本願念仏集』には、
- 初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。(選択本願念仏集 P.1207)
とある。 『行巻』には、
- 法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。{以上} (行巻 P.183)
とある。
- →難易義
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:勝劣の義
しょうれつのぎ/勝劣の義
極楽浄土への往生を目指すに際し、阿弥陀仏が本願として選取した称名念仏は勝れた功徳を具えており、選捨した他の諸行は劣った功徳にとどまっているということ。難易の義と対をなす。『選択集』三において法然は、阿弥陀仏が称名念仏を本願に選取し、その他の諸行を選捨した理由として勝劣の義と難易の義を提示し、その中、勝劣の義について「初めに勝劣とは念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以は何となれば、名号はこれ万徳の帰する所なり。然ればすなわち弥陀一仏の所有る四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在せり。故に名号の功徳最も勝とす。余行は然らず、各一隅を守る。ここを以て劣とす。譬えば世間の屋舎のごとし。その屋舎の名字の中には棟梁椽柱等の一切の家具を摂すれども、棟梁等の一一の名字の中には一切を摂すること能わず。これを以てまさに知るべし。然ればすなわち仏の名号の功徳は余の一切の功徳に勝れたり。故に劣を捨て勝を取って、以て本願としたまうか」(聖典三・一一八/昭法全三一九)と述べ、阿弥陀仏の内証・外用の一切の万徳がその名号の中に悉く内包され、だからこそ、称名念仏の功徳は勝れているのに対し、他の諸行の功徳は劣っているので両者の功徳に勝劣の差異があると規定し、続けて、いわゆる屋舎の喩えを提示している。香月乗光は、曇鸞『往生論註』の「如来の名号は能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満たす」(浄全一・二三八下)、源信『念仏略記』の「因行果徳自利利他、内証外用依報正報、恒沙塵数無辺の法門、十方三世諸仏の功徳、皆悉く六字の中に摂在す」(舜昌『述懐鈔』所収、続浄九・一〇六下)や永観『往生拾因』の「弥陀の名号の中に、即ち彼の如来の初発心より乃至仏果まで、あらゆる一切の万行万徳みな悉く具足して欠減有ることなし」(浄全一五・三七二上)といった名体相即説や功徳享受説が称名勝行説の成立背景にあると指摘している。
法然による勝劣の義の成立過程について一瞥すると、『往生要集詮要』に「観念は勝、称念は劣なり」(昭法全五)とあり、当初法然は称名念仏を観想念仏より劣った功徳と捉えていたことが分かる。その後法然は、選択本願念仏説の整理構築過程において、『逆修説法』三七日に「初めに殊勝功徳なる故とは、彼の仏は因果惣別の一切の万徳、皆悉く名号に顕すが故に、ひと度も南無阿弥陀仏と唱うれば、大善根を得るなり。是を以て西方要決に云く、諸仏願行此の果名を成ず。但能く号を念ずるに具に衆徳を包す、故に大善を成じて往生を廃せず。云々。又此の経に即ち一念を指して無上功徳と讃じたり。然れば殊勝の大善根なる故に之を撰んで本願と為し給える」(昭法全二五三)と述べ、『西方要決』と『無量寿経』の文を念仏勝行説の典拠としている。しかし『西方要決』の一節は『選択集』では姿を消し、主格を釈尊とする『無量寿経』の一節は『選択集』五「念仏利益の文」に移行している。また『逆修説法』の説示のみでは、念仏勝行説ではあっても、念仏諸行をめぐる勝劣の義とまでは言い得ず、勝劣の義の明示は『選択集』が嚆矢であり、法然による独創と言い得よう。実は法然は、勝劣・難易の二義を述べる直前まで、善悪・麤妙・好醜・清浄不清浄という勝劣に準じる価値判断の下で阿弥陀仏による選択が行われたことを詳説している。つまり、阿弥陀仏による五劫思惟に及ぶ四十八願の選択と兆載永劫にわたる酬因感果の成就こそが、称名念仏という易なるものに勝の功徳を持たせることとなった根拠に他ならず、従来の行体系の常識に照らし合わせて劣行としての称名念仏の位置を根本的に覆すには至らなかった諸師による念仏勝行説と、法然が創唱した阿弥陀仏自身の選択(取捨)に基づく念仏と諸行をめぐる勝劣の義とは、根本的な質的隔たりがあることを見逃してはならない。こうした意味において、勝劣の義の成立は正に画期的であり、「独り立ちをせさせて、助を差さぬ」(『四十八巻伝』聖典六・二八〇/昭法全四九三)立場に本願念仏を止揚し、浄土宗独立への思想的根拠となった。
【参考】香月乗光「法然教学に於ける称名勝行説の成立」(『法然浄土教の思想と歴史』山喜房仏書林、一九七四)、林田康順「法然上人〈選択思想〉と〈勝劣難易二義〉をめぐって」(『仏教論叢』四三、一九九九)、同「法然上人における勝劣義の成立過程—『逆修説法』から廬山寺蔵『選択集』へ—」(『仏教文化学会紀要』八、一九九九)
【執筆者:林田康順】