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最須敬重絵詞

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

さいしゅ-きょうじゅう-え 最須敬重絵 7巻。『最須敬重絵詞(さいしゅ-きょうじゅう-えし)』ともいう。覚如の伝記を記した絵巻物。文和元年 (正平7・1352) に乗専によって制作された。先に従覚が著した『慕帰絵』を補うものとされ、覚如の幼少期・修学期について詳しい。現存する古写本には、いずれも絵の部分がなく詞(ことば)書きのみであり、しかも第3巻・第4巻を欠いている。現存しない部分の詳細は不明であるが、絵師への指示書が伝存することから、その内容を推測することができる。(浄土真宗辞典)

最須敬重絵詞一

夫以、一如法界の真理、凡聖を兼て隔なく、万徳恒沙の寂用、染浄に亘て変ぜず。しかりといへども、妄雲ひとたび覆て本覚の月ひかりをかくし、心水しきりに動て乱想の浪こゑをあげしよりこのかた、業種を善悪に殖て報果を苦楽にうく。このゆへに、生死長遠にして六道の輪廻やむことなく、恩愛繫縛して三界の牢獄いでがたし。十方の諸仏これを憐て済度の方便をめぐらし、四依の大士これを悲て教法の弘通をいたす。
一代教主釈迦如来、耆闍崛山にして『无量寿経』をとき給しとき、当来導師弥勒慈尊に対してくはしく衆生の此死生彼のありさまをあかし、ねんごろに諸趣の修因感果の道理をのべたまへり。かの文をみるに、或は「当行至趣苦楽之地。身自当之、无有代者。善悪変化、殃福異処、宿予厳待当独趣入」(大経*巻下)といひ、或は「独来独去、无一随者。善悪・禍福追命所生。或在楽処、或入苦毒。然後乃悔当復何及」(大経*巻下)といへり。されば曠劫流転のあひだ諸有経歷の程、しづむ時はつねに地獄・鬼・畜の間をはなれず、うかぶ時はわづかに人 中天上のあひだにむまる。しづむもうかぶも独生独死のみち、きくに心ぼそく、むまるゝも死するも自業自得のことはり、つくづくとおもへばかなし。殃悪をつくれば、泥梨の鉄城をかまへてこれをまち、福善をたくはふれば、上界の天宮をかざりてあひまうくるにこそ。しかるに惑業はつくりやすければ悪道の果は感じやすく、福因はうへがたければ善趣の報はまねきがたし。たとひまた人天の快楽をえたりとも、それもさらに解脱の要路にはあらず。光明寺和尚は「人天之楽猶如電光。須臾即捨、還入三悪長時受苦」(定善義)とのたまへり。えてもなにかせん、えんこともまたかたし。おほよそ末代悪世の衆生、けふこのごろの凡夫は劫濁・命濁の不善、五ながらますます増し、五戒・八戒等の律儀、一としてまたからず。楞厳の先徳の解釈に、「善業今世所学、雖欣動退。妄業永劫所習、雖厭猶起。野鹿難繫家狗自馴」(要集*巻中意)といへる。げにをろかなる身におもひしらるゝまゝに、上根利智の人なりとも末世澆季のならひはさまでかはらじとこそおぼゆれ。かくのごときの輩は随縁起行の功をもつみがたければ、いかにしてか進道の資糧をもたくはへん。たとひ随分精勤の法財をえたりとも、六賊知聞の侵奪をのがれがたかるべし。悲哉悲哉、何為何為。

