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 [[阿弥陀仏]]の[[浄土]]に'''往'''き'''生'''れることをいう。→[[補註2]]。
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 [[阿弥陀仏]]の[[浄土]]に'''往'''(ゆ)き'''生'''れることをいう。→[[補註2]]、→[[七祖-補註2]]。
  
 
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;浄土真宗辞典より
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:この世に生まれてきた、これを'''誕生'''という。
 他の世界へ往き生まれること。浄土教においては阿弥陀仏の浄土に往き生まれることをいう。往生浄土の略。<br />
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:お浄土に生まれてゆく、これを'''往生'''という。
[[曇鸞]]は、[[浄土]]への往生は生滅を完全に超えた法性無生のことわりにかなった生([[無生の生]])であって、凡夫の認識するような実体的な生とはまったく異なるとする。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられている。<br />
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:ゆえに、わたしの中に死は存在しない。(梯實圓 法話)
これに対して親鸞は、阿弥陀仏の浄土を完全に[[煩悩]]が[[寂滅]]した無為涅槃界とし、[[現生]]の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとする往生即成仏([[難思議往生]])を説いた。「信巻」には「念仏の衆生は[[横超]]の[[金剛心]]を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、[[大般涅槃]]を超証す」[[顕浄土真実信文類_(末)#P--264|p.264]]、「大願清浄の報土には[[品位階次]]をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり」[[顕浄土真実信文類_(末)#no73|p.254]] 等とある。また「証巻」には「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。[[正定聚]]に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」[[顕浄土真実証文類#no1|p.307]] とあり、現生に正定聚についたものが必ず[[滅度]]に至ることが述べられている。(以上浄土真宗辞典より引用)
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'''往生''' おうじょう
 往も行も、ゆく・いくを意味する漢字だが、往はこちらからあちらへ往くという意味であり、浄土真宗では次元を[[横超]]することを往生の意であるとする。これに対し行は止の反対語で進むとか歩いて行くという同一次元での移動を意味する語である。この[[横超]]を意味する往の語の意から、こちらの娑婆からあちらの浄土へ往き生まれることを往生としたのである。もちろん、往生とは最古層といわれる仏典のスッタニパータの第1偈に「この世とかの世とをともに捨て去る」とあるように、[[輪廻]]としての生まれ変わりの生ではなく生死を超えているさとりの<kana>界(さかい)</kana>へ往くことをいう。浄土真宗の浄土とは、阿弥陀如来の<kana>[[無為]](むい)</kana><kana>涅槃界(ねはんがい)</kana>のさとりが、動的な活動を示す[[無住処涅槃]]であり[[往相]]と[[還相]]の躍動する淵源を浄土というのである。<br />
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なお『浄土論註』には往生を世俗の延長として、たとへ実体的な生まれ方と思っていても「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」[[浄土論註_(七祖)#P--126|七p.126]] と、<kana>氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)</kana>の喩えによって、浄土を実体的に見る[[下品]]の凡夫の往生を遮していない。古来から「凡情を遮せず」という所以である。<br />
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また、浄土の徳の一つに不改の義があり、「不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」([[顕浄土真仏土文類#no24|真仏土巻p.358で引文]]) と、あらゆる者を受け容れても、自らは改まることなく(不改)、かえって受け容れた者を改め変えていくとする。
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 他の世界へ往(ゆ)き生まれること。浄土教においては[[阿弥陀仏]]の[[浄土]]に往き生まれることをいう。往生浄土の略。<br />
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[[曇鸞]]は、[[浄土]]への往生は生滅を完全に超えた[[法性]]無生のことわりにかなった生([[無生の生]])であって、凡夫の認識するような実体的な生とはまったく異なるとする。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられている。<br />
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これに対して親鸞は、阿弥陀仏の浄土を完全に[[煩悩]]が[[寂滅]]した[[無為涅槃]]界とし、[[現生]]の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとする[[往生即成仏]]([[難思議往生]])を説いた。「信巻」には、
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:「念仏の衆生は[[横超]]の[[金剛心]]を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、[[大般涅槃]]を超証す」 ([[顕浄土真実信文類_(末)#P--264|信巻p.264]])、
  
