法体名号
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
法体名号
ほったい-みょうごう
本願寺派では、阿弥陀仏の名号を、衆生の称名(能行)なのか、それとも名号(所行)なのかの解釈がある。
能行とは、なんまんだぶを称える行為を、人間の主体的行為(能)として解釈する。 所行とは、人間を超えた絶対他者(弥陀)の他力のはたらき(所)ととらえること。
本願寺派の宗学では大行の解釈に、名号を称えることとする能行派、称えられる名号とする所行派の二つがある。両派の折衷案とし、能(称える)と所(称えせしめられる)は能所不二とされた。
御開山は「行巻」で、
- 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(行巻 P.141)
とされておられるので大行は〔なんまんだぶ〕を称えることである。ところで御開山は「教巻」で、
- ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
と「仏の名号をもつて経の体とするなり」とあるので「法体名号」が論じられることになった。御開山は第十七願によって衆生往生の行が与えられると云われているが、それは諸仏が讃嘆する法体名号であるといふのである。 これは御開山が第十八願の乃至十念のなんまんだぶを、第十七願の諸仏の教位によって顕されたことから派生する論考なのだが、愚直になんまんだを称えている門徒からすれば衒学的である。