しかるに、弥陀の本願はあやにくにかゝる悪機を摂し、西方の浄土はもはらこの類をもきらはざれば、当今の衆生ことに真宗の教門に帰し、罪悪の凡愚ひとへに極楽の往生を期すべし。如来廻向の威徳なるがゆへに、機の利鈍によらず、他力難思の本誓なるがゆへに、行の多少を論ぜず。馮を懸てみなを称すれば、一念も十声もともにむまれ、願に乗じて誠をいたせば、四重も五逆ももるゝことなし。まことにこれ、唯仏一道独清閑の正門、究竟解脱断根源の直路なり。月氏には竜樹・天親等の大士これを弘通す、ともに恵蔵を製して定判あり。晨旦には曇鸞・道綽等の五祖これを相承す、ことに善導をもて倚頼とす。しかうしてのち、我朝に流布すること連々としてたえず、諸師敷揚すること代々これおほし。慈覚・慈恵等の大師もこぞりて安養の往生をすゝめ、楞厳・禅林等の先徳ももはら弥陀の利益を嘆ぜり。しかりといへども、根機やいまだ熟せざりけん、帰奉ひろきにあらず、時節やいまだいたらざりけん、宗旨なをあらはれず。
爰に黒谷の源空聖人、生を本朝に受て辺域の群類を開導し、化を濁世に施て西方の要行を弘宣す。初の習学は真言・止観の教門なり、かねて諸宗にわたり、あまねく一代をうかゞふ。後の依行は専修念仏の一門なり、ひとへに弥陀をあふぎ、 たゞ極楽をすゝむ。これすなはち、そのかみ恵心の『往生要集』を見給けるより厭穢欣浄のこゝろもやうやくすゝみ、劣機得脱の益のむなしかるまじきことはりも信をもよほし給けるか。彼『集』にひきもちゐるところ、おほく導和尚の釈をもて規とせり。これによりて、『観経義』を披閲し給こと数遍ののち、忽に自力の局情を捨て新に他力の奥旨を得たまへり。たゞしみづからの出離にをいてはすでに決定せり。他のためにこの法をひろめんとおもふに、わが詳覈するところの義、仏意にかなふやいなや。大事の因縁たるによりてなを心労の肝胆をくだき給けるに、夢の中に証をえて慥に仏可を蒙給けり。いはゆる紫雲靉靆として太虚におほひ、光明赫奕として世界をてらす。また高山の嶮阻なるあり、彩雲峯の上にそびく。長河の浩汗たるあり、霊鳥波の辺にかける。更に穢土の境界にあらず、浄刹の荘厳にことならず。雲の中に一の僧あり、上は墨染の衣、下は金色の服なり。聖人誰とかせんと問給に、僧こたへてのたまはく、我はこれ善導なり、汝専修念仏を弘通せんと欲するがゆへに、証をなさんがためにきたれるなりと云々。しかれば、聖人みたて給ところの義、和尚の御意にたがはざること知ぬべし。和尚は弥陀の応化にてましませば、和尚の許可はすなはち弥陀の印定なり。今時の衆生、悪世 の群類、かの化導をあふぎ、その示誨にしたがふべきものなり。聖人の後、業学解林をなし、門流みなまたをわかてる中に、善信聖人親鸞と申しは面受上足の弟子、内外通達の高徳なり。俗姓は藤原、皇太后宮大進有範の息男なり。幼稚にして父に喪し給けるを、伯父若狭三位[範縄卿]猶子として交衆をいたす、扶持の力ともなり、文学をはげむ提撕の訓をも加られけり。また式部大輔W宗業卿Rもおなじく伯父にておはしけるが、彼卿に対し奉て說をうけたてまつらるゝ事共もありけるとなん。かくて生年九歳の時、養和元年春の比、若狭三品W于時四品R青蓮院慈鎮和尚の貴房に伴参して、すなはち出家をとげしめ範宴少納言公と号せられき。同年登檀受戒、それよりこのかた顕を学し密を行ずるつとめをこたらずして、蛍をひろひ雪をあつむる功おほくつもる。しかれども三止三観の窓の前に百界千如の月やゝもすればくもりやすく、五相五輪の壇の上に六大四曼の花しきりにあざやかなる色をかくせり。かゝりければ滅罪生善のはかりごと、事理につけてとゝのほらず、自行化他の益、彼此ともにそむけり。されば仮名の修行なにゝかはせん。いかにしてか、このたびまめやかに生死をまぬかるゝ道をえんと思給ければ、つねに住山をくはだて、とこしなへに練行をいたして医王・山王にもこの一事をの み祈請し、大師・祖師にも他の悉地を申さるゝ事はなかりけるうへに、娑婆世界施無畏者の悲願をたのみ日本伝灯上宮王の済度を仰て、山上より西坂本にかゝり、六角堂へ百日の参詣をいたし給て、ねがはくは有縁の要法をしめし真の知識にあふことをえしめたまへと、丹誠を抽で祈給に、九十九日に満ずる夜の夢に、末代出離の要路念仏にはしかず。法然聖人いま苦海を度す。かの所に到て要津を問べきよし慥に示現あり。すなはち感淚をのごひ、霊告に任て吉水の禅室にのぞみ、事の子細を啓し給ければ、発心の強盛なることも有がたく、聖応の掲焉なることも他に異なりとて、聖道・浄土、難易の差別手を取てさづけ、安心起行、肝要の奥旨、舌を吐て述給けるに、日来の蓄懐こゝに満足し、今度の往生忽に決定しぬと悦たまふ。于時建仁元年[辛酉]聖人廿九歳、聖道を捨て浄土に帰し、雑行を閣て念仏を専にし給ける始なり。すなはち所望によりて名字をあたへたまふ。その時は綽空とつけ給けるを、後に夢想の告ありける程に聖人に申されて善信とあらため、又実名を親鸞と号し給き。しかありしよりのち、或は製作の『選択集』をさづけられ、或は真影の図画をゆるされて殊に慇懃の恩誨にあづかり、あくまで巨細の指授をかうぶり給けり。されども身に才智をたくはへながら、ことさらに学解を 事とせらるゝすがたもなく、こゝろを浄域にすましむといへども、あながちに世塵をとをざかる行儀をも表し給ざりけり。黒谷の大祖聖人、真宗の興行によりて遠流の罪責に及し時、門弟の上足同科の沙汰ありしに、この上人もその中として越後国国府にうつされて、おほくの春秋を送たまひけり。明師聖人帰京の時、おなじく勅免ありけれども、事の縁ありて東国にこえ、はじめ常陸国にして専修念仏をすゝめたまふ。これひとへに辺鄙在家の輩をたすけて、済度利生の本意をとげんとなり。
おほよそ聖道の諸教は根性利者のため、弥陀の一教は鈍根無智にかうぶらしむ。されども難行の聖道をすて易修の真門に入ても、行学をはげむとはげまざると差別なきにあらず。しかるゆへは、まづ学路にあゆまんとする人は、ふかく三経一論の玄旨をわきまへ、ひろく異朝和国の典籍をうかゞひて、法命をもつき、人師ともなる。まことに智水もしうるほさずは、善苗をそだてがたく、恵灯もしかゝげずは、いかでか迷暗をてらすべきなれば、その器にたへたらん人もとも庶幾するにたれり。しかりといへども、まなぶものは牛毛のごとく、なすものは麟角のごとくなるゆへに、もし学の浅深によりて益の得否あるべくは、天性至愚の族はながくその望をたちぬべし。次に行門におもむく人は昼夜六時の策励をいたして、 転経念仏の熏修をつむ。随て欲塵の境界をはなれ、遁世の威儀をむねとして厭離穢土の素懐をあらはし、道心純熟の形狀をしめすなり。当世の人の欲するところ、おほくはこれにあり、かくのごとくならざらん人は、ほとほと往生しがたしとおもへり。解行の修習もともねがふべしといへども、大悲の利生またくこれにかぎるべからず。今の二途にもれてその一徳もなき田舎卑賤の下輩、一文不通の愚人、仏法の名字をもきかず、因果の道理をもしらで、解脱の術をうしなひ、出離の道にまよへる没々の群生、闇々の衆類に至まで、仏意豈すてたまはんや。知識にあはずしてむなしく人身を失せんこと、かなしむべし、かなしむべし。謹て光明寺和尚の解釈をひらくに、「諸仏大悲於苦者。心偏愍念常没衆生」(玄義分)とのたまへり。このゆへに、下機の中になを下機をあはれみ、悪人の中になを悪人をめぐみて、無縁の慈悲をほどこし救苦の方便をめぐらし給らん。二尊の仏意に順じてかれらを済度せんと企たまへりし本懐ことに甚深なり。これによりて、在世の弘教もいたりてあまねく、滅後の興法も今にさかりなり。
本廟は京都白河大谷にあり、知恩院の西の辺本願寺これなり。根本の門弟はもはら東国にみち、枝末の余塵はやうやく諸邦にをよぶ。面授の弟子おほかりし中に、 奥州東山の如信上人と申人おはしましき。あながちに修学をたしなまざれば、ひろく経典をうかゞはずといへども、出要をもとむるこゝろざしあさからざるゆへに、一すぢに聖人の教示を信仰する外に他事なし。これによりて、幼年の昔より長大の後にいたるまで、禅床のあたりをはなれず。学窓の中にちかづき給ければ、自の望にて開示にあづかり給事も時をえらばず。他のために設化し給ときも、その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の徳も人にこえ給けり。かの阿難尊者の常に仏後にしたがひ、身座下に臨て多聞広識の名をほどこし、伝說流通の錯なかりけるも、かくやとぞおぼゆる。
この上人の弟子またそのかずあり、東国には数輩にをよぶ。処々の道場をのをの化益をいたす。京都には一人の尊宿まします、勘解由小路中納言法印坊[宗昭]これなり。当流伝来の譜系をば今師よりうけ、親鸞聖人の遺跡をば先考よりつたへたまへり。これ一流の法将、当教の名哲なり。初は南京の綱維をへて三笠山の春の花におもひをそめ、後には西土の行人となりて九品台の秋の月に心をぞすまされける。さるまゝには大旨は籠居の体なり。しかどもとりわき外相に遁世の儀を標せらるゝ事もなし。たゞ内心に後生の得脱をねがひ給ばかりなり。さりながら 念仏門の衆中にしては隠遁の名字をもなのり給けり。或は覚如と称せらるゝ時もあり、一実真如の極理を覚知する謂を存じ給なるべし。或は毫摂と号せらるゝおりもあり、白毫摂取の光益を受得する思をなさるゝなるべし。しかれども人はたゞ法印とのみ申しを、自身にもしゐて辞せらるゝ事もなかりけり。これすなはち外相賢善の儀を現ぜず、遁世捨家のすがたもなかりしによりて、もとより居し給し綱位なれば、喚習たてまつりしにつきて、よそにもあらためず、我としてもいとはるゝ事もなかりけり。本寺の交衆を止て浄土の行人となりし人も、このためしなきにあらず。長楽寺の隆寛律師、生馬の良遍法印等これなり。「大隠は朝市にかくる」といふ事もあれば、中々ありのまゝなるは末代相応の作法をふるまひ給けるにやと、様かはりてたうとくこそ。
こゝにかの尊老の開導を蒙て、わが当来の資貯をになへるひとりの羊僧あり、名を乗専といふ。身をろかに、こゝろくらく、智もなく、行もなし。放逸にして悪業のおそるべきをもしらず、懈怠にして善種のうふべきをももとめず。現在の罪𠍴むなしからずは、未来の悪果いかでかのがれん。而に過去の微縁やもよほしけん、この門下にのぞみてあらあら「三部経」の文字読をもいたし、聖人の御己証とて演 說にあづかりしかば、信仰のおもひ肝にそみ、帰依のこゝろざし骨にとほりておぼえ侍し程に、曠劫多生の芳縁もことにおもひしられ、今生昵近の忠節もひとへに他をわすれき。宗家の解釈をうかがふに、在世の声聞衆の仏辺をはなれざる意をのべ給として、「迦葉等意、唯自曠劫久沈生死循還六道、苦不可言。愚痴・悪見封執邪風、不値明師永流於苦海。但以宿縁有遇得会慈尊。法沢無私、我曹受潤。尋思仏之恩徳、砕身之極罔然。致使親事霊儀、無由暫替」(序分義)とのたまへる。凡聖あひことなれども師をたうとむべき志もこゝにあらはれ、賢愚おなじからざれども恩をおもふべきことはりもしりぬべし。聖人の『教行証の文類』(化身*土巻)にも、或は『涅槃経』に、「一切梵行因善知識。一切梵行因雖無量、說善知識則已摂尽」といへる文をひき、或『華厳経』に、「汝念善知識。生我如父母、養我如乳母、増長菩提分」といへる說をのせて、師恩の報じがたきことをのべ、知識ををもくすべきことをしるしたまへり。さればこゝろばかりは常随給仕の功をつまんと思しかども、なを数年の病患にさへられて不慮の間断あることをかなしみ、一すぢに報恩謝徳の勤をいたさんとはげみしかども、まめやかに身命をわするゝばかりの誠もなくてやみぬ ることのかなしさに、かの生涯の行狀を筆墨にしるして数廻の恩言を承しになずらへ、その記錄の旨趣を丹青にあらはして、平日の尊顔に向たてまつりしに擬せんとおもふ。たゞし一期の行事、八旬の挙動、くはしくしりたてまつるにあたはず、さだめて簡要たるべき事のもるゝも侍らん。たゞ法門宣說の砌にして、おりにふるゝ雑談もありし次に、聖道経歷の古の事をもかたりいで、真宗帰入の昔のゆへをもしめし給しことのをのづから耳にとゞまり、わづかにこゝろにうかぶをしるしはんべれば、外人は後素にあらはすばかりの奇特は何事ぞなど嘲をもくはへ、後輩は編次をなせることばの首尾とゝのほらざるを見て脣をかへしぬべし。これをかへりみざるにはあらずといへども、これをいたみとするにはたらず。しかるゆへは、もとより外見をば禁ぜんとおもふ。他人のみん時は謗をばいたすとも、信ずべからざるがゆへに、あながちに拙詞をばはぢず、愚士の記する所は美をもとむといふとも、優なるべからざるがゆへなり。たゞわが尊崇の余あるこゝろにまかせ、ひとへにみづからの帰敬の弐なき思にもよほさるゝばかりなり。つねに真影の傍に安じて、ながく後弟につたへんとなり。いま篇をたつること二十八段、帙をわかつこと一部七巻、なづけて「最須敬重の絵」といふ。