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:「大願清浄の報土には[[品位階次]]をいはず、一念[[須臾]]のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに[[横超]]といふなり」 ([[顕浄土真実信文類_(末)#no73|信巻p.254]])
ウィキダルマ:[[WDM:おうじょう|往生]]<br/>
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等とある。また「証巻」には、
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:「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。[[正定聚]]に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」([[顕浄土真実証文類#no1|証巻p.307]])
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とあり、現生に正定聚についたものが必ず[[滅度]]に至ることが述べられている。(以上浄土真宗辞典より引用)
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 往も行も、ゆく・いくを意味する漢字だが〔ゆく〕は漢文訓読の文語表現で使われることが多い。往はこちらから目的地へ往(ゆ)くという意味であり、浄土真宗では次元を[[横超]]することを往生の意であるとする。これに対し行は止の反対語で進むとか歩いて行(い)くという同一次元での移動を意味する語である。この[[横超]]を意味する往の語の意から、こちらの娑婆からあちらの浄土へ往き生まれることを往生としたのである。法然聖人は『往生要集大綱』第七に「言往生者 捨此往彼 蓮華化生(往生と言うは、<kana>此(ここ)</kana>を捨て<kana>彼(かなた)</kana>に往きて、蓮華に化生するなり)」[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/9/page/373 (*)]とされていた。もちろん、往生とは最古層といわれる仏典のスッタニパータの第1偈に「この世とかの世とをともに捨て去る」とあるように、[[輪廻]]としての生まれ変わりの生ではなく「[[生死]]」を超えているさとりの<kana>界(さかい)</kana>へ往くことをいう。浄土真宗の浄土とは、阿弥陀如来の<kana>[[無為]](むい)</kana><kana>涅槃界(ねはんがい)</kana>のさとりが、動的な活動を示す[[無住処涅槃]]であり[[往相]]と[[還相]]の躍動する淵源を浄土というのである。<br />
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なお『浄土論註』には往生を世俗の延長として、たとへ実体的な生まれ方と思っていても
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:かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。{…中略…}
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:かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに[[生見]]を転じて[[無生の智]]となすことあたはざらんや。
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:「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」 ([[浄土論註_(七祖)#P--126|論註p.126]])
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と、宝珠の名号と<kana>氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)</kana>の喩えによって、浄土を実体的に見る[[下品]]の凡夫の往生を遮していない。古来から「[[凡情を遮せず]]」という所以である。<br />
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また、浄土の徳の一つに不改の義があり、
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:「また性といふは、これ{{ULR|必然の義}}なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」([[顕浄土真仏土文類#no24|真仏土巻p.358で引文]])
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と、阿弥陀如来の浄土は、あらゆる者を受け容れても、自らは改まることなく(不改)、かえって受け容れた者を改め変えていくとする。<br />
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なお、ここの、<kana>必然(ひつねん)</kana> (必ずそうなるに違いなく、それ以外にはありえないということ) の意から、自然(自ずからしかる)の然の語を、
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:「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。 ([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]])
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と、阿弥陀如来の本願を[[信受]]したものは、本願の自ずからのはたらきとして、<kana>[[自然]](じねん)</kana>に往生成仏は「しからしむ」と読まれたのであろう。
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なお御開山は、往生を「真仏土巻」で、 
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:往生といふは、『大経』(上)には「[[皆受自然…|皆受自然虚無之身無極之体]]」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「[[如来浄華…|如来浄華衆正覚華化生]]」といへり。また「[[同一念仏…|同一念仏無別道故]]」(論註・下)といへり。{以上}また「[[難思議往生]]」(法事讃・上)といへるこれなり。 ([[真巻#P--372|真巻 P.372]])
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とされておられた。
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:→[[浄土]]
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:→[[六三法門]]
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:→[[往相]]
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:→[[自然]]
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:→[[凡情を遮せず]]
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:→[[無住処涅槃]]
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:→[[ノート:おうじょう]]
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<!-- 訂正しておきました。林遊-->
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外部リンク
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ウィキダルマ:[[WDM:おうじょう|往生]]<br/>
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{{JDS|往生#[真宗で説く往生]}}
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[[Category:巻末註]][[Category:追記]]
 
