現代語 観無量寿経
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
- 仏説観無量寿経
【1】 次のように、わたしは聞かせていただいた。
観無量寿経の説かれた由来
あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、千二百五十人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。また、文殊菩薩を中心とする三万二千の菩薩たちも加わっていた。
【2】 そのとき王舎城に阿闍世という王子がいて、提婆達多という悪友にそそのかされて父の頻婆娑羅王を捕え、七重にかこまれた牢獄に閉じこめ、家来たちに命じてひとりもそこに近づくことを許さなかった。
王妃韋提希は深く王の身の上を気づかい、自分の体を洗いきよめて、小麦粉に酥蜜をまぜたものを塗り、胸飾りの一つ一つにぶどうの汁をつめて、ひそかに王のもとに行き、それを差しあげた。頻婆娑羅王はこれを食べ、水で口をすすいでから、合掌してうやうやしく耆闍崛山の方に向かい、遠く山上の釈尊に礼拝して、次のように申しあげた。
「 世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください 」
そこで目連は、神通力によってまるで鷹や隼が飛ぶようにすみやかに頻婆娑羅王のもとへ行った。そして毎日このようにして王に八斎戒を授けた。釈尊はまた、富楼那をお遣わしになり、王のために教えを説かせられた。こうして三週間が過ぎたが、頻婆娑羅王はその間、韋提希の運ぶものを食べ、尊い教えを聞くことができたので、表情もおだやかで喜びに満ちていた。
【3】 ちょうどそのころ、阿闍世王が牢獄の門番に向かって尋ねた。
「 父はまだ生きているか 」 門番は答えて申しあげた。
「 王さま、母君が小麦粉に酥蜜をまぜてお体に塗り、胸飾りにぶどうの汁をつめて、父君に差しあげておられます。また、仏弟子の目連尊者や富楼那尊者が神通力により空から飛んできて、父君に教えを説いておられます。わたしどもにはとても制止することができません 」
阿闍世王はこれを聞いて、母の韋提希を怒って言った。
「 母は罪人だ、罪人である父の味方をするのだから。仏弟子どもも悪人だ。あやしげな術を使って悪王である父をたすけ、何日も生かしておくとはもってのほかだ 」
そして剣をとって、母の韋提希を殺害しようとした。
そのとき聡明で思慮深い月光という大臣が、同僚の耆婆とともに阿闍世王に一礼して申しあげた。
「 王さま、わたしどもの聞くところでは、毘陀論経の中には、この世が始まって以来多くの悪王がいて、王位を望んで父を殺害したものが一万八千人にも及ぶと説かれているそうです。しかし母を殺害するという非道な行いをしたものなど、今まで一度も聞いたことがありません。それにもかかわらず、今王さまが母君を殺害なさるなら、それは王族の家柄を汚すものです。わたしどもはとうてい聞くに忍びません。このようなことは旃陀羅のすることです。もはやここにいるわけにはまいりません 」
こういってふたりの大臣は、剣のつかに手をかけてじりじりと後ずさりした。
そこで阿闍世王は驚き、恐れをなして耆婆にいった。
「 お前はわたしの味方になってくれないのか」
耆婆が申しあげた。
「 王さま、どうか母君を殺害するようなことだけはおやめください 」
阿闍世王は、この耆婆の言葉を聞いて自分の行いを悔い、ふたりの大臣に許しを求め、ただちに剣を捨てて、母を殺害することを思いとどまった。そして宮中の役人に命じて、母を王宮の奥深くに閉じこめ、一歩も外へ出ることができないようにした。
【4】 こうして閉じこめられた韋提希は、悲しみと憂いにやつれはて、遠く耆闍崛山の方に向かい、釈尊に礼拝して申しあげた。
「 世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください 」
韋提希はこういいおわると、悲しみに涙を流し、遠く釈尊に向かって礼拝した。するとまだその頭をあげないうちに、釈尊は耆闍崛山にあって韋提希の思いをお知りになり、ただちに目連と阿難のふたりに命じて王宮に飛んでいかせ、またご自身も耆闍崛山からその姿を消して王宮にお出ましになったのである。
韋提希が礼拝を終えて頭をあげると、そこに釈尊のお姿があった。そのお体は金色にまばゆく輝き、さまざまな宝でできた蓮の花の上にお座りになっており、左に目連、右に阿難がつきそっている。そして、帝釈天や梵天や四天王などが、空から一面に天の花を降らして釈尊を供養している。韋提希はこのお姿を仰ぎ見て、すすんで胸飾りをかなぐり捨て、その足もとに身を投げ出して声をあげて泣きくずれ、釈尊に向かって申しあげた。
「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。
【5】 どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」
そこで釈尊は眉間の白毫から光を放たれた。その金色に輝く光は、ひろく数限りない世界を照らし、もとへもどって釈尊の頭の上にとどまり、それがまた金色に輝く台の形となる。それはちょうど須弥山のようであった。
そして、その中にすべての仏がたの清らかな国土が現れた。すなわち、七つの宝でできた国、また蓮の花ばかりが満ちあふれた国、また他化自在天の宮殿のような国、また水晶でできた鏡のように澄みきった国、それらさまざまな国々がすべて現れたのである。釈尊は、このような数限りない仏がたの世界がうるわしいすがたをそなえているのを、韋提希にお見せになったのである。 そこで韋提希は釈尊に申しあげた。
「 世尊、このさまざまな仏の世界はみな清らかで光り輝いておりますが、わたしは今、中でも極楽世界の阿弥陀仏のもとに生れたいと思います。どうか世尊、わたしにその極楽世界のすがたを想い描く方法をお教えください。そして、そのすがたとわたしの心が一つになり、観が成就する方法を教えてください」