抑大和尚位尊老は、まづ俗姓は藤原氏、日野の後胤なり。 白河院より近衛院にいたるまで五代の 聖朝に仕たまひし兄弟二人の賢臣おはしましけり。家兄は都督納言[実光卿]、才幹世にもちゐられ、 朝獎他にことなりき。その遺流はいまも累葉の芳塵たえずして、一家の余光身をてらし給めり。舎弟は式部大輔宗光朝臣、これも文学の嘉名ともがらにはぢずして、おなじく官学の両道にあゆみ給ければ、廷尉の顕職にもいたり、尚書の一台にもつらなられけり。その子息経尹朝臣、阿波守にて翰林を兼し給けるが、年わかく位あさくて、世をはやうせられけり。その子勘解由三位[宗業卿]、学校疑関のみち人にすぐれ、博覧懸河の誉世にあまねし。五更の間に応じ、四英の一にかぞへられ給き。しかるに承久騒乱の時、天下転変の刻、家にあらざる弓箭にたづさはることなく、業をうくる筆硯にまつはるゝ外にあやまつことなかりしかども、「火炎崑岳、礫石与琬琰倶焚。厳霜夜零、蕭蔥与芝蘭共尽」(文選)といへるゆへにや、仙洞近習の人々おほく牢籠し給ける随一にて、所帯の荘園みな武勲の賞賜となり、拝趨の要路ことごとく不慮の収公に及しかば、子孫身を全すべき計なく、家門塵を継べき道をたゝれけり。されども子息上野三位[信綱卿]、その子左衛門佐広綱に至まで形のごとくなを朝廷に わしり、皇家につかふる身にておはしけり。かの金吾に一人の息男あり。いまだ首服にをよばず、童名光寿と申けるが、七歳の時父にをくれてはやくみなしごとなられにけり。身に便をうしなへること水を離たる魚のごとく、世に馮なきこと陸にふせる亀に似たり。仍いとけなきこゝろに世路の嶮難のあゆみがたきことをしり、帝都の勁節のつきがたきことを顧て釈門にぞおもひたゝれける。すなはち大蔵卿三位[光国卿]の引導として青蓮院二品親王[尊助]の門下に参じ、出家得度の本意をとげて密教修習の浄侶となられけり。やがて熾盛光院の有職に補せられて、中納言阿闍梨宗恵とぞ申ける。かくて門跡に侍て次第の受法などありけるが、闍梨思給けるは、累代勤王の家を出ぬるは、人中交衆の力をうしなふが故なり。いま僧家に入といへども、なを俗塵のまじはりにことならず。竹園貴禅の門人に列て華蔵上乗の教法にたづさはることは、真俗に付て慶幸といひつべし。されども高官重職にのぼりたりとも、浮生の栄名ひさしくたもつべきにあらず。受職灌頂をとげたりとも、即身の証悟我にをいて成じがたし。真門にこゝろをすます身とならんこそ心安けれとて、門主に暇を申し忽に黒衣をぞ著せられける。すなはち坊号覚恵と称す。かゝりけるも幼少より聖人の御膝の下にありて、撫育の恩にも あづかり、教訓の詞をも蒙給ければ、諸教の得道の下機に相応しがたき旨をもつねに耳にふれ、弥陀の本願の鈍根を引摂する益をもおろおろ聞なれ給けるゆへに、かく思入給けるなるべし。されども聖人の芳言をば承給ながら、ひとへに信順の儀まではなかりしかばとて、これも如信上人をもて師承とし、親鸞聖人をば祖師とあがめたてまつり給けり。すなはち廟堂の寺務として門流の正統なり。いまの大和尚はかの闍梨の真弟なり、母は中原氏、周防守なにがしとかや申ける人の女なり。人王八十九代 亀山院の御宇、文永七年[庚午]十二月廿八日の夜三条富小路の辺にて誕生あり。如来滅後二千二百十九年、祖師鸞聖人の遷化にをくれたること八ケ”年なり。かの聖人の円寂は十一月廿八日、この尊老の降誕は十二月廿八日、かれは入滅、これは出胎、かれは仲冬、これは季冬、同日にしもあたれるは帰敬の信心のいとゞもよほす端ともなりぬべく、始末の化導のおなじかるべき義もおもひあはせらるゝものなり。

文和元歳[壬辰]十月十九日令書写安置之
隠倫乗専


最須敬重絵詞二

第二段
代々の例にて童名には光の字をつけられければ、これも光仙とぞ号せられける。文永九年秋のころ、母堂病の床にふして日をわたり給けるに、光仙殿その時は三歳なれば、いまだ知母の齢にもいたらず。そのうへ乳母のふところにのみいだかれて、さだかに生母の恩愛をわきまへ給べきならぬに、母の労たまふことを知て、しきりにこゑをたてゝなき、ともすれば顔をまもりて、なげきの色をぞあらはされける。さる程に八月廿日無常の秋の風にさそはれて、有為の夕の露ときえ給にき。この時にあたりてかなしみしたひ給ことかぎりなし。その体たゞ成人のごとくにみえ給けるは不思議の事なり。おほよそおさなくてのありさま、襁褓の中にありてもみだりに涕泣することなく、同稚の輩にまじはりても強に遊戯することなし。言行ともにとゝのほりてあまりに老ずけたるまでにみえ給けり。或時厳親のところに客人のきたれるあり。かの人ひさしくまうでこざりけるが、月日をへてきたりのぞみけるに、日来の疎遠を謝せんとやおもひけん。父にてはんべる翁 のおもひの外なる問号を負たる事の侍て、さやうの事はるけんとせし程に暇をえがたくて、かくかきたえをとづれもまうさず侍つると申けるを、その人かへりて後に、虚実をばしらず、問号とは盗といふ事歟、よからぬ名なればこの事申さずともありなんと人々いひしろひけるに、かたへはなにかくるしからん。これはこゝろなほき人なるゆへに、身のをこたりなき由をきこえんために、ありのまゝに申にこそといひけるをきゝ給て、この小児五、六歳の程にやおはしけん。さかしらし給けるは、正直なるも事にこそよれ、おやの恥をばいかゞあらはすべきと仰られければ、面々に舌をふり、あなおそろしのおほせられごとや、道理のをすところ、げにもさらなりとぞ、をのをの申ける。この事をおもふに、まことに幼児の浮言といふべからず、をのづから先聖の美旨にかなへり。むかし葉公といふ人、孔子に語ていはく、「吾党躬を直する者あり、その父羊をぬすめり、子これを証す」(論語)と。孔子これを聞て、「吾党のなほき者これに異なり、父は子の為にかくし、子は父の為にかくす、直ことその中にあり」(論語)とのたまひけり。かのこゝろのなほきゆへに申にこそと云ける傍人の異見は、葉公のおもへる直にあたれり。正直なるも事にこそよれとおほせられける童形の一言は、孔子ののたまへ る直にかなひて侍にや。


第三段
厳親思給けるは、我こそいとけなくして父に喪し、徒に孤となりしかば、庭の訓も跡なく、家の風もふきたえぬれば、まづいかにも外書をまなばしめばやと思給けり。されども累代の文書も失墜しぬ、訓說の相伝も我身はたどたどし、一門の俗中などにあつらへつけたりとも、幼学の扶持いかにも大様なるべければ、いかゞせましと思煩給けるが、とても釈門に入べき身なれば、あながちに当家・他家の說をみがき、紀伝・明経の点をいはずとも、たゞ仏教修学のした目のためなれば、さまでその道の明哲ならずともありなんとおぼされけり。爰に本は叡山の学侶にて侍従竪者貞舜といふ人あり。本山の交衆をやめ、浄土の行人となりて長楽寺一方の正統といはれ、慈信房澄海とぞ号しける。隆寛律師には孫弟敬日房円海の附法なり。山上に住しても随分の宏才にかぞへられ、真門に入ても超倫の名誉あり。しかるにかの人、厳親大谷の幽栖に簷をならべて、浄土一宗の芳好に昵をなされければ、これに対して円宗の学問をも内々とげしめんとおぼされけるに、この大徳はたゞ聖道・浄土の先達たるのみにあらず、兼て周詩・和語の才幹もく ちおしからず。文華風月の天骨も性にうけて、說道なども世にもちゐられ、何事につけても人にゆるされたりしかば、まづこの老僧につけて内外典あひともに学せしめんとぞおもはれける。仍文永十一年秋の比にや、光仙御前五歳にて始て『朗詠集』をうけ給けるよりいくばくの月日をへず、四部の読書の功ををへ、其外の小文などもよみ給けり。長大の後は南家の鴻儒藤三位[明範卿]の子息大内記業範といひし人の出家のゝち細々に申通ぜられけるにぞ訪給ける。さて読書少々をはりければ、釈典にとりむかはれけり。はじめて『倶舎の頌疏』を学し、兼て天台の名目をぞ沙汰ありける。『頌疏』はまづ「世間品」を談じけるに、三界五趣の因果、九山八海の建立以下おぼつかなからず意を得て、ほとほと成人の同学よりも領解すゝむことおほかりけり。『本頌』三十巻は程なく闇誦してくらきところなし。かゝりければ法門の棟梁たらんことをあらまし、禅林の錦繡たらんことをよろこび思て、厳親もいよいよ寵愛をくはへ、能化もしきりに感嘆をいたす。敬日大徳の作にて、円宗の要文をあつめ、簡要の義理をしるして『初心集』と題したる五帖の秘鈔あり。すなはちかの自筆なるを慈信房相伝してことに秘蔵ありけるを、幼敏の随喜にたへず、慇懃の奥書を載て附属の芳志をあらはす。かの奥書に云、「先 師敬日上人為幼学之仁、被集此要文等、澄海伝受之。建治三年仲秋十六日、依為法器所奉付嘱光仙殿也。以之表随分懇志而已、愚老澄海」と[云々]。

