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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 阿弥陀は梵語アミターバ(Amitābha―[[無量光]])およびアミターユス(Amitāyus―[[無量寿]])のアミタ(Amita)の音写。略して阿弥陀・弥陀ともいう。
 
 阿弥陀は梵語アミターバ(Amitābha―[[無量光]])およびアミターユス(Amitāyus―[[無量寿]])のアミタ(Amita)の音写。略して阿弥陀・弥陀ともいう。
  
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*阿弥陀仏の真言。『<kana>無量寿(むりょうじゅ)</kana><kana>儀軌(ぎき)</kana>』 などに出るものは阿弥陀大呪と呼ばれ、真言宗三陀羅尼の一となっている。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1273|選択集 P.1273]])
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*『阿弥陀鼓音声陀羅尼経』のこと。→[[鼓音声陀羅尼経]] ([[往生要集下巻 (七祖)#P--1101|要集 P.1101]])
 
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2018年4月4日 (水) 19:39時点における版

阿弥陀仏

 阿弥陀は梵語アミターバ(Amitābha―無量光)およびアミターユス(Amitāyus―無量寿)のアミタ(Amita)の音写。略して阿弥陀・弥陀ともいう。

西方浄土(安楽国・安養国、極楽世界)で法を説く。『大経』によれば、はるかな過去に世自在王仏(せじざいおうぶつ)のもとで、一国の王が無上道心(むじょうどうしん)(この上ないさとりをもとめる心)をおこして出家し法蔵と名のり、諸仏の浄土を見て五劫の間思惟し、一切衆生(しゅじょう)を平等に救おうとして四十八の大願を(おこ)し、兆載永劫(ちょうさいようごう)(はかりしれない長い時間)の修行の後、今から十劫の昔にその願行(がんぎょう)を成就して阿弥陀仏となり、西方にすぐれた浄土を建立し現に説法していると説かれている。→補註1。(一多 P.690)

  • 阿弥陀仏の真言。『無量寿(むりょうじゅ)儀軌(ぎき)』 などに出るものは阿弥陀大呪と呼ばれ、真言宗三陀羅尼の一となっている。 (選択集 P.1273)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

親鸞聖人の仏身論
Dharma wheel

補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

1 阿弥陀仏

 阿弥陀仏とは、西方浄土(極楽世界)にあって大悲本願をもって生きとし生けるものを平等に救済しつつある仏である。 『大経』によれば、法蔵菩薩が光明無量(第十二願)、寿命無量(第十三願)であろうと願い、その願いに報いて成就されたので、無量光(アミターバ Amitābha)、無量寿(アミターユス Amitāyus)の徳をもつといい、このような徳をあらわすために阿弥陀と名づけられたといわれている。

無量寿とは仏のはたらきの時間的無限性をあらわし、無量光とは空間的な無辺性をあらわしており、時間的空間的な限定を超えて、あらゆる衆生をもらさず救う仏の名である。これによって親鸞聖人は、「摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」といわれる。(弥陀経讃P.571)

善導大師は、阿弥陀仏は念仏の衆生を救うことができなければ仏になるまいと誓い、永劫(ようごう)の修行によってその願いを成就してなられた仏であるから、願行に報いた報身仏(ほうじんぶつ)であるといわれた。そして、聖道(しょうどう)諸師の中において阿弥陀仏を応化身(おうげしん)とみるような説を否定するとともに、念仏の衆生は、仏の本願力に乗じて必ず報仏の土(報土)へ往生できると強調された。

 また親鸞聖人は曇鸞大師の教えによって法性(ほっしょう)・方便の二種法身(ほっしん)として阿弥陀仏を説明されている。法性法身とは、さとりそのものである法性真如(しんにょ)を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超え、私どもの認識を超えたものである。

 これについて『唯信鈔文意』には、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」とある。(唯信鈔文意P.709)

そして方便法身とは、「この一如(法性法身)よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘と名のりたまひて」といわれる。

すなわち、万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、自他を分別し執着して、煩悩をおこし苦悩しているものをよびさまし、真如の世界にかえらしめようとして、絶対的な法性法身がかたちを示し、阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。『論註』(下)には、「正直を方といひ、おのれを外にするを便といふ」といい、真如にかなって、おのれを捨てて一切衆生を救う大悲のはたらきを方便というとされている。要するに大悲の本願をもって衆生を救済する仏を方便法身というのである。

 この阿弥陀仏を『浄土論』には「尽十方無碍光如来」といわれた。十方世界にみちみちて、一切衆生をさわりなく救う大悲の智慧の徳をもつ如来ということである。また『讃弥陀偈』には「不可思議光仏」といわれた。人間の思議を超えた絶対の徳を成就された如来ということである。

 親鸞聖人は、これによって阿弥陀仏を「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏(如来)」、「南無阿弥陀仏」と十字、八字(九字)、六字の名号(みょうごう)をもって讃嘆(さんだん)し、敬信(きょうしん)せられた。


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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