【6】 すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。
【7】 そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。わたしは今、そなたのために極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。その世界に生れたいと願うものは、次の三種の善い行いを修めるがよい。
一つには、親孝行をし、師や年長の者に仕え、やさしい心を持ってむやみに生きものを殺さず、十善を修めること。
二つには、仏・法・僧の三宝に帰依し、いろいろな戒めを守り、行いを正しくすること。
三つには、さとりを求める心を起し、深く因果の道理を信じ、大乗の経典を口にとなえて、他の人々にそれを教え勧めること。
このような三種を清らかな行いというのである」
釈尊は続けて仰せになる。
「 韋提希よ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、 さとりを得る正しい因なのである 」
【8】 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 そなたたちはわたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今、煩悩に苦しめられる未来のすべての人々のために、清らかな行いを説き示そう。
韋提希よ、よくこのことを尋ねた。
阿難よ、そなたはこれからわたしが説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説きひろめるがよい。わたしは今、韋提希と未来のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにしよう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたちを映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう」
さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである 」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「 世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか 」
雑念を払い心を凝らして如来、浄土を観察する行
【9】 そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたや未来の人々は、ただひたすら西方に思いをかけて、その世界を想い描くがよい。では、どのようにして西方を思い描くのだろうか。それにはまず、生れながら目が見えないのでない限り、目が見えるものはみな日没の光景を見るがよい。その観を始めるにあたってはまず姿勢を正して西に向かって座り、はっきりと夕日を思い描くがよい。そして心を乱さず、思いを一点に集中して他のことに気をとられずにいられたなら、次に、夕日がまさに沈もうとして、西の空に太鼓が浮んでいるようになっているのを見るがよい。それを見おわった後、目を閉じても開いても、その夕日のすがたがはっきりと見えるようにするのである。このように想い描くのを日想といい、第一の観と名づける。
【10】 次に水を想い描くがよい。
水の清く澄みきったようすをはっきりと心に想い描き、心を乱さないようにするのである。水を想い描きおわったなら、次にその水が氷となったようすを想うがよい。そして氷の透きとおったようすを想い描き、それが瑠璃であるという想いを起すがよい。この想いを成しおえたなら、極楽世界の瑠璃の大地が内にも外にも透きとおり映りあうようすを見るであろう。
その下には清らかな七つの宝で飾られた金の柱があって、瑠璃の大地をささえている。それは八角形の柱であり、その八つの面はそれぞれ百もの宝玉で飾られている。それぞれの宝玉は千の光にきらめき、それぞれの光にはまた八万四千の色があって、それが瑠璃の大地に映え輝いているありさまはまるで千億もの太陽を集めたようであり、とてもまばゆくて見ることはできない。
またその極楽世界の瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じていて、しかもそれぞれの区域が七つの宝で整然と仕切られている。その一つ一つの宝には五百の色の光があり、その光は花のようであり、また星や月のように輝き、大空にのぼって光明の台となる。その台の上には百の宝でできた千万の楼閣がそびえている。また台の両側には、それぞれ百億の花で飾られた幡と数限りないさまざまな楽器があり、その台を飾っている。そしてその光の中から清らかな風がおこり、いたるところから吹き寄せてこれらの楽器を鳴らすと、苦・空・無常・無我の教えが響きわたるのである。このように想いを描くのを水想といい、第二の観と名づける。
【11】 さてこの観が成就したなら、さらにそのようすを一つ一つ想い描き、それがきわめてはっきりと見えるようにして、目を閉じても開いても目の前から消え失せないようにしなければならない。そしてただ眠っているときを除いて、常にこのことを想い続けるがよい。
このように想い描くことができれば、ほぼ極楽世界の大地を見たということができる。さらにすすんで三昧の境地に入ったなら、その国の大地を一層はっきりと見ることができるのであるが、そのありさまを一々詳しく説くことはできない。このように想い描くのを地想といい、第三の観と名づける。
ここで釈尊が阿難に仰せになった。