第四段
この小児、天性の聡明器にうけたるうへ、苦学の精勤も志にそみてみえ給ければ、おなじくは本寺本山の学業をもとげ、鳳闕仙洞の勅喚にもあづかる身になしたてまつらばやと厳親も思たまひ、傍人も勧申ければ、弘安五年夏の比、垂髪十三歳にて、山門天台の名匠宰相法印宗澄ときこえし人の室へ入給けり。禅房は法勝寺の東下河原の辺、門流は宗源法印の弟子なり。稽古功つもり、公請労たけて探題にのぼり、証義にいたられければ、朝獎名あらはれて、ほまれ山洛に及けり。かの法印に随て鑽仰ありけるほどに、一を聞て十をしる性操を感じ、義をさとり文を諳ずる聡敏をよろこばれけり。


第五段
かくて年もあらたまりければ、弘安も六年になりて、春秋十四歳なり。たゞ学問の器量の倫に抜たるのみにあらず、容儀事がらも優美なる体なり。さるまゝには房中の賞翫もならぶ人なく、つたへきくあたりにも事々しき程にぞいひあつかひ ける。その比、三井の上綱にて南滝院の右大臣僧正坊[浄珍]と申人おはしましけり。法流は円満院の二品法親王[円助]の御弟子にて智勝大師の遺流をつたへ、俗性は北小路右相府[道経公]の御息、普賢寺殿には御孫にて二位中将[基輔卿]と申ける英才の賢息なり。真俗につけて時めき給けるが、その御房へまいりかよふ人の宗澄法印の辺にもひとつなる事ありければ、下河原の坊にかゝる垂髪の入室し侍なるが、かの小僧房にあたら児を置たる事の目ざましさよ、この御房へかどひとらせおはしませかしと申いでたりけるを、僧正坊きゝ給て、かの縁者はいかなるあたりにか尋聞て談じこゝろみよかしと仰られけるを、さては院主の御意にもさおぼしめしたるにこそとぞ面々に申ける。或時若輩等会合の事ありける盃酌の砌にて、此事をかたりいだしけるが、其座に本寺の衆徒など少々ありけるを棟梁とし、酔のまぎれにかれこれ与同して、わかき者共上下三十余人、甲冑を帯し兵杖をとゝのへて、かの房に発向しけるに、おりふし房主法印は登山の程にて、留守の輩わづかに四、五人ぞありける。よき隙なりければ、おし入て馬にいだきのせたてまつり、軍兵前後にかくみて帰ける程に、更に手むかへにをよばず、事ゆへなくて率爾の入室ありける、慮外の事なり。僧正坊は穏便ならぬ事かなと仰られ ながら、心中には悦喜し給けり。


第六段
下河原の坊の留守よりいそぎ山上へ告たりければ、法印とる物も取あへず下山せられけり。こはいかにしつる事ぞとて、たゞ大息をつきあきれたる体にてぞおはしける。これも房人の名をかけ経廻する衆徒などもありければ口惜き事なり。奪返べきよし内談ありけれども、法印極信の人にて申されけるは、所存をとげんとせば、さだめて闘戦にをよぶべし、事もしひろくならば、たちまちに両門の確執としてほとほと九洛の騒動にもなりなん。留守無人の時なれば、さまでの恥辱にあらず、法器こそおしけれども力なき次第なり。たゞ自然に離房のよしにてこそあらめ、あひかまへて披露にをよぶべからずと厳制を加られければ、無沙汰にてやみにけり。


第七段
さて南滝院には寵異ことにはなはだしく、愛翫きはまりなかりけり。あまたの児達の中にも所ををかれて名字を慥によばるゝ事もなく、おさなくて阿古阿古となのられける、そのかた名をぞよばれ給ける。未来には院家のうち一方の管領をゆ るして、本尊・聖教の附属もあるべきむねなどしめされければ、厳親この由を聞給て、両門経歷の条も本意にそむき、転変卒爾の儀もおだやかならずおぼゆれども、これ又宿縁あるゆへにこそと、心中には不思議にぞ思給ける。院主かやうにもてなされければ、院家被官の門侶老若をいはず、われおとらじとあつまり、徒然をなぐさめたてまつらんとて、日々に献酬の儀をとゝのへ、時々に遊宴の席をのぶ。すこしまことしき事とては歌連歌などぞ有ける。さならで長時のあそびには囲碁・双六・将騎・乱碁・文字鎖、なぞなぞせぬ態もなく、いかにしてか興にいらんとのみぞしける。かゝる座席にも、さて黙止事なく、なにはの事につけても、人をすさめぬ様に振舞給ければ、房中こぞりて称美することかぎりなし。されども学問といふ沙汰は内外につけてなかりければ、本人の意にはかくてはさは何の身にかなるべきとこゝろとまらずぞ思給ける。

文和元歳[壬辰]十月十九日令書写安置之
隠倫乗専


最須敬重絵詞五


第十七段
聖人御勧化の旧跡もゆかしく、いまだ上洛せぬ門弟達の向顔も大切におぼされければ、東国の巡見度々に及けり。まづ最初には、正応三年三月の比、厳親桑門下向せさせ給けるに同道し給、こゝかしこ御遊歷の処々に至て、往事をしたふ淚にむせび、連々御隠居の国々を見て、平日の化導にもれたることをのみぞ今更かなしみ給ける。その下国の路にひたちの国とかや、小柿の山中と云所にて、にはかにわづらひ給事ありけり。世間に傷寒と号する事にや、温気身にありて四大やすからず、苦痛こゝろをなやまして五蔵ことごとくいたむ。旅所の程なれば、医家の術を訪にもをよばず、生涯の終にこそとて、たゞ仏刹の望をのみぞ専にせられける。こゝに慈信大徳と申人おはしけり、如信上人には厳考、本願寺聖人の御弟子なり。初は聖人の御使として坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなはり給けるが、後には法文の義理をあらため、あまさへ巫女の輩に交て、仏法修行の儀にはづれ、外道尼乾子の様にておはしければ、聖人も御余塵の一列 におぼしめさず、所化につらなりし人々もすてゝみな直に聖人へぞまいりける。而にかの大徳ちかきあたりに遊止し給けるほどに、病床をとぶらはんがために旅店にきたりのぞまれけるが、の給けるは、われ符をもてよろづの災難を治す、或は邪気、或は病悩、乃至呪詛、怨家等をしりぞくるにいたるまで、効験いまだ地におちず、今の病相は温病とみえたり。これを服せられば即時に平愈すべしとて、すなはち符を書て与らる。病者こゝろの中に領納の思なかりければ、面の上に不受の色あらはれたり。さりながら事を病患の朦昧に寄て、しらぬ由にて取たまはず。厳親枕にそふて坐し給けるが、本人辞遁の気をば見給ながら、片腹痛とや思給けん、それそれと勧らる。信上人、又そばにて取継て、やがて手にわたし給けるほどに、さのみのがれがたくて、のむよしにて手のなかにかくし、くちのうちへはいれたまはざりけり。いつはりのみ給けしき、かの大徳もみとがめ給けるにや、わが符術をかろしめてもちゐられざるよし、後日につぶやき給けるとぞ。さて大徳かへられてのちに、かの符を受用なかりつる所存はいかにと桑門たづね給ければ、こたへ給けるは、名号不思議の功能を案じ、護念増上縁の勝益を思には、まめやかに鬼魅のなす所の病ならば、おほかたは念仏者のこれにをかされん事は 本意ならず。これ行者の信心のいまだいたらざるゆへ歟、しからずは、うくる所のやまひ瘴煙のたぐひにあらざる歟。もし風寒のなやますところならば良薬をもて治すべし、もし疫神のなすところならば仏力をもて伏すべし。いかでか無上大利の名号をたもちながら、つたなく浅近幻惑の呪術をもちゐんやとこたへ給けり。そのゝちことに信力をぬきいで、称名をこたり給ざりけるに、病累程なく平復し、心神本のごとく安泰にぞ成給ける。かの慈信大徳もかくのごとく仏法の軌儀をひるがへし、巫覡の振舞にておはしけれども、もし外相をわざとかやうにもてなされけるにや、あやしくみえ給事ともありけり。そのゆへは大和尚位同斗藪の時、鎌倉をすぎ給けるに、故最勝園寺相州禅門W貞時朝臣R政務のはじめつかたなりけるに、おりふし守殿の御浜出とてひそめきさはぐを見給ければ、塔の辻より浜際まで数多の勢みちもよけやらずつゞきたり。その為体、僧尼士女あひまじはり、帔をたれてみな騎馬なるが二、三百騎もやあるらんとみえたり。その中にかの大徳もくはゝられけるが、聖人よりたまはられける無㝵光如来の名号のいつも身をはなたれぬを頸にかけ、馬上にても他事なく念仏せられけり。又常陸国をとほり給けるにも、その比小田の惣領ときこえしは、筑後守知頼の事にや。かの人鹿嶋の社へ 参詣の時にも同道せられけるが、そのときも本尊の随身といひ羇中の称名といひ、関東の行儀にすこしもたがはず、両度ともにとほりあひて御覧じ給ければ、心中の帰法は外儀の軽忽にはたがはれたるにやとぞの給し。しかのみならず、聖人五条西洞院の禅房にわたらせ給しとき、かの大徳まいり給たりけるに、常の御すまゐへ請じ申され、冬の事なれば炉辺にて御対面あり。聖人と大徳と互に御額を合て、ひそかに言辞を通じ給けり。高田の顕智大徳と云人は、真壁の真仏聖の弟子にて、聖人には御孫弟ながら、上洛の時は禅容のほとりにちかづき、直に温言の端にも預し人なるがゆへに、おりふしふとまいりてこはづくろひありければ、聖人も言說をやめられ、信大徳すなはち片方へ退給けり。話語のむねしりがたし、よも世間の塵事にはあらじ、定て仏法の密談なるべし、いかさまにも子細ある御事にやとぞ、顕智房はのちにかたり申されける。おほよそ人の権実は凡見をもてさだめがたく、外相をもてはかりがたし。かの書写山の性空上人の生身の普賢を拝せんと願ぜし摂州神崎の遊女の長者、白玉無漏の相を示けり。また元興寺の頼光法師の一生嬾堕なりし、人出離をうたがひしかども、心中にひそかに修するところありければ、安養順次の往生をとげき。さればこの慈信大徳も、今のありさ まは釈範に違し、その行狀は幻術に同ずれども、しらず御子巫等の党にまじはりて、かれらをみちびかんとする大聖の善巧にもやありけん。外儀は西方の行人にあらざれども内心は弥陀を持念せられければ、かの符術も名号加持の力をもとゝせられけるにや。もちゐる人はかならずその勝利むなしからざりけり。しかりといへども、当時の体をみるに、一流の行儀にあらざれば、その時かの符をうけたまはざりける信心の堅強なる程もあらはれ、師訓を憶持したまふ至もたうとくこそおぼゆれ。