[[Category:巻末註]][[Category:追記]]

2024年2月26日 (月) 20:01時点における最新版

往生

 阿弥陀仏浄土(ゆ)きれることをいう。→補註2、→七祖-補註2

 →往生一定

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

この世に生まれてきた、これを誕生という。
お浄土に生まれてゆく、これを往生という。
ゆえに、わたしの中に死は存在しない。(梯實圓 法話)

往生 おうじょう

 他の世界へ往(ゆ)き生まれること。浄土教においては阿弥陀仏浄土に往き生まれることをいう。往生浄土の略。
曇鸞は、浄土への往生は生滅を完全に超えた法性無生のことわりにかなった生(無生の生)であって、凡夫の認識するような実体的な生とはまったく異なるとする。一般的には、浄土は成仏のための修行がしやすい場所とされ、往生した後も仏道修行を積まなければならないと考えられている。
これに対して親鸞は、阿弥陀仏の浄土を完全に煩悩寂滅した無為涅槃界とし、現生の命を終え阿弥陀仏の浄土に往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果を得るとする往生即成仏難思議往生)を説いた。「信巻」には、

「念仏の衆生は横超金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」 (信巻p.264)、
「大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり」 (信巻p.254)

等とある。また「証巻」には、

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」(証巻p.307)

とあり、現生に正定聚についたものが必ず滅度に至ることが述べられている。(以上浄土真宗辞典より引用)


 往も行も、ゆく・いくを意味する漢字だが〔ゆく〕は漢文訓読の文語表現で使われることが多い。往はこちらから目的地へ往(ゆ)くという意味であり、浄土真宗では次元を横超することを往生の意であるとする。これに対し行は止の反対語で進むとか歩いて行(い)くという同一次元での移動を意味する語である。この横超を意味する往の語の意から、こちらの娑婆からあちらの浄土へ往き生まれることを往生としたのである。法然聖人は『往生要集大綱』第七に「言往生者 捨此往彼 蓮華化生(往生と言うは、(ここ)を捨て(かなた)に往きて、蓮華に化生するなり)」(*)とされていた。もちろん、往生とは最古層といわれる仏典のスッタニパータの第1偈に「この世とかの世とをともに捨て去る」とあるように、輪廻としての生まれ変わりの生ではなく「生死」を超えているさとりの(さかい)へ往くことをいう。浄土真宗の浄土とは、阿弥陀如来の無為(むい)涅槃界(ねはんがい)のさとりが、動的な活動を示す無住処涅槃であり往相還相の躍動する淵源を浄土というのである。
なお『浄土論註』には往生を世俗の延長として、たとへ実体的な生まれ方と思っていても

かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。{…中略…}
かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。
「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり」 (論註p.126)

と、宝珠の名号と氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)の喩えによって、浄土を実体的に見る下品の凡夫の往生を遮していない。古来から「凡情を遮せず」という所以である。
また、浄土の徳の一つに不改の義があり、

「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」(真仏土巻p.358で引文)

と、阿弥陀如来の浄土は、あらゆる者を受け容れても、自らは改まることなく(不改)、かえって受け容れた者を改め変えていくとする。
なお、ここの、必然(ひつねん) (必ずそうなるに違いなく、それ以外にはありえないということ) の意から、自然(自ずからしかる)の然の語を、

「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。 (正像 P.621)

と、阿弥陀如来の本願を信受したものは、本願の自ずからのはたらきとして、自然(じねん)に往生成仏は「しからしむ」と読まれたのであろう。

なお御開山は、往生を「真仏土巻」で、 

往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。 (真巻 P.372)

とされておられた。

浄土
六三法門
往相
自然
凡情を遮せず
無住処涅槃
ノート:おうじょう

外部リンク

ウィキダルマ:往生
参照WEB版浄土宗大辞典の「往生#[真宗で説く往生]」の項目