「 阿難よ、そなたはこの教えを心にとどめて、苦しみを逃れたいと思う未来のすべての人々のために、極楽世界の大地を想い描く方法を説き聞かせるがよい。もしこの大地を観ずるなら、八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が消えて、命を終えた後には必ずその清らかな国に生れるのである。このことは決して疑ってはならない。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
【12】 釈尊が阿難と韋提希に仰せになった。
「 地想観が成就したなら、次には極楽世界の宝の樹を想い描くがよい。
宝の樹を想い描くには、まず一つ一つの樹を思い描き、それらが七重の並木になったようすを想うがよい。それぞれの樹の高さは八千由旬であり、これらの宝の樹は等しくみな七つの宝ででき花や葉をつけていて、その花や葉の一つ一つがまた異なった宝の色を持っている。瑠璃色の中からは金色の光を出し、玻璃色の中からは紅色の光を出し、瑪瑙色の中からは蝦蛄の光を出し、蝦蛄色の中からは緑真珠の光を出し、その他、珊瑚、琥珀などすべての宝の光でさまざまに輝いている。また樹々の上には美しい真珠でできた網が一面におおっていて、それぞれの樹に七重に重なっている。その網と網の間には五百億の美しい花で飾られた宮殿があって、それはまるで梵天の宮殿のようである。その宮殿の中には多くの天の童子がいて、それぞれ五百億の宝玉でできた胸飾りを身につけている。それらの宝玉の光は遠く百由旬を照らし、まるで百億の太陽や月を一つにあわせたようで、そのみごとさは言葉に表しようがない。さまざまな宝の輝きが互いに入りまじり、その色どりは実に美しい。
また、これらの宝の樹々は整然と向かいあって列をなし、葉の並びもよくととのっていて少しも乱れることがない。それぞれの葉と葉の間にはさまざまな美しい花が咲きそろい、花の上には七つの宝でできた実をつけている。この葉の一つ一つは長さも広さも等しく二十五由旬であり、その葉には千の色と百種の模様があって、まるで天の宝玉の飾りのようである。たくさんの美しい花は金色に輝き、まるで火の輪のようにきらめきながら、葉と葉の間でまわっている。ちょうど帝釈天の宝の瓶のように、その花からは次から次へと多くの実がわき出ている。そしてその実が放つ大いなる光明は、幡と数限りない宝に飾られた天蓋となる。その中には、世界中でなされる仏のすぐれたはたらきのすべてが映し出され、さらにさまざまな仏がたの国々も、みな映し出されている。
このように極楽世界の宝の樹を想い描きおわったなら、またそのすがたを一つ一つ順々に想うがよい。そしてそれらの幹や枝や葉や花や実などを、すべてはっきりと想い描くのである。このように想い描くのを樹想といい、第四の観と名づける。
【13】 次に極楽世界の池の水を想い描くがよい。
極楽世界には八つの池がある。そのそれぞれの池の水は、七つの宝の輝きを映して美しくきらめき、実になめらかであって、それはもっともすぐれた宝玉からわき出ているのである。そして分れて十四の支流となり、それぞれがみな七つの宝の色をたたえている。その水路は黄金でできていて、底には汚れのない色とりどりの砂が敷かれている。一つ一つの流れには七つの宝でできた六十億もの蓮の花があり、その花の形はまるくふっくらとして大きさはみな十二由旬である。宝玉からわき出たその水は、花の間をゆるやかに流れ、また樹々をうるおしている。その流れからおこるすばらしい響きは、苦・空・無常・無我や六波羅蜜などの教えを説き述べ、あるいは仏がたのすがたをほめたたえる声となる。また、宝玉からは金色のすばらしい光が輝き出ている。その光は百もの宝の色を持つ鳥となり、そのやさしく美しい鳴き声は常に仏を念じ、法を念じ、僧を念じることをほめたてている。このように想い描くのを八功徳水想といい、第五の観と名づける。
【14】 また、そのようにいろいろな宝で飾られた国土の各地には、五百億のみごとな宝の楼閣がある。その楼閣の中には数限りない天人がいて、すばらしい音楽を奏でている。また空には楽器が浮んでおり、兜率天にいる宝幢神の楽器のように、奏でるのもがなくてもおのずから鳴り、その響きはみな等しく仏を念じ、法を念じ、僧を念じることを説くのである。
このように想い描きおわったなら、ほぼ極楽世界の宝の樹と宝の大地と宝の池を見たということができる。これを総観想といい、第六の観と名づける。
もしこのように観ずるなら、はかり知れない長い間のきわめて重い罪が消えて、命を終えた後には必ずその国に生れるのである。このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
【15】 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい 」
釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができのたで、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝して申しあげた。
「 世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか 」
そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「 韋提希よ、その仏を見たてまつりたいと思うなら、次のように想い描くがよい。
まず七つの宝でできた大地の上に蓮の花があると想い、その蓮の花びらの一つ一つが百の宝の色を持っていると想い描くのである。その花びらには八万四千のすじがあって、まるで天の美しい絵のようである。またそのすじは、それぞれ八万四千の光に輝いている。それらが一つ一つはっきりと見えるようにするがよい。花びらは小さいものでも大きさが二百五十由旬はある。この蓮の花には、このような花びらが八万四千もあるのである。その花びらと花びらの間はそれぞれ百億の宝玉で飾られていて、それぞれの宝玉は千の光明を放っている。その光明はまるで七つの宝でできた天蓋のようにひろく地上をおおっている。