第十八段

唯善との宿善論争


大納言阿闍梨弘雅と云人あり。俗姓は小野宮少将入道具親朝臣の子息に、始は少将阿闍梨[失名]と申ける人の世を遁て禅念房となん号せし人の真弟なり。仁和寺鳴滝相応院前大僧正坊[守助]の弟子にて、御室へも参仕の号を懸られけり。むねとは広沢の清流を酌て真言の教門をうかゞひ、兼ては修験の一道に歩て山林の斗藪をたしなまれけるが、後にはこれも隠遁して河和田の唯円大徳をもて師範とし、聖人の門葉と成て唯善房とぞ号せられける。 とりわき一宗を習学の事などはなかりしかども、真俗に亘てつたなからず、万事につけて才学を立られける人なり。覚恵尊宿には一腹の舎弟にて坐し給ければ、大和尚位には叔姪の中にて、居を南

北にならべ、交を朝夕にむすばれけるが、常には法門の談話ありけり。或時はかりなき諍論あり。尊老人に対して法文を演說し給ことありける詞に、いま聞法能行の身となれるは善知識にあへる故なり。知識にあふことは宿善開発のゆへなり。されば聞て信行せん人は宿縁を悦べしとのたまひければ、唯善大徳難ぜられていはく、念仏往生の義理またく宿善の有無をいふべからず。すでに所被の機をいふに十方衆生なり、その中に善悪の二機を摂す。善人にはまことに過現の善根もあるべし、悪人には二世一毫の善種さらになき者もあるべし。今の義ならば是等の類は本願にもれなんと申されけり。尊老の給けるは、頓教一乗の極談、凡悪済度の宗旨を立する時、たゞをしへて念仏を行ぜしむるにあり。その出離の機をさだめんにをいて、とをく宿善をたづぬべからざる事は然なり。他師下三品の機を判ずとして、始学大乗の人なりといへるを、宗家破して「遇悪の凡夫」(玄義分)と釈せらるゝは此意なり。されば『大経』(巻下)の文に「雖一世勤苦須臾之間、後生無量寿仏国」「隠/顕」
一世に勤苦すといへども須臾のあひだなり、後に無量寿仏国に生れて快楽極まりなし。
といへる、一世の修行に依て九品の往生をうることは其義勿論なり、あらそふ所にあらず。たゞし退てこれをいふに、往生をうることは念仏の益なり、教法にあふことは宿善の功なり。もし宿善にあらずして直に法にあふといはゞ、

なんぞ諸仏の神力一時に衆生をつくし、如来の大悲一念に菩提をえしめざる。しかるに仏教にあふに遅速あり。解脱をうるに前後あるは、宿善の厚薄にこたへ修行の強弱による。このゆへに『経』(大経*巻下)には、「若人無善本不得聞此経」とも、「宿世見諸仏楽聴如是教」ともとけり。就中、和尚『清浄覚経』の文を引て、信不の得失をあかしたまへり。これすなはち不信の者はこの說を聞て慚愧をいたし、自心をはげまさんがため、もとより信順のものはいよいよ堅持して、怯弱のこゝろをのぞかんがためなり。仏說すでに炳焉なり、いかでか宿善なしといはんと。唯公、又さては念仏往生にはあらで宿善往生にこそと申されければ、尊老、又宿善の当体をもて往生すといふ事は、始より申さねば宿善往生とかけりおほせらるゝにをよばず。往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず、教法にあふことは宿善の縁にこたえ、往生をうることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲行信遠慶宿縁」(総序)と釈し給うへは、余流をくみながら相論にをよびがたき歟と云々。其後両方問答をやめ、たがひに言說なかりけり。五条大納言[邦綱卿]の遺孫にて東海の州吏をへたる一人の雲客あり。北白川院に侍て仙院の事をばよろづにつけて申沙汰せられけるが、出家発心して伊勢入道行願房とぞ申ける。 俗体の時も才幹和漢にわたり、管絃の道なども人にしられたりしが、隠遁の後は法談の処々にちかづきのぞみて、聖道・浄土の法文に聴聞の耳をそばだて、諸宗久学の碩徳に難答の詞をも通して、博覧内外典をかね、智弁随分の誉ありし人なり。かの人今の諍論を後に聞て、上綱の述義は仏教の正旨にかなひ、学生の智解ときこえたり。荒涼の狂言なれども、唯公の義勢は入道法門なりとぞ申されける。入道法門とは、いかなる事にか慥に相伝の旨はなくて、たゞ暗推の義なる由を申されけるにや。


第十九段
一流の奥区を伝て自身の出要をあきらめ給うへは、広学多聞もさのみはなにゝかはせんなれども、諸家の所談もゆかしく、練磨は学者のあかぬ事なればとて、便宜の聞法をばなをすてられず、他門の先達にも少々謁し給けり。これによりて、安養寺の阿日房上人彰空に遇て、西山の法門をば聴受し給。五部の講敷にもたびたびあひ、そのほか『大経』・『註論』・『念仏鏡』などの談もありけり。又慈光寺の勝縁上人に対して、一念の流をも習学ありけり。これも『凡頓一乗』・『略観経義』・『略料簡』・『措心偈』・『持玄鈔』などいふ幸西上人の製作ゆるされによりてかきとり給けり。


第二十段
長楽寺の門風をば昔慈信上人に受たまふべかりしかども、其時はいまだ幼稚の程なれば、たゞ天台の名目、倶舎の沙汰などにてやみにき。その真弟禅日房良海といひし人、智徳の跡をふむべき器用にてもなかりければ、累代の遺跡も我聖人御廟の敷地のうちとなりし時、相伝の聖教を尊老へ附属したてまつりけり。敬日・慈信両碩徳の鈔物・秘書等まことにその流の重宝とみえ、みな後代の明鏡といひつべし。これによりてかの流の所立も師授なしといへども、おろおろ領解し給けり。いづれの義趣を聞ても、かの教旨をもてあそばんとにはあらず、たゞ所伝の殊玉をみがかんがためなり。あまたの宿才に謁し給も、他の相承をならべんとにはあらず、ひとへにわが家の所伝に同異をわきまへんがためなり。されば彼をきゝ此をきゝても、いよいよ一流の気味をそへ義につけ文につけても、ますます当祖の師承をぞたうとみ給ける。

文和元歳[壬辰]十月十九日令書写安置之
隠倫乗専


最須敬重絵詞六


第廿一段
又清水坂主典辻子光明寺の自性房上人了然に遇て三論宗を学し給けり。厳親多年の知音にて便をえられけるほどに、鸞師の釈などにつきて、かの宗の名目等存知大切なるべき事どもあるによりて、宗の梗概を伺給けるなるべし。件の上人、俗姓は京極入道中納言[定家卿]の嫡子にて、侍従光家といふ人おはしけり。中院の入道大納言[為家卿]は次男にておはしけるが、家督にたてらるゝ時、家をいで世をそむかれけるその子息なり。事の縁ありて、十九歳まで童形にて弘誓院の大納言[教家卿]家に随逐したてまつられければ、有識の事共をも訓說をうけ、入木の道などをも扶持をえたまひけるが、その歳にはかに東大寺の別当僧正[定親]の室に入て出家をとげ、伯父戸部禅門の猶子として定源民部卿公とぞ申ける。それよりこのかた、眼を竜樹・天親の論文にさらし、こゝろを二諦・八不の宗旨にすまして、ほどなく学なり功つもりしかば、得業の請をうけ公請の役にも随て、稽古の誉自他門にたぐひすくなき程なりけり。しかるに道念ひそかにきざし宿縁そら にもよほしけるにや、忽に名利の門を出て隠遁の身となられけり。そのゝちは道隆禅師の門下にして直指人心の宗風をうかゞひ、又洛中名誉の能說とぞきこえられし。遂に徳治の比、上寿八十有余にて辞世の頌を製作して耳目をおどろかされけり。かの座下にして『法華』・『浄名』等の『遊意』幷に『肇論』・『三論玄』等の師授を得給けり。

