宗教
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
浄土真宗における自己のはからいを離れるといふこととマルクス言った「宗教はアヘンである」といふ事を考察する予定。とにかく信仰型の宗教は自己の主体を絶対者に帰投するのであるから自己は無い。つまり責任主体としての我は無いのであるから「神の思し召し」として人殺しが可能なのであった。
何の爲に生まれてきたのか知らない。死が何であるか了解する事が出来ない。その死を必然の事として受けていかなければならないのが人間なのです。当然、悲劇的な存在なのです。死が何であるかという事は絶対に理解出来ない事なのですから。経験として持つ事が出来ないのですから。私がよく申しますように、他の事ならば動詞は過去形と現在形と未来形と言う事は出来るけれども、「死ぬ」という動詞は、主語を「私」にした時には絶対に現在形と過去形はとりません。「私が死んだ」そんな事ありません。言っている本人は生きているのですから。「私は今死んでいます」そんな事も言えません。判断の主体が生きているのですから。判断の主体が無かったら判断は成立しない。従って死は未来形としてしか捕らえようが無いのです。自分の経験内容としては入らない言葉なのです。従って私の死に就いて我々は述語する事は出来ない。それを述語出来るというのは、述語出来ない死を述語するのですから、いい加減な事です。そういう事です。
そういう私には生が何であるか、死が何であるか全く了解不可能なのです。そういう領域がある訳です。弘法大師が『秘蔵宝鑰』の序分の所に「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の初めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と言っています。あの天才をもってしても生の何たるか、死の何たるかを説き明かす術は無かった訳です。皆が解ったような顔しているから私も解ったような顔しているけれども本当は何にも解っていない訳です。
「お前は誰だ」と言われても知らない。「何をする為に生きているのだ」と言われても知らない。「死んで何処に行くのだ」と言われても、それも知らない。そういう自分の生きる事の意味と方向を規定していくのが本願の言葉なのです。いや、本願の言葉に依って自らの生存の意味と方向を聞き定め、見定めていこうとされたのが親鸞聖人なのです。そこでは当然、我々には判断停止が要求される。それを親鸞聖人は「計らいを離れる」といいます。しかし「計らうな」と言われても私達は「計らってナンボ」の人間なのです。人間というのは是非善悪を計らい、そして判断する事に依って人間であるような存在なのです。それが全て無意味だと言って頭からスパッと切られてしまったら立つ瀬が無いのです。
宗教というものはそういう恐さがあるのです。これは恐いのです。一つ間違えるとどんな方向に行くか分からないのですから宗教というのは十分恐いものだという事を知っておいて欲しいのです。その判断停止をさせて、そして其処から新しい生と死の意味と方向を創造していく訳なのですが、これは相当うまい事コントロールしてもらわないと危険千万です。世の中で何が一番危険かというとやはり宗教です。よく科学が恐いといいますが、しかし科学なんていうのはたかが知れています。一番恐いのは宗教でしょう。宗教は平気で人を殺します。平気で人を地獄に堕とします。宗教にはそういう所があります。人を救うものが宗教なのか、自分以外のものを地獄に堕とすのが宗教なのか。危険千万のものです。そういう所があるでしょう。例えば「この宗教を信じないものは皆地獄に堕ちるのだ」と言いますと、それは地獄に堕とすものを創り出していくような役割を果たすのです。これは一つの線を決めて、その線の中に入らない者は地獄に堕ちると言うのです。そういう恐さがあります。宗教というものは随分害悪を流してきたのです。それでもなおかつ宗教には素晴らしいものがあるのです。その素晴らしい所だけを我々はチャンと受けとめて、危険な所は巧く避けていかなければなりません。これは難しいです。宗教というものは難しいです。
この本願の言葉に依って自分の生きる意味と方向を聞き定められたのが親鸞聖人なのです。これが本願力回向です。その本願力回向に二種の相がある。「一には往相、二つには還相」往相というのは浄土に生まれていく相で、悟りに向かっていく相です。死を生と受けとめていくような領域です。お前は誰だと言われた時に「私は阿弥陀様の子でございます」とズバッと答える事の出来るような心境を生きる。そして「何処にいくのだ、お前にとって死とは何か」と言われた時に「私にとって死とは涅槃である」といえる。「お前は死んだらどうなるのだ」と言われたら「天地一杯に私のいない所はなくなるのだ」と言えるような無限な躍動が開かれていくのです。それを還相廻向といいます。
そういう浄土に生まれていくという事は「天地我ならざる無し」というような境地が開ける事です。私が私である事を止めた途端に「天地我ならざる無し」というような領域が開かれていくのです。そして万人の上に限りなく生きていく領域があるのだと言われて「そうですか、結構ですね」といって「私は貴方の言われる事に賛成します」と言いますと、親鸞聖人のお弟子になったという事になるのです。