蓮の花の芯は釈迦毘楞伽宝でできた台座となっており、さらにそれが八万の金剛宝・甄叔迦宝・梵摩尼宝や美しい真珠の網でいろいろに飾られている。そしてその台座の上には四本の宝柱があり、それぞれの宝柱は百千万億の須弥山を重ねたように高く、宝柱の上の幔幕はちょうど夜摩天の宮殿のようであり、五百億もの美しい宝玉で飾れている。それぞれの宝玉には八万四千の光があり、その光はそれぞれ八万四千の異なった金色に輝き、さらにそれらの金色の輝きがひろく宝の大地に満ちわたり、いたるところでさまざまなすがたとなる、すなわち金剛の台ともなり、真珠の網ともなり、あるいは色とりどりの花の雲ともなるというように、いたるところで見るものの思うままのすがたをとり、仏のすぐれたはたらきをあらわしている。このように想い描くのを華座想といい、第七の観と名づける 」
さらに釈尊が阿難に仰せになった。
「 阿難よ、このようなすばらしい花は、もともと法蔵菩薩の本願の力によってできあがったものである。もしその仏を想い描こうとするなら、まずこの蓮の台座を想い描く観を行うがよい。ただしこの観を行うときには、決して雑然と想い描いてはならない。その花びら、宝玉、光、台座、宝柱をそれぞれ一つ一つ正しく想い描いて、ちょうど鏡に自分の顔かたちを映し見るように、それらをみなはっきりと想うがよい。この観が成就したなら、五万劫という長い間の迷いのもとである罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
【16】 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「 この観が終わったなら、次に仏を想い描くがよい。 なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、はっきりと想い描くがよい。
阿弥陀仏を思い描くには、まずその像を思い描くのである。目を閉じていても開いていても、金色に輝く一体の仏像が、その蓮の花に座っておいでになるようすを常に想い浮べるがよい。
こうして仏像が蓮の花に座っておられるのを思い描きおわったなら、心の目が開いて、明らかにはっきりと七つの宝で飾られた極楽世界の大地や池や立ち並ぶ樹々を見、その上を美しい宝の幔幕がひろくおおい、またいろいろな宝で飾られた網が大空一面にかかっているのを見るであろう。これらのようすが、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。
この観が終わったなら、さきほどの蓮の花をまったく同じ大きな蓮の花が一つ、仏の左側にあると想うがよい。また大きな蓮の花がもう一つ、仏の右側にあると想うがよい。そしてその左側の蓮の花に観世音菩薩の像が座って、仏と同じように金色の光を放っているのを想い描き、また、右側の蓮の花に大勢至菩薩の像が座っているのを想い描くがよい。
この観が成就したとき、阿弥陀仏の像と観世音・大勢至の二菩薩の像がみな金色の光明を放って、宝の樹々を照らすのを見るであろう。それぞれの宝の樹の下にはまた三つの蓮の花があって、それらの蓮の花に一仏と二菩薩の像が座っておいでになり、そのような一仏二菩薩の像がその国に満ちわたっているのを見るのである。
以上の観が成就したなら、行者は、極楽の水の流れや光明、またさまざまな宝の樹や鴨や雁や鴛鴦などが、みなすぐれた教えを説くのを聞くであろう。その観に入るときから観を終わるまで、常にすぐれた教えを聞くのである。そこで行者はその聞いたことを、観が終わってからも心にとどめて忘れないようにするがよい。そして、それらを経典に説いてあることと照らしあわせてみて、もしそれと相違するならそれは妄想であり、もし合致するならそれはほぼ極楽世界を見たということができる。このように想い描くのを像想といい、第八の観と名づける。
この観が成就したなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が消えて、この身のままで念仏三昧に入ることができるのである 」
【17】 さらに釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 この観が成就したなら、次に無量寿仏の真のおすがたと光明を想い描くがよい。阿難よ、よく知るがよい。無量寿仏のお体は百千万億の夜摩天の黄金のようにまばゆく輝き、その高さは六十万億那由他恒河沙由旬である。また眉間の白毫は右にゆるやかにめぐり、その大きさはちょうど須弥山を五つあわせたほどであって、その目は四大海水のようにひろびろとしており、清らかに澄みきっている。またお体の毛穴から放たれる光明はまるで須弥山のように大きく、その頭の後ろにある円光の広さは百億の三千大千世界をあわせたほどである。その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになり、それぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそっている。
また、無量寿仏のお体には八万四千のすぐれたところがあり、そのそれぞれにはまた八万四千のこまかな特徴がそなわっている。さらにそのそれぞれにまた八万四千の光明があり、その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。その光明やお体の特徴、そして化身の仏について詳しく説くことはとてもできない。ただ思いをこらし、心の目を開いて明らかに見るがよい。
このように想い描くものは、さまざまな世界の仏がたをすべて見たてまつることになる。すべての仏がたを見たてまつるのであるから、この観を念仏三昧と名づける。また、この観を行えばすべての仏のおすがたを想い描くことになり、仏のおすがたを想い描くのであるから、仏の心を見たてまつることになる。その仏の心は大いなる慈悲の心であり、このわけへだてのない慈悲をもって、仏はすべての人々を摂め取られるのである。
