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あきのれんそう

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年9月12日 (火) 23:33時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「安藝法眼事 法名蓮崇 一 文明の初比、越前國吉崎御坊御建立也。同國のあさふ津の村仁にて候きが、心さかしき人にてさふ...」)

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安藝法眼事 法名蓮崇

一 文明の初比、越前國吉崎御坊御建立也。同國のあさふ津の村仁にて候きが、心さかしき人にてさふらひし間、安藝の國へも往返し侍仁にて候間、安藝と人々いゝつけて侍る人也。

吉崎殿へ参り、御堂に常にまひり、茶所に有て、一文不通の人たるが、晝夜隙なく學問手習して、四十の年より色葉を習ひ、眞物まで書習、聖教等も令書写、淨土の法門心にかけ、才學の人と成て、吉崎殿御内へ望申、奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人の御意に叶、玄永丹後は傍へ成て、安藝安藝とぞめされける。一段秀たる人にて、法門の御意をも仰せられさふらふ程に、人々も近付而聴聞し侍り、弟子も門徒も出来侍り。

去程に、加州の守護人の富樫助と百姓との取合に成ける。百姓衆と申は、御門徒衆・坊主衆也。仕損じて越中へ退て、吉崎殿へ忍て、惣中より使ひを上申候。此度の軍の様、百姓中難叶さふらふ間、調和興无事に可還住扱さふらふ間、其趣、吉崎殿へ兩使{洲崎藤右衛門入道慶覚 湯涌次良右衛門入堂行法}上りさふらひて、安藝を以て申入處に、兩使申入さふらふ段をば一向不被申入、各別に安藝奏者被申入、涯分致調法、加州へ可切入さふらふ間、各へ被力付様に、御意を以て可被仰付候、涯分可致合戦の由被申入さふらふと、蓮如上人へ申上事さふらふと被披露。

蓮如上人誠と思召、无用と思召さふらへども、左様に談合調法に於ては、是非无くさふらふ。更に御異見に不及さふらふ。如何様とも、可然様に調可被申と仰出されさふらふと、各別に御意の旨、兩使へ被申付。 兩使は、今の分は難成さふらふ由申候へども、如何様とも、各可馳走の由、御意さふらふと、兩使に被申付さふらふ。兩使ささふらふ段の御返事、心元なく存さふらひつれども、御意の旨と被申出候間、是非なくさふらひて、富樫を可令成敗の由、御意を直に承度心出来、何様に直に御目にかゝり度さふらふ由、兩使申し候へば、无用とさゝへられさふら間、猶心元なし、何とぞ御目にかゝるべきとの由申さふらふ處に、蓮如上人も直に可被仰の御心にて、可有御見参と仰せられさふらへば、安藝たゞ直に御意までもなく候ふ、安藝委細可申計仰せられて、可然よし申上られさふらふ。

上人は安藝被申さふらふ事は、何事も仰つる間、御目にかゝり候へば、此度骨折也、委細安藝可申と計り仰出されけり。 兩使、是非なく御意と心得て歸國し侍り。蓮如上人は无事に調、兩使も下り侍らんと思しめしけり。越中に歸り各内談申、各同心に難成事とは心得さふらへども、其中にも、是ぞ面白事と、存じさふらふ衆も侍る也。

一 去文正の比、富樫次郎{政親}、弟の幸千代と取合て、次郎は越前に牢人し比、吉崎に御座さふらふ比なれば、いろいろ御扶持さふらひき。然ば國へ歸さふらはゞ、御門徒中の儀、于今疎略すべからずの由申たる旨、次郎を従越前、御門徒人に被仰付、加州山田へ被入さふらふより、合戦、利を得さふらひて、幸千代を追拂、次郎、國を手に入、安堵の處に、御恩を忘れ当流の衆を嫌さふらふ事、槻橋と申者所行にさふらふ間、國中の門人槻橋嫌により、國の乱は又出来、百姓等も又仕損じ候て、越中まで退たる事也。{前段は此後の事也}

一 其後、加州に又富樫次郎{政親}、いとこの富樫安高と云を取立て、百姓中合戦し、利運にして次郎政親を討取り、安高を守護としてより、百姓取立の富樫にて候間、百姓等のうでつよく成て、近年は、百姓の持たる國のやうに成行さふらふ事にて候。

