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「三恒河沙の諸仏」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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さんごうがしゃのしょぶつ
 
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 [[恒河沙]]を三倍したほどの数の諸仏。『安楽集』(上)所引の『涅槃経』の文(註釈版聖典[[安楽集 (七祖)#P--187|七祖篇187頁]]11行以下)によっていう。([[正像末和讃#P--603|正像 P.603]], [[唯文#P--713|唯文 P.713]])
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 [[恒河沙]](ガンジス河の砂)を三倍したほどの数の諸仏。『安楽集』(上)所引の『涅槃経』の文(註釈版聖典[[安楽集 (七祖)#P--187|七祖篇187頁]]11行以下)によっていう。([[正像末和讃#P--603|正像 P.603]], [[唯文#P--713|唯文 P.713]])
  
 
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2017年10月17日 (火) 15:40時点における版

さんごうがしゃのしょぶつ

 恒河沙(ガンジス河の砂)を三倍したほどの数の諸仏。『安楽集』(上)所引の『涅槃経』の文(註釈版聖典七祖篇187頁11行以下)によっていう。(正像 P.603, 唯文 P.713)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『安楽集』「発心の久近」で、

 第三に大乗の聖教によりて、衆生の発心の久近、供仏の多少を明かすとは、『涅槃経』(意)にのたまふがごとし。
「仏、迦葉菩薩に告げたまはく、〈もし衆生ありて、熙連半恒河沙等の諸仏の所において菩提心を発せば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいて、この大乗経典を聞きて誹謗を生ぜず。
{─中略─}
もし三恒河沙等の仏の所において菩提心を発すことあれば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいてこの法を謗ぜず、経巻を書写し、人のために説くといへども、いまだ深義を解らず〉」と。
なにをもつてのゆゑにかくのごとき教量を須ゐるとならば、今日坐下にして経を聞くものは、曾すでに発心して多仏を供養せることを彰さんがためなり。 (安楽集 P.187)

とあり、現在、法を聞解できるのは、過去世に無数の諸仏の出現に値(あ)い、その一仏一仏の前で菩提心を発したからだとする。

この意を『唯信鈔文意』では、

 おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。 ( 唯文 P.713)

と、自力の菩提心のお育てを感佩しておられる。同時に、阿弥陀仏以外の仏・菩薩を軽蔑したり、自力の善を謗ってはならないとされておられる。過去世において、ガンジス河の砂の数を三倍したほどの無数の仏陀たちに出あい、自力の菩提心を発してきたからこそ、ただいま、本願他力の救いをはからいなく受け入れることの出来る身になったといわれるのである。

しかし、ご和讃では、『唯信鈔文意』と少しく違い、そのような長い間、煩悩具足の凡夫として流転したのは自力の菩提心であったからだとし、すみやかに本願である阿弥陀如来の菩提心に依るべきだとされている。

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり (正像 P.603)

つまり、ガンジス河の砂の数を三倍したほどの仏にであうほどの久遠の時間がかかったということは、自力に囚われて選択本願念仏の教えを聞かず、雑行を修し自力に固執していたからであるとされる。『唯信鈔文意』では過去のお育てを慶ばれているのだが、ご和讃では、三恒河沙の諸仏に出あいながら、いまなお凡夫でいるのは、よほど自分の罪業が深かったせいだと慙愧されておられるのであろう。

『涅槃経』の三恒河沙の部分の抜粋。

若有衆生於三恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷雖爲他説未解深義。

もし衆生、三恒河沙等の佛の所において、菩提心を發すこと有れば、しかして後にすなわちよく惡世中において、この法を謗ぜず、經卷を受持し讀誦し書寫して、他のために説くといへども、いまだ深義を解せず。

『涅槃経』では、三恒河沙等の数の仏の所(みもと)で自力(聖道)の菩提心を発して修行してきても、なお仏法の奥深い義理は解からないということ。一恒河沙や二恒河沙等では、正解し信楽し受持し読誦しても、他の人のために説くは出来ないとされている。

ノート:三恒河沙の諸仏