この観が成就すれば、来世には仏がたの前に生れ、無生法忍を得ることができる。だから智慧のすぐれたものは心を一つにして、はっきりと無量寿仏を想い描くがよい。そして無量寿仏を想い描こうとするものは、その仏の特徴の一つを想い描くことから始めるがよい。それにはまず、眉間の白毫をきわめてはっきりと想い描くことである。眉間の白毫を想い描くなら、八万四千のすぐれた特徴を持つおすがたがおのずから現れてくる。
こうして無量寿仏を見たてまつるなら、それはすなわちさまざまな世界の数限りない仏がたを見たてまつることになる。さまざまな仏がたを見たてまつることによって、仏がたは目の前でさとりを得ることを約束してくださるであろう。このように想い描くのをひろくすべての仏のおすがたを想い描く想といい、第九の観と名づける。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである 」
【18】 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 さて、無量寿仏をはっきりと想い描きおわったなら、次に観世音菩薩を想い描くがよい。
この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の円光がある。その円光の中にはわたしと同じようなすがたの五百の化身の仏がおいでになる。その化身の仏にはそれぞれ五百の化身の菩薩と数限りない天人がつきそっている。 また全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照らし、そのすがたがそこに現れている。頭には宝玉でできた立派な冠をつけていて、その中には高さ二十五由旬の化身の仏が立ってお いでになる。
この菩薩の顔は金色に光り輝き、眉間の白毫は七つの宝の色をそなえ、その白毫から八万四千の光明が放たれている。その光明の一つ一つには数限りない多くの化身の仏がおいでになり、そのそれぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそい、それらの化身の仏と菩薩が、自由自在にさまざまなすがたをとって、すべての世界に満ちておいでになる。そのようすはたとえていえば紅の蓮の花の色のようである。
またこの菩薩は八十億の光明でできた胸飾りをつけていて、その中に極楽世界のうるわしいようすをすべてみな映し出している。また手のひらには五百億ものさまざまな蓮の花の色があり、十本の指先のそれぞれには印を押したような八万四千の絵模様がある。そのそれぞれの絵模様には八万四千の色がそなわり、それぞれの色はまた八万四千の光を放っている。その光明はやわらかで、ひろくすべての人々を照らしている。菩薩はこのすばらしい手をさしのべて人人をお導きになるのである。
またこの菩薩が足をおあげになるときには、足の裏にある千輻輪の相がおのずから五百億の光明でできた台座となり、足をおろされるときには、宝玉でできた花があたり一面に散り、行きわたらないところがない。
その他、さまざまな特徴をその身にすべてそなえておられるのは仏と同じであり、ほとんど異なることがない。ただ、頭の肉髻と無見頂の相とが仏に及ばないだけである。このように想い描くのを観世音菩薩の真のおすがたを想い描く想といい、第十の観と名づける 」
また釈尊は阿難に仰せになった。
「 もし観世音菩薩を想い描こうとするなら、この観を行うがよい。この観を行うなら、さまざまなわざわいにあわず、これまでの悪い行いもさまたげとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。この菩薩は、ただその名を聞くだけでもはかり知れない功徳が得られるのである。ましてそのおすがたをはっきりと想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。 そこでこの菩薩を想い描こうとするなら、まずその頭の肉髻を想い描き、次に宝冠を想い描くがよい。こうして順々に他のいろいろな特徴へと及んでいって、それらのようすもまた、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにする のである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
【19】 次にまた大勢至菩薩を想い描くがよい。
この菩薩のお体の大きさは、前の観世音菩薩と同じである。しかしその円光は縦横がともに百二十五由旬で、二百五十由旬を照らしている。そして全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。そのためこの菩薩を無辺光と名づける。またこの菩薩は智慧の光でひろくすべてを照らし、地獄や餓鬼や畜生の世界の苦しみから人々を救うのに、この上なくすぐれた力を持っておいでになる。そのためこの菩薩を大勢至と名づけるのである。
この菩薩の宝冠には五百の宝の花があり、その一つ一つの花にはそれぞれ五百の宝の台があって、その一つ一つの台の中にはすべて
の仏がたの清らかな国土の広大なすぐれた光景がみな映し出されている。またこの菩薩の頭の肉髻は紅の蓮の花のようである。その肉髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明に満ち、ひろく仏のはたらきが現れる。その他の姿かたちはすべて観世音菩薩と同じで少しも異なるところがない。
この菩薩を歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。この菩薩を座られるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動き、下方は金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで、その大地もまた揺れ動く。そしてそのすべての世界におられる数限りない無量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身とが、みな極楽世界に集まり、大空一面に満ちあふれて蓮の花の台座に座り、尊い教えを説き示して苦しみ悩む人々をお救いになるのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。こうして大勢至菩薩を見たてまつるのを、大勢至菩薩のおすがたを想い描く想といい、第十一の観と名づける。