然處に、安藝、彌威勢・分限出來て、吉崎殿寺内に安藝居住の處には土蔵十三立て、一門繁昌し、被官數百人ことごとしく成さふらふて、朝倉弾正左衛門{法名英林}と申者に知音さふらふ。則名字の庶子に成し、{あまう}安藝とそ申しける。上洛し、将軍慈照院殿御被官分に成り、奉公衆一分なり。

數度御内書等被成さふらふ。法眼には将軍家より御成し候。法橋には吉崎殿御成し候。塗輿も武家御所より御免、毛氈鞍覆・唐傘袋まで同前御免にて、威勢无限、玄永丹後は影もなく、蓮如上人は申さるゝ儘に御成さふらふ由、願成就院殿聞召、大津より御下向さふらひて、吉崎殿へ御出さふらひて、蓮如上人船にて御上洛の時、安藝、萬曲言の由を被仰さふらひて、船に曉めされさふらふに、安藝法眼も御船に被乗候を、願成就院殿、愛成は何者ぞと被仰、引立させたまひ、船にかゞみ居られさふらふを取て、陸へなげいだされ候へば、礒ぎはに伏沈み、御影の見ゆるまで平臥、泣被居さふらひつるが、御船も見へず成りさふらへば、をきあがり御坊に歸り、その儘越前・加賀の御門徒中に勧化せられ、人々尊敬无限さふらふ。總じて安藝、門徒過分に候ひき。夜は朽木を衣の下に被付、光に見せなど、種々の事さふらひつる由にさふらふ。 蓮如上人にみやづかひの折節は、皆人々、安藝殿して申入さふらへば、早く出申さふらふとて、名號各申入たるは、安藝私に書て出されさふらふ由に候。その名號、近比まで加州にさふらひつる事候。左様に種々の事候つる。

その後、加州へ被仰付、安藝曲言の由、國中へ被仰下さふらふ間、湯湧村と申所、山中に城をこしらへ被籠つれば、國中の衆、押寄責られさふらへば、夜中に落行き、越前へ父子ともに落行隠れ居て、數ケ年越前にかゞみ居られ侍を、蓮如上人御往生近くなりて、明應八年二月比より、加州一家中へ、安藝よりより縁を求て、侘言の義さふらへども、誰にても取上べきと思ふ人もなく侍るに、御往生の砌には、山科の近くに上落し、あれこれに付て、色々佗言申入度さふらふ由、申入さふらへども、誰にても可取次と申人もなくて侍る所に、蓮如上人三月初比に、北隣坊・光聞坊へ被仰事に、安藝はいづくにあるとか聞たるぞと被仰。兩所被申には、いつくにありとも更に聞不申さふらふ。

何と有事さふらふや、不聞さふらふと被申さふらへば、三月の中旬には、あらあら不便や、越前の方に可居、尋させよ被仰出侍るに、兩寺その外一同に談合さふらひて、可召出思食事无勿体さふらふ。外聞といひ、曲働の仁にて候間、中々召出さぬ様にとて、何くにあるとも不存知さふらふと、生所もなくさふらふなど、各被申入さふらへば、廿日比には、不便なり、尋させよ尋させよと、しきりに仰事あり。既に御往生も近付よと、各も存じさふらふ處、如此被仰事にてさふらふ間、如何すべきとて、越前邊にありげに候と被申入さふらへば、人を遣して呼よと被仰出召出さふらふ由の御意さふらふ。 上洛仕りさふらへど、山科八町まで上被居候ふ間、その旨申上さふらへば、可召出と被仰出候ふ間、徒にさふらふを被召出さふらひては、外聞方々如何と、各申され候へば、実如上人・北隣坊已下も、ささへ御申候ふ様にさふらへば、それは不然候。弥陀の本願は悪人を本に御助あるべきとの御本誓なり。 徒者を免すが嘗流の奇模なり、呼出すべしと被仰出候間、廿日比に召出し候ふて、御対面ありければ、安藝法眼忝由被申上、唯涙計、物をも不申分、五体を地になげ馨をあげて、有難由被申、なかれさふらふ計、理も尤の事候ふと、各も感じ被申ける。廿五日に御往生に奉相、廿六日御葬禮の御供申、唯泣るゝ事のみにて候つるが、やがて廿八日に往生せられ候ひけり。 誠に安藝法眼は不思議の機縁・宿縁、希代なる仁体と、人々申合侍り。主も往生極樂无疑有難事ども也。

右條々、愚老承伝分注付處、御所望之間、悪筆と云ひ文言と云ひ、旁以雖憚入不存隔心、筋目迄令進者也。可被外見止者也。可笑可笑。