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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「加賀野井 秀一氏は世間と社会の違いについて、 : 「社会」という言葉に例を取ってみましょう。「ソサエティー」ですね。...」)
 
 
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加賀野井 秀一氏は世間と社会の違いについて、
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社会といふ語が世間といふ言葉と通用されることがあるのだが、加賀野井 秀一氏は世間と社会の違いについて、
  
 
: 「社会」という言葉に例を取ってみましょう。「ソサエティー」ですね。この「ソサエティー」も明治期の言葉です。
 
: 「社会」という言葉に例を取ってみましょう。「ソサエティー」ですね。この「ソサエティー」も明治期の言葉です。

2020年8月20日 (木) 15:30時点における最新版

社会といふ語が世間といふ言葉と通用されることがあるのだが、加賀野井 秀一氏は世間と社会の違いについて、

 「社会」という言葉に例を取ってみましょう。「ソサエティー」ですね。この「ソサエティー」も明治期の言葉です。
ところが、それ以前に日本語では「世間」という言葉がありました。ですから、何も社会なんて言わなくても、「ソサエティー」という言葉を世間と訳せばいいじゃないかとも考えられるわけですが、そうではありません。例えば皆さん「世間様へ気兼ねをする」というのはありますけれど、「社会様へ気兼ねをする」というのはどうもおかしいですよね。何とはなしにそぐわない。それから「社会参加をいたしましょう」と言いますが、でも「世間参加をいたしましょう」というのはないんですね。この概念を細かく考えてみますと、「社会」というのは我々個人を含むものですけれども、含んでいながら、我々と対立する、公と私みたいな関係になっております。ところが、「世間」というのは違うんです。世間の中には「私」は含まれません。「世間の目が怖い」なんていうのは、全部自分の外部です。それに対していつも気遣いをしている。他人にとっての世間の中に私は入るわけですが、自分自身は、世間の中に含まれつつ、その世間と対立するという構造じゃないですね。ですから、日本人の中に「社会」という概念はなかったのだと考えた方がいいと思います。
「古い革袋に新しいワインを入れる」とちょっと調子が悪いというようなもので、どうしても新しい言葉が必要になった。そこで福澤諭吉なんかが考えて作ったわけです。けれども、「社会」という言葉は、まかり間違うと「会社」という言葉になりそうだったらしいですね。そうすれば、我々は会社に参加しなくちゃいけない。ただでさえ、会社人間になっている我々が、そこへ参加したらえらいことですけれども(笑)、いずれにしても、そういう形で社会という言葉が出来たわけです。
といわれていた。