第廿二段
如信上人は奥州大網東山といふ所に居をしめ給けるに、勧化にしたがふ人国郡にみち、徳行をあふぐやから遠近にあまねし。爰にかの禅室をさること坂東のみち三十里西の方によりて、かねさはといふ所に乗善房といふ人あり。本願を信受するこゝろ誠ありて、師恩を慚謝するおもひことにねんごろなり。これによりて、正安元年窮冬廿日あまりの比、かの草庵に請じたてまつりて昼夜聞法の益にあづかり、朝夕給仕の勤をぞいたしける。かゝるほどに年光はやくくれて、陽春あらたに来けり。しかるに正月二日より心神いさゝか例ならずとて、うちふし給けるが、それより後はひとへに世事の囂塵を抛却して、長時の称名をこたり給ざりけるに、異香室の中に薫じ、音楽窓の外にきこゆること、二日二夜のあひだ耳鼻に ふれて間断なし。かくて同四日巳時に正知正念にして、つゐに称名のいき止給にけり。近隣の輩は瑞雲に驚てのぞみまうで、遠邦の族は霊夢を感じてはせあつまる人おほかりけり。これは奥州にての事なれば、尊老は知たまはず。のちにその告を得給てこそ、都鄙さかひのはるかなることもいまさらうらめしく、死生みちのへだゝりぬることも悲の淚しのびがたく思給けれ。その年秋の比はじめて聞給ければ、その時を入滅の忌辰に擬して、五旬の徂景をかぞへ、百日の光陰を勘て一一の追善を修し、懇々の精誠を抽給けり。一廻第三廻までの恩業をば、京都にてとりをこなひ給けるが、十三年は延慶五年に当たまひけるに、四年冬の比、数州重嶺の雪をしのぎ、百州万里の冰をわたりて、まづ終焉の霊地をしたひ、かねさはの道場にいたりて、諸方の門弟をもよほし、追修の仏事をいとなみ給けり。それより大網の遺跡にまうでゝ、こゝにても一座の梵筵をぞのべられける。慇懃のこゝろざし鄭重のいたりなり。光明寺和尚、『観経』の「奉事師長」の文を釈したまふをみれば、「教示礼節学識成徳、因行無虧乃至成仏、此猶師之善友力也、此之大恩最須敬重」(序分義)といへり。初の二句は世間の師徳をあげ、次の二句は出世の師恩をあかし、次の二句はならべて内外の恩徳をのべ、後の二句は総じて 奉事の本意を結す。又律宗の戒度の釈には「父母師長皆是福田。如其次第生己肉身、養育恩重、訓誨成行、終成法身」といへり。まことに生身を育するは父母なれば、世間の福田のこれにまされるはなく、法身を成ずるは師長なれば、出世の福田のこれよりも大なるはなし。このゆへに我尊老、父母にもことに孝行の志をもはらにし、師長にもふかく報恩の誠をいたし給けり。されば無量劫に骨を砕ても謝しがたき厚徳なれば、数千里に歩を運て抽給ける精信をば、如来もさだめて照鑑し、先師もさこそ納受し給けめ。

第廿三段
厳親桑門は正安のはじめつかた、五十有余の比より瘻といふ病にわづらひ給けるが、種々の療養をくはへられけるも指たる験なく、又うちたへて寝食を忘給までの事はなし。いつとなく心よからぬ事なりけるを、発病よりこのかた臨終まで、首尾八、九年の間上綱治療の術をきはめ、看病の忠をつくして、聊も増あるときは、別離の期のちかづけるかとて愁嘆の淚にむせび、すこしも減かとみゆるおりは、殊なる悦のきたれる様に安堵の思をぞなされける。これすなはち親として仁慈の思人に超たまひしかば、子として孝順の志余にすぐれたまひけるうへ、上綱 つねにの給けるは、六道輪廻の程曠劫流転のあひだ、生々の父母いづれも疎ならず、世々の恩所たれかおとるべきなれども、今生の二親はことに恩ふかく徳あつし。そのゆへは、このたび希奇の法に遇て、ながく生死の源をたつべければ、親子の契もこれを限とおもふには、凡情の愛執そのなごりもおしく、出離の因をこの生にえぬれば、撫育の恩徳いづれの世よりもをもし。ことに報謝の志をもいたし、至孝の誠をも抽べきなりとて、まめやかに心力をはげまし、更に他事なかりけり。爰に大谷の御廟はしばらく邪魔の障難によりて、不慮の災禍にをよびぬべかりしゆへに、あからさまに留守の仁をゝき、東山の本廟を退て、大炊御門東朱雀衣服寺の辺に旅所をしめられけり。上綱もおなじく伴たてまつり給。而に同年四月上旬のすゑざまより、いさゝか風気おはしましければ、心地例にかはりたり。終焉のちかづくにこそとぞ仰られける。そのころ後宇多院御治天にて常磐井殿仙洞なりけるに、右京三品禅門[親業卿]祗候せられたりけるが、累世の知己一門の元老にて、内外なく申通ぜられけるうへ、咫尺の間なれば、細々に音信ありけり。十二日の朝、かの禅門狭少方丈の旅所に来て、浄名居士ならぬ病臥をとぶらひたてまつられければ、脇息に扶られて拾謁をとげらる。自他余命の幾もあるまじき ことをかたり、我も人も再会は西土の蓮台を期すべしなど丁寧の言談、時をうつしてのち禅門かへられければ、長坐窮屈せりとて伏たまふ。しばらくありて浄恵といふ一念の名僧いたれりけるに、うれしくきたれり。一時『礼讚』の望ありつるに、助音すべしとぞしめされける。これは多年練習の旧執によりて、最後聴聞の欣楽をもよほされけるなるべし。かの『首楞厳経』(巻八)には、「臨命終時未捨煖触、一切善悪倶時頓現」ととき、『安楽集』(巻上)には「若刀風一至、百苦湊身、懐念何可弁」といへるも、げに思合られ侍ものかな。一念帰命の時、平生業成の益をうといふとも、至心信楽の故にも、いかでか長時修習の提携をさしをかんや。楞厳の先徳の釈に『大経』(巻下)の流通の文をひき、「歓喜信楽受持読誦如說修行」等の行をあげてこれをすゝめらるゝに、「行者於此諸事、若多若少、随楽憶念。若不能憶念、須披巻対文、或決択、或誦詠、或恋慕、或敬礼、近為勤心之方便、遠結見仏之縁」(要集*巻中)といへり。されば最後に『礼讚』の聴聞を欲し給しは平日に声明をもてあそび給けるが、誦詠の一分として欣求の方便となりけるにや。昔これにめで給けるもかしこくとぞおぼゆる。その由来をたづぬれば、五音七声をわきまへ、呂律清濁に達すること、天性のうくる所その骨をえ たまへりけるほどに、門跡参仕のいにしへも随分に声明をたしなみ給けるが、隠遁の後は殊に意を浄土の曲調に入て、名を非道の秀逸にえたまへり。一念の音曲に節拍子を定けるは教達なり。かの弟子の中に楽心ときこゆるは上足なり。そのかみ彼を召請して連々これをぞならはれける。器にもたへ功をもつまれければ、道にあらずして道に達し、神をきはめ妙をきはめられけり。されば亀山院脱屣ののち、このみちを叡賞ありけるに、「上之所好、下必従之」といへるゆへにや、上達部、殿上人もおほくたしなみ給けるに、時の四英といはれ給し中に、小野宮中将入道師具朝臣と申しは、この桑門の指授によりて芝砌の清選にあづかられけるとぞ。この朝臣は上綱一乗院へ参給し媒介の人なり。上綱もおなじく慇懃の庭訓をうけて涯分の名望をつき給けり。かやうに道にふけりこゝろをそめ給けるゆへに、いまはのきはにもこの一礼を望給けり。さて尊老調声にて初夜の『礼讚』を始られけるに、病者はふしながら聴聞の耳をそばだて、心中に助音ありとみえて、脣をぞうごかし給ける。時々は声にあらはれてもきこえけるが、文々句々に義理をあぢはひて随喜の色あさからず。しかるに枕にかけたてまつられたる善導大師の御影前に当て、念仏の三重の程に殊勝の異香熏じけるを、廻向の後、尊老そば なる浄恵にこれはかぎ侍やとの給ければ、其事なりとこたふ。さるほどに座につらなれる諸人、みなこれをかぎて奇異の思をぞなしける。さて病者、われをいだきあげよ、おきんとの給ければ、看病の人々よりておこしたてまつるに、西に向て端坐し念仏百余遍のどかに唱て、その息にて終給にけり。さるほどに法興院の辺に紫雲たなびけりとて、仙洞の人々きほひみ、上下沙汰しのゝしりけり。三品禅門あやしくおもはれけるほどに、今朝向顔のゝち病相いかゞとをとづれありければ、只今事きれぬるよし返答あり。さればこそこの彩雲の霊瑞は、かの往生の先兆なりけりとたうとまれけり。そのほか粟田口の三品羽林[嗣房卿]、この勝相をみるよし使をもて申をくられけり。もとより日ごろの安心、疑をなされざるうへ、臨終の霊瑞も目をおどろかしぬれば、往生浄土の益は生前第一の悦なれども、恩愛別離の悲、なをやるかたなく、恋慕哀傷の思、ほとほとたぐひなきがごとし。尊儀の先親金吾禅門の墓所、蓮台野芝築地と云所なりけるを、亡者一期のあひだ毎月にまうで給ければ、かの傍に葬して、これも月々の忌景にあたり、各々の菩提をとぶらはんがために父祖の墓に参詣したまふことをこたりなかりけり。頃年よりこのかた古墓のありさま荒廃きはまりなきゆへに、大谷の本所安堵再興数年 の後、かの芳骨を御廟にうつし奉て、本願寺聖人の御骨とともに毎日の頂戴をいたされける。