この菩薩を想い描くなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。この観を行うなら迷いの世界に生まれるようなことは二度となく、常に仏がたの清らかな国にいることができる。この観が成就しおわることを、余すところなく観世音・大勢至の二菩薩を想い描いたというのである。
【20】 以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。また自分の目が開くのを想い描くがよい。そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである 」
【21】 釈尊は続いて阿難と韋提希に仰せになった。
「 もし、心から西方極楽世界に生れたいと思うなら、まず池の上に一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると想い描くがよい。
さきに説いたように、無量寿仏のお体の大きさははかり知れないほどであるから、愚かな人間ではとうてい想いの及ぶものではない。しかしながら、無量寿仏が菩薩のときにおたてになった願の力により、よく心をこらして想い描くなら、必ずその仏の真のおすがたを見たてまつることができるのである。ただ仏の像を想い描くだけでも、はかり知れない功徳が得られるのである。まして無量寿仏のおすがたにそなわったすべての特徴を想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
阿弥陀仏は神通力を思いのままにはたらかせ、すべての世界で自由自在にさまざまなおすがたを現される。ときには大空一面に満ちわたるほどの大きなおすがたを現し、ときには一丈六尺、または八尺の小さなおすがたを現される。そしてこのように現されたおすがたは、みな金色に輝いている。また円光の中の化身の仏や宝の蓮の花などは、前に説き示した通りである。
観世音・大勢至の二菩薩は、どこでも同じおすがたをしておいでになるから、人々はただ二菩薩の頭の特徴を見ることによって、これが観世音菩薩であり、これが大勢至菩薩であると知るのである。この二菩薩はともに阿弥陀仏を助けてひろくすべての人々をお導きになる。このように想い描くのを雑想観といい、第十三の観となづける 」
散乱した心のままで悪を止め、善を修める行
【22】 ここで釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの九種類がある。その中で、まず上品上生から説き始めよう。
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。 その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天人は七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。すなわち、観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともにその人をほめたたえてその心を励まされる。この人は来迎をまのあたりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。そして仏の後につきしたがって、たちどころにその国に生れるのである。
このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそなわったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。そして光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってただちに無生法忍をさとるのである。さらにわずかの間に次々と仏がたに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。そしてそれらの仏がたからさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるのである。これを上品上生のものと名づける。
【23】 次に上品中生について説こう。必ずしも大乗の経典を心にたもって口にとなえるとは限らないが、その意味をよく理解し、真実の道理を聞いても驚き戸惑うようなことはなく、深く因果の道理を信じて大乗の教えをけなさず、この功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
このように修行する人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ数限りない聖者たちとともに、従者に取りかこまれて現れ、金色に光り輝く台座を持たせてその人の前においでになり、< 仏の子よ、そなたは大乗の教えにかなった行いをし、真実の道理をよく理解したから、わたしは今ここに来てそなたをわたしの国に迎えるのである >と、ほめたたえて仰せになる。こうして千の化身の仏がたとともに、皆でいっせいに手をさしのべてお導きになる。
この人がふと自分を見ればその身はすでに金色の台座に座っている。そして合掌して仏がたをほめたたえると、たちまち極楽世界の七つの宝でできた池の中に生れる。その金色の台座は大きな宝の花のようであり、一夜が過ぎるとその花が開く。その人の体は金色に光り輝き、足の下にはまた七つの宝でできた蓮の花がある。そして仏と菩薩がいっせいに光明を放ってその身をお照らしになると、目が開いてすべてをはっきりと見ることができる。また、すでに大乗の教えを聞いていたことにより、極楽世界のさまざまな音がみな奥深い真実の道理を説くのを聞くことができるのである。
