仏智の一念
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ぶっちのいちねん
一念義を主張したとされる幸西大徳の主張。行者の信心と仏心が冥会することを仏智の一念とする。これは仏心が信心であるといふ意である。
『八宗要綱』といふ全仏教を網羅する概説書を著した凝然大徳(1240-1321)が浄土教について記した『浄土法門源流章』に、
- 幸西大徳一念義を立つ。一念と言うは佛智の一念なり。正しく佛心を指して念心と爲す。凡夫の信心佛智に冥會す。佛智の一念はこれ彌陀の本願なり。行者の信念と佛心相應して、心、佛智の願力の一念に契い、能所無二、信智唯一念、念相續して決定往生す。大經の偈に云く、如來の智慧海は深廣にして崖(涯)底無し。
とある。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:仏智の一念
ぶっちのいちねん/仏智の一念
法然門弟の幸西が唱えた一念義の教学的特徴をあらわした用語。この一念は単に一度の念仏ということではなく独特の意義がある。東大寺凝然の撰述になる『源流章』で、幸西教学を「一念といふは仏智の一念なり」(浄全一五・五九一下)という書き出しで説明していることに拠る。それによると、この場合の念とは仏心のことで、仏智の一念とは阿弥陀の本願である。この仏智願力の一念に人間の信心が叶い念々相続して決定往生するという。さらに弥陀の智恵を智願というのは、智恵は四十八願に酬いて得られたから智体は願力によって所成されたもので、これを仏智一念の心というなどと説明している。凝然の記述はわかりにくい所もあるが、幸西の著書『玄義分抄』にも断片的ながら随所で仏智のことに言及している。つまり一念は弥陀の願心・仏心というほどの意味で、この仏智の一念に対して人間の信心が相応すれば往生できるという。
【参考】安井広度『法然門下の教学』(法蔵館、一九六八)、善裕昭「幸西の仏智一念説について」(『法然学会論叢』八、一九九二)
【執筆者:善裕昭】