第廿四段
五旬・百日・一周の追孝をば瞑目の旧寝にして合掌の誠心をはこばれけるが、第三年の時は、これこそ大略作善の終ならんずらめ、まめやかに他事をまじへずして一向称名の功をつまんとおもふに、世縁にまぎれてはいかにも妨あるべし。しづかに独住をいたして、ことに精誠をはげまさんとて、勧修寺の奥、松影といふ所にあやしの草庵をかりうけ、誰ともしられずして隠居し、ひとり篤勤のまことを抽られき。正忌にさきだつこと三七日、幽地をしめて念仏をつとめ、当日を迎て第三廻本所に帰て報恩をいとなみ給けり。又十三年の忌辰は元応元年なりしに、大谷の往跡にて『法事讚』の行法を勤修し給けり。今年は尊老知命の齢にみちたまへるが、いまゝで存じてこの光陰をまちつけぬるは慮外の事なればとて、これも懇念のあまりにかねて三七日のあひだ東山真如堂の霊場にこもりて、西土安楽国の妙台をぞかざられける。廿一日のうち、終の七日には念仏の外は言語を禁じて如法の無言をさへぞいたされける。勇猛精進の行は強に心中の己証にあらねども、 たゞ謝徳の励修に於て世間の戯言をまじへじとなり。始二七日のあひだ三月尽の日にあたりたりけるに、亡者の病床にのぞまれし三品禅門の嫡孫右少弁藤原朝臣有正、才幹世にしられ学功 朝にゆるされしかども、思の外に沈淪し、其比強仕の程にや、甲州の前吏にていとまある時なりければ、且は霊寺累旬の参籠を面謁に感じ、且は残春半日の余景をもろともにおしまんとて、件日ひそかに流水に脂て、かの閑地にぞいたられける。花をあはれみ鳥をしたふ興のみにあらず。仏に供し僧に施する儲までもねんごろなりければ、長河をしのぐ芳志もすてがたく、詔店をもてあそぶ時習にももよほされて、をのをの詩を賦し歌を詠じて、おもひのほかにその日ばかりぞ称名ならぬ口業をまじへ給ける。

文和元歳[壬辰]十月十九日令書写安置之
隠倫乗専


最須敬重絵詞七


第二十五段
おほよそ万事につけて道をたしなむ志もふかく、諸道にわたりて賢にひとしからんことをおもふこゝろあさからずおはしましける中にも、殊に世俗にとりてふかく執せられしは和歌のみちなり。年少の時よりよみきたり給しかども、とりわきこのみちの故実をば、主典の辻子に住して三論の宗旨を学し給ける次に、自性上人に対して六義の風体をも習給けり。かの上人は累葉の家業なるうへ、秀逸も性にうけ数奇も意に染て、名誉の歌仙にておはせければ、その諷諫を受られけり。京極大納言法印[定為]も主席の親昵にて、常にかの寺に会合せられける時、その訓說をうけ給事共もありけり。さるは花をもてあそぶ春の朝には、ひらくるをまち、ちるをおしむにつけて、栄悴のうつりやすきことをしり、月にめづる秋の夜は、くもるをいとひ、はるゝをのぞむになぞらへて、明暗の品ことなることを観じ給けるにや。いにしへ『閑窓集』といふ打聞をしるし給しは伏見院あめのしたしろしめしゝ時、正和の比なりしに、思の外に上聞に達し、は からざるに叡覧にをよびて、さまざまに天感にあづかり、人々握翫せられけり。又元応元年春の比、北野の霊廟にして詩歌の披講をとげらるゝ事ありけり。これは曩祖勘解由相公[有国卿]耽学好文の志によりて、当社尊崇の誠をいたされけるあまり、「幼少児童皆聴取、子孫永作廟門塵」といふ詩を献ぜられし後、両人の賢息をして桂林の一枝をおらしめ、当家の子孫をして松壖の余塵となさしめ給けることをおぼして、出家の僧体なりといへども、敬神の祖意を慕給けるなり。四韻の周詩、当世の鴻儒金章をくはへられ、三首の和歌、この道の英才瓊篇ををくらる。詩歌をのをの都序ありて、和漢ともに金玉をみがゝれけり。抑やまとうたは世俗文字の業として、狂言綺語の一なれども、権化の大士もみなこれにたづさはり、上古の先賢もまたすてず。聖徳太子の片岡山の詠を製し、伝教大師の我立杣のことばをのこされしをはじめとして、仏道をもとむる人おほくこれをもはらにせり。されば黒谷聖人もあながちにこゝろを花月にかけ給ことはなかりけめども、事にふれおりにしたがひて一吟一詠の言をのこし給事も、あまた侍めり。その中に、
極楽へ つとめてはやく 出たゝば みのをはりには まいりつきなん

と読たまへるも、「願我今生強発意、畢命往彼聖人叢」(法事讚*巻下)といへる文のことはりも意にうかびて、欣心をもよほすなかだちともなりぬべく、懈怠を治するまことのこゝろもおこりぬべくこそおぼゆれ。おほよそ歌の体を案ずるに、迷妄の眼をもてみる時は世間浅近の言なりといへども、覚悟の情におほせておもふ日は甚深実相の理にかなへり。まづ文字を三十一字にさだむるは、如来の三十二相の中に无見頂相をのぞくに准ず。四八の妙相に取て、かの一相は凡夫の所見にあらざるが故なり。次の句数を五句にわかてるは如来の五智を表し、風体に六義をたつるは菩薩六度にかたどる。天竺には梵文をもて言を通じ、震旦には漢語をもて思をのべ、我朝には和字をもてこゝろをあらはすなり。今の和歌はわづかに三十一字のうちに百千万端の志をのぶること、かの梵語に多含の徳ありて、一字に无尽の義をこめ一句に无辺の理をつくすがごとし。たゞ天地をうごかし鬼神を感ぜしむるたよりなるのみにあらず、暗に仏界をおどろかし法門をしめすしるべともなり侍にや。先賢のもちゐられけるもことはりなれば、尊老もその旧蹤をしたひて、この習俗をもてあそび給けるなるべし。『観経』の「仏心者大慈悲是」の文の意を読給ける歌、

あはれみを 物にほどこす 心より ほかにほとけの すがたやはある
又『円覚経』の「生死涅槃猶如昨夢」といへる文を、浄土門の意によせて詠ぜられける。
かはらじな 弥陀の御国に むまれなば きのふのゆめも けふのうつゝも
浄教の宗旨は指方立相と談ずればとて、一向有相の教なりとこゝろうる人は、ひとへに浅近の思をなす。而に自力をすてゝ他力に帰するといへるは、しばらく生仏各別の義趣に相順すれども、穢土を去て浄土に生ずとおもへば忽に生即无生の真理に契当して、極楽の往生をうれば法性の常楽を証するなり。この時は煩悩すなはち菩提と転じ、生死すなはち涅槃とあらはる。一家の釈に、「西方寂静无為楽、畢竟逍遥離有无」(定善義)ともいひ、「一到弥陀安養国、元来是我法王家」(般舟讚)とも判ずるはこの意なり。今の佳什は当教の極致を得て「始知衆生本来成仏」(円覚経)の証悟も、西方の浄刹にして究竟すべき義をよみたまへる、ことに甚深にこそきこえはんべれ。すべて処々の霊地にまうでゝもまづ風吟をいたし、国々の名所をたづねてもかならず露詞をあらはし給しかども、かずおほく事しげきうへ、綜緝のおこりこの道のためにあらず。画図のくはだてたゞ往行をしらん と欲するばかりなるがゆへに、くはしくのするにおよばず。しかしながら略を存ずる所なり。


第二十六段
本願寺聖人の化導の始終を記せられたる一巻の式文あり、『報恩講式』となづく。本所の例事として毎月の御忌に勤行せられ、当流の聖典に加て諸国の道場にこれを安置す。又同聖人一期の行儀を錄せられたる二巻の縁起あり、旨趣を言葉にしるし形狀を後素にあらはす。これまた門下に賞翫して処々に流布せり。かの両箇の述作はこの尊老の賢草なり。此外聖人存生の言行をしるされ、因で法文のはしばしを載られたる三巻の鈔あり、『口伝鈔』と号す。又末流迷倒の邪路をふさがんがために条々規式を定られたる一巻の書あり、『改邪鈔』といふ。ともに和字なり。この二部は小僧願主として望申せしゆへに、口筆によりて短毫をそめき。これことに生前の思出ともなり、遐代の明鑑にも擬するものなり。しかのみならず、たまたま津を問たてまつる者には西方の通津をしめし給とき、後日の廃忘をたすけんとてしるし給べきよし申請ける輩には、一紙のうち片時の程などに、いと思案にもおよばず、たゞ率爾に筆をそめらるゝ事、著述あま たあり。後にその名を題せられて『執持鈔』・『願々鈔』・『最要鈔』・『本願鈔』など号せらる。これみな所被の輩のつたなきをさきとして、漢字の筆体のまよひやすきをさしをき、所望の族のをろかなるを本として、和字の製作のこゝろえやすきをもちゐらるゝ所なり。『執持鈔』にいはく、「平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、その時をもて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。抑、南无は帰命、帰命のこゝろは往生のためなれば、またこれ発願なり。この心あまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また廻向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号の中に摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、阿弥陀仏即是其行と釈したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の業因をむすぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏も又かくのごとし。本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生はさだまるなりとしるべし」とW云云取詮R。平生業成の玄旨これにあり、他力往生の深要たふとむべし。