そこでその人は金色の台座から降り、礼拝し合掌して仏をほめたたえるのである。そして七日を経て後に、ただちにこの上ないさとりから退くことのない位に至り、また空中を飛行して、ひろくすべての世界に行って仏がたに仕え、そのもとでいろいろな禅定を修行する。このようにして一小劫を経て無生法忍の位に至り、仏がたから直接さとりを得ることを約束されるのである。これを上品中生のものと名づける。
【24】 次に上品下生について説こう。また因果の道理を信じて大乗の教えをけなさず、ひたすらこの上ないさとりを求める心を起こし、その功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ多くの聖者たちとともに現れ、金色に輝く蓮の花を持たせ、さらに五百の化身の仏を出現させてその人をお迎えになる。このとき五百の化身の仏はいっせいに手をさしのべ、< 仏の子よ、そなたは今心が清らかで、この上ないさとりを求める心を起したから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである> と、ほめたたえて仰せになる。
この人はこのようすをまのあたりにし、ふと自分を見ればその身はすでに金色の蓮の花に座っている。すると花は閉じ身を包み、仏の後につきしたがって、ただちに極楽世界の七つの宝でできた池の中に生れることができる。こうして一日一夜が過ぎると花が開き、七日のうちに仏を見たてまつることができるが、はじめのうちはそのさまざまなすぐれた特徴をはっきりと見ることができない。二十一日経って後に、はじめてはっきりと見たてまつることができる。そして極楽世界のさまざまな音がみな尊い教えを説くのを聞くことができるのである。またその人はひろくすべての世界をめぐって仏がたを供養し、その仏がたから奥深い教えを聞き、三小劫を経てすべての教えをさとる智慧を得、心に大きな喜びを得る初地の位に至る。これを上品下生のものと名づける。
以上のことを上品のものの往生の想といい、第十四の観と名づける 」
【25】 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に中品上生について説こう。五戒を受け、八斎戒をたもち、その他さまざまな戒律を守って五逆の罪をつくらず、またいろいろなあやまちを犯さないように努め、それらの功徳をもって西方極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。 この人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、多くの修行僧や聖者とともに従者に取りかこまれて現れ、金色の光を放ってその人の前においでになり、苦・空・無常・無我の道理を説いて、出家のものがいろいろな苦しみを離れることができるのをほめたたえられる。この人はこのようすをまのあたりにして大いに喜び、ふと自分を見ればその身はすでに蓮の花の台座に座っている。そこでひざまずいて合掌し仏に向かって礼拝すると、まだその頭をあげないうちにたちまち極楽世界に生まれることができ、身を包んでいた蓮の花が開く。
そしてその花の開くとき、その世界のさまざまな音がみな四諦の道理をほめたたえるのを聞くことができる。そこでこの人はただちに阿羅漢のさとりを開き、過去・現在・未来を知る智慧と神通力を得、煩悩を離れる八種の禅定を身につけることができるのである。これを中品上生のものと名づける。
【26】 次に中品中生について説こう。一日一夜の間、あるいは八斎戒を守り、あるいは沙弥戒を守り、あるいは具足戒を守って、少しも行いを乱さず、その功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
このように戒律を守りその徳が身にそなわった人は、その命を終えようとするとき、阿弥陀仏が多くの聖者とともに現れ、金色の光を放ち、七つの宝でできた蓮の花を持たせてその人の前においでになるのを見る。このとき空中に声がして、< 善良なものよ、そなたはまことによい功徳を積んだ。過去・現在・未来の仏がたの教えによくしたがったから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである > と、ほめたたえて仰せになるのが聞こえる。その人がふと自分を見ればその身はすでに蓮の花に座っている。蓮の花はすぐに閉じてその身を包み、西方極楽世界に生れる。そして宝の池の中で七日を経てはじめて花が開くのである。 蓮の花が開くとこの人は目を開き、合掌して仏をほめたたえ、尊い教えを聞いて喜び、須陀おんの位に至る。そして半劫を経て後に阿羅漢となるのである。これを中品中生のものと名づける。
【27】 次に中品下生について説こう。善良なもののうち、親に孝行を尽し、人々に思いやりの心を持つものがいる。
この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のために阿弥陀仏の国の清らかで楽しいようすや、法蔵菩薩の四十八願について説くのを聞く。これらのことを聞きおわりその命を終えると、たとえば元気な若者がすばやくひじを曲げ伸しするくらいのわずかな間に、西方極楽世界に生れる。そして七日を経て後に、観世音・大勢至の二菩薩に会い、尊い教えを聞いて喜び、一小劫を経て阿羅漢となるのである。これを中品下生のものと名づける。
以上のことを中品のものの往生の想といい、第十五の観と名づける 」
【28】 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品上生について説こう。さまざまな悪い行いをするものがいる。大乗の経典をけなすようなことはしないが、このような愚かな人は、多くの悪い行いをしても少しも恥じることがない。
この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のために大乗経典の経題をほめたたえるのを聞く。このいろいろな経題を聞くことにより、千劫の間のきわめて重く悪い行いの罪が除かれる。
さらに善知識は合掌して南無阿弥陀仏と称えるように教える。この教えにしたがって仏の名を称えることにより、五十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれるのである。
このとき阿弥陀仏は、化身の仏と化身の観世音・大勢至の二菩薩をお遣わしになり、これらの仏と菩薩がその人の前においでになり、
<善良なものよ、そなたは仏の名を称えたことにより、さまざまな罪がなくなったから、わたしはここに来てそなたを迎えるのである> と、ほめたたえて仰せになる。この言葉が終わるとその人は、化身の仏の光明が部屋中に満ちあふれているのを見る。そしてその光を見て喜び、そのまま命を終えると、宝の蓮の花に乗り、その仏の後につきしたがって極楽世界の宝の池の中に生れるのである。
こうして四十九日を経て後にはじめて蓮の花が開く。その花が開くとき、深い慈悲を持つ観世音・大勢至の二菩薩が大いなる光明を放ってその人の前においでになリ、経典の奥深い教えをお説きになる。その人はこれを聞き、信じてよく理解し、この上ないさとりを求める心を起すのである。このよにして十小劫を経て、すべての教えをさとる智慧を身につけ、初地の位に至る。これを下品上生のものと名づける。
また、仏・法・僧の三宝の名を聞くことができたものも、ただちに極楽世界に生まれることができるのである」
【29】 釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。 「 次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。
この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。そこで、善知識にめぐりあい、哀れみの心からその人のために阿弥陀仏の持つ力のすぐれた徳と、光明の持つさまざまな不可思議な力を説き、またその戒・定・慧・解脱・解脱知見のすぐれた徳をほめたたえるのを聞く、その人はこれを聞いて、ただちに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれ、地獄の猛火はたちまちさわやかな風に変って、多くの美しい花を吹き散らす。花の上にはみな化身の仏と菩薩がおいでになって、その人をお迎えになる。するとたちまち極楽世界に生まれることができ、七つの宝でできた池の中にある蓮の花に包まれて、六劫を経て後にはじめてその花が開くのである。その花が開くとき、観世音・大勢至の二菩薩が清らかな声でその人を心安らかにし、大乗の奥深い教えをお説きになる。そこでその教えを聞いてただちにこの上ないさとりを求める心を起すのである。これを下品中生のものと名づける 」
【30】 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を
犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。
以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける 」
【31】 釈尊がこのようにお説きになると、韋提希は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広大なすぐれた光景を見たてまつった。さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いことであるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得た。
そして五百人の侍女も、それぞれこの上ないさとりを求める心を起して、その国に生れたいと願った。そこで釈尊はすべてのものに対して、みな往生することができ、その国に生れたなら諸仏現前三昧を得ると約束され、これを聞いた数限りない天人も、みなこの上ないさとりを求める心を起したのである。
【32】 そのとき阿難は座から立ち、釈尊の前に進み出て申しあげた。
「 世尊、ただいまの教えは何と名づけたらよいでしょうか。またこの教えのかなめはどのようにたもてばよいのでしょうか」
釈尊は阿難に仰せになった。
「 この教えは < 極楽世界と無量寿仏および観世音菩薩・大勢至菩薩を観ずる経 > と名づけ、また < これまでの悪い行いもさまたげとはならず、仏がたの前に生れる経 > と名づける。
そなたはこの教えをたもち、決して忘れてはならない。この観仏三昧を行うものは、その身はこの世にありながら、無量寿仏および観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができる。善良なものたちがただ無量寿仏の名と観世音・大勢至の二菩薩の名を聞くだけでも、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれるのであるから、ましてそれらを心に念じ、常に思い続けるなら、なおさらのことである。
もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである」
釈尊は阿難に仰せになった。
「 そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。
( 33) こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。数限りない天人や竜や夜叉も、その説法を聞いてみな大いに喜び、うやうやしく釈尊を礼拝して立ち去ったのである。
- 仏説観無量寿経
出典:本願寺出版社発行 浄土三部経(現代語版)初版。 著作権:浄土真宗本願寺派。聖典編纂委員会 |