第二十七段
ちかごろは、うちつゞき天下おだやかならざるうへ、ことに観応元年冬のはじめの比より、京中にとかくさゝやき沙汰する事のみきこえしが、はてには摂津国・河内、堺をならべてをのをの魚鱗の陣をかまへ、八幡・山崎、河をへだてゝたがひに鶴翼の囲をなせり。なにとなりゆくべき世中やらんと、上下やすきこゝろなし。かくて日月をしうつり雌雄いまだ決せざれば、四海の波いよいよさはがしく、八埏の塵おさまりやらざるに、きはまれるかげはやくくれて、あらたまの年あらたにたちかへりぬ。春をむかふるそらのけしきのどかなるに似たれども、都のうちゆきゝの人のしづかならぬ体なのめならずぞみえける。禁裏・仙洞、万事の礼法おほくすたれ、緇素・貴賤、たゞ世間の擾乱をなげくほか他なし。さるほどに正月十六日、山崎の軍兵は陣を出て東にむかひ、坂本の勇士は轡を並て南にすゝむ。両方はせあひ京都にして合戦あり。疵をかふむるもの数をしらず、命をうしなふ人もおほかりけり。時をあぐるこゑ、山をひゞかし、鴨河の水、血に変じてぞながれける。尊老このありさまを聞給てのたまひけるは、今すでに劫減の末にのぞむといへども、いまだ小の三災のいたるべきにはおよばざ るに、刀兵さかりにおこり、飢饉またいのちをあやうくせんとす。求不得苦をうれふる人、耳目にみち、怨憎会苦をのがれぬたぐひ、東西にはせちがふ。まことにかゝる時にこそ厭離穢土のこゝろもおこり、欣求浄土の思も切なるべきに、駑馬鞭におどろかぬ習も今更おもひしられたり。あなうの娑婆世界や、よしなきながいきしてかゝる災難にあへる事よ、あはれとく往生をとげばやと仰られけるは、たゞなべての事とこそおもひたてまつりしに、十七日の夕よりいさゝか嵐気の身にしみて、こゝちの例ならずおぼゆるとのたまひけれども、かりそめの風痺にこそと、人はいたくおどろきたてまつらぬに、やがてうちふし給て、今度は最後なり。命終ちかきにありとて、口に余言をまじへず、たゞ仏号を称念し、こゝろ他念にわたらず、ひとへに仏恩を念報し給。かくてその夜あけにければ、看病の人々相談し、医師を招て病相をみたてまつらしめ、随分の療養をもくはへたてまつらんと申合られけるを、病者聞給て、ゆめゆめその儀あるべからず。命は定業かぎりあれば薬をもて延べからず。たとひその術ありともわがもとむる所にあらず、岸上のちかづくことをまつ。病は苦痛の身をせむるなければ、何の療治をかとぶらはん。たとひ又そのくるしみありともいく程かあらん、刹那 にすつべき穢土の業報なりとて、かたく制し給ければ、ちからなくその沙汰をもやめられけり。称名のたえまに傍なる人にしめして二首の歌をぞかゝせられける。
南无阿弥陀 仏力ならぬ のりぞなき たもつこゝろも われとおこらず
八十あまり をくりむかへて この春の 花にさきだつ 身ぞあはれなる
一首は朝夕に思付給し和語の風情によせて、日来決得し給へる他力の安心をあらはされたり。三十一字の藻詞たりといへども、おそらくは四十八願の簡要ともいひつべきものをや。一首は春の節をむかへても、なを花の比まであるまじきあだなる身のほどをおもひしりたまへることのはいとあはれにや、又やさしくもきこゆ。さてこよひもあけぬれば十九日なり。さるにても病の軽重もいのちの延促も、人々おぼつかなくおもひたてまつられければ、病体にはかくとも申さで、ひそかに医師を召請してみたてまつらしめられけるが、たのみなき御有様なり。よもひさしき御事はあらじと申て出にけり。されどもくすしは何とか申つるともたづねらるゝ事なし。いきの下にことばをいだしたまふ事とては念仏ばかりなり。其日も程なくくれ、酉の剋にをよびて斜陽すでに山のはにかゝり、晩風かすかに庭の梢にをとづるゝ程、とをくは大覚世尊入涅槃の儀式をまもり、ちか くは両祖聖人入滅の作法に順じて、頭北面西右脇にふし、意念口称かはるがはるあひたすけて、相続称名の息ひとたびとゞまり、本尊瞻仰のまなこながく閉たまひにけり。寿算をたもち給ことはすでに八十二、つゐにあるべき別とは知ながら、病牀にふし給ことはわづかに三箇日、時に臨ては取敢ぬ悲なり。智灯ながく消ぬ。誰に向てか遺弟愚痴の昏迷をてらさん。法水たちまちにかはきぬ。何をもてか末世群萌の道芽をうるほさん。たゞ忍土永離の淚をおさへて、ひとへに浄刹再会の縁を期するばかりなり。


第二十八段
同廿三日、本願寺の門内をいだしたてまつりて、延仁寺の原上にをくりたてまつる。高祖聖人の遺跡として知恩院近のあひだ、由緒も他にことに、かたがた事の便あるによりて、かの長老誓阿弥陀仏に申し誂られければ、僧徒・尼衆、数輩をたなびき、燃灯・焼香、軌則を整て殯送の儀をかひつくろひ、荼毗の庭にをもむきて一夜の煙となしたてまつりしかば、三春の霞にたぐひ給けり。上下哀慟の肝をこがし、男女恋慕の淚にむせぶ。同廿四日、人々かの葬所に至て遺骨をひろひたてまつらるゝに、或は白珠の色なるもあり、或は碧玉の光なる もあり。かたきこと金剛のごとくして、さながら仏舎利にことならず。眼前の奇特先哲の跡にもこえ、不思議の霊威滅後になをひかりをかゞやかしたまへり。圭峯禅師の伝に、「灰の中に舎利を得たり」といへるをば、上古に智行の人おほかりし世にもたふとみて美談とし、大漢に道解の僧すくなからざるさかひにもこぞりて崇敬をいたす。いま仏心宗の人にはかのたぐひ事しげゝれば、めづらしからぬ事にや。念仏の行者はいたくその瑞をきかねば、あながちにこの相をもとめず。しかれども、その勝徳によりてこの異瑞あるべくは、西方の行者なんぞもてかたしとせん。しかるゆへは、无上大利の名号には万行ことごとくおさまり、弥陀无漏の果徳は五智をもて成ぜるがゆへに、この行をたもつものは无智无行なれども自力修習の智行にはすぐれ、この法を信ずるものは造悪不善なれども必堕地獄の苦報をまぬかる。さればまさしく浄土に生じて无為の法性を証し、まのあたり仏前にまうでゝ无生の深理をさとりなんのち、穢土の旧骨の仏の境界に同ぜしこと何の疑かあらん。又真如堂の尼衆の中より申しをくりけるは、十七日より十九日まで首尾三箇日のあひだ、祇園の社のほとにあたり、太子堂の辺かとみえて、紫雲空にそびく。いかなる人の往生をとぐる瑞相やらんと、諸人あつ

まりて拝見しき。而にこの御入滅をきくに、不例の始より終時の期まで日時符合せり、渇仰きはまりなき由をぞ申ける。おほよそ先達の中に臨終の瑞をあらはすもあり、滅後の霊をかくすもあり。時宜により機縁にしたがひて、隠顕あひことに、有无おなじからざるにこそ。しかれば、世にかはる瑞相のあるばかりをたふとみて、目にあらはるゝ奇特のなきをあざけるも妄見なり。また眼のまへにあらたなる霊異をみながら、これも得脱はしりがたしなどいふは、まして偏執にや。我尊老は日ごろあながちに後世者の行狀をもあらはされず、一すぢに遁世門のふるまひをも事とし給ざりしは、末代濁世の衆生のむまれつきなるすがたを表し、煩悩具足の凡夫のをのれなりなるかたちをしめし給なるべし。いま終焉彩雲の奇異といひ、滅後霊骨の勝相といひ、耳目にかくれなくひろく視聴をおどろかし給しかば、もし疑謗をくはへん異学の人は、これを聞てたちまちに非理の邪見をあらため、もし信仰をいたさん同聴の輩は、これをみていよいよ敬重の潤色にもそなへつべし。当時の崇重の切なる思をもよほすにつけても、ことに将来の弘教の盛ならんことをよろこぶものなり。