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「宿善」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきり」([[歎異抄#P--832|歎異抄 P.832]])
 
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきり」([[歎異抄#P--832|歎異抄 P.832]])
 
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という「[[行信]]」の事実をいうのである。この[[行信]]を獲信した事実の上で遇法の善き因縁が、御開山の意でいえば宿善(調熟)の当体ともいえるであろう。自覚や自己責任という知愚の毒におかされた現代人には窺い知ることもできないご法義である。愚鈍の林遊のような門徒にとっては「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」([[消息上#P--737|消息P.737]])の〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超える大乗至極の仏法であった。ありがたいこっちゃな。<br />
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という「[[行信]]」の事実をいうのである。この[[行信]]を獲信した事実の上で遇法の善き因縁が、御開山の意でいえば宿善(調熟)の当体ともいえるであろう。[[自覚]]や自己責任という[[智愚の毒]]におかされた現代人には窺い知ることもできないご法義である。愚鈍の林遊のような門徒にとっては「[[選択本願]]は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」([[消息上#P--737|消息P.737]])の〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超える大乗至極の仏法であった。ありがたいこっちゃな。<br />
ともあれ、覚如上人・蓮如上人の「宿善」という語は、現在から過去をふり返って「調育」とか「調熟」の「お育て」の義をいうのであって、決して求めるべき往生の「体」として宿善を語られることはなかった。
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ともあれ、覚如上人・蓮如上人の使われた「宿善」という語は、現在から過去をふり返って「調育」とか「調熟」の「お育て」の義をいうのであって、決して求めるべき往生の「体」として宿善を語られることはなかった。
 
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:宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。[[トーク:口伝鈔#宿善ありがたし|(*)]]
 
:宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。[[トーク:口伝鈔#宿善ありがたし|(*)]]
 
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と、梯實圓和上がしめされたごとくである。「因果の道理」という語に幻惑されて、宿善をまるで獲信の因であると錯誤し宿善を積み重ねて仏果を得ようと誤解する/した者は昔から少なからず存在したものである。しかして、宿善の意味を取り違えて、往生の業因はなんまんだぶであるという全分他力のご法義の中にいることを[[信知]]できない者は、「宿善を積み重ねることによって教えに逢おうと」として空しく自力の修善に迷うのであった。
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と、梯實圓和上が示されたごとくである。「因果の道理」という語に幻惑されて、宿善をまるで獲信の因であると錯誤し宿善を積み重ねて仏果を得ようと誤解する/した者は昔から少なからず存在したものである。しかして、宿善の意味を取り違えて、往生の[[業因]]はなんまんだぶであるという全分他力のご法義の中にいることを[[信知]]できない者は、「宿善を積み重ねることによって教えに逢おうと」として空しく自力の修善に迷うのであった。
  
 
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2020年8月20日 (木) 07:13時点における版

 御開山が依用された七祖聖教には『往生要集』の若干の例を除いて[宿善]という語は無い。もちろん御開山の著書の中にも宿善という名目は無い。このように宿善という語をお使いにならなかったのは真実とは何かの根拠を『論註』の「真実功徳釈」によられたからであろう。『論註』の「真実功徳釈」の真実功徳相には、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。
一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。
いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。 (論註 P.56),(行巻 P.158)

とあり、凡夫人天諸善は全て顛倒であり虚偽であるとし、法蔵菩薩の智慧清浄の業より起された菩提心(本願)こそが真実であるとされたからである。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因としての意味を認めなかったから宿善という言葉をお使いにならなかった。御開山は自らの中に全く真実がないということをもって真実とされた方であった。それゆえに選択本願の法に遇えた慶びを語るには宿善ではなく宿縁(阿弥陀仏が遠くはてしない昔から、衆生を救済しようという誓願をたてた縁のこと)という語を使われておられるのもその意である。
総序に「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ(遇獲行信 遠慶宿縁)」(総序 P.132) とあるように、思いがけなくも、たまたま本願の教えに出遇われたのであった。→まうあふ
なお法然聖人は『往生浄土用心』で、

「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候」(『往生浄土用心』P.765)

と、宿善の有無を沙汰するよりも、ただ名号の専称(なんまんだぶ)ををすすめて下さった。

 浄土真宗で「宿善」という言葉については『慕帰絵詞』第五巻_第一段_宿善の事 の一段に詳しい。『慕帰絵詞』(ぼき-えことば)とは本願寺三代目を名乗られた覚如上人の帰寂(入寂)を慕う伝記である。覚如上人が宿善という名目を使われたのは、末尾に示す浄土宗鎮西派の派祖である弁長の著した『浄土宗名目問答』で、御開山の提唱された全分他力説を論難し否定する、

自力の根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。

という、全分他力で自力の善根が全くなくても浄土へ往生するというならば、一切の衆生は、みなすでに浄土へ往生してしまっているのではないか、という論難に対する為であろう。この論難に対して、衆生の往生の正因である信心の開発に遅速があるのは、宿善(前世・過去世につくった善根功徳)の厚薄によるのだと、宿善という名目を導入することによって、全分他力説(本願力回向)の正当性を証明しようとしたのである。これには『慕帰絵詞』にあるように『無量寿経』の「若人無善本 不得聞此経(もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず)」(大経 P.46)という「若人無善本」という語が強い証左となったのであろう。

 誓願一仏乗という、前人未到の境地を開かれた御開山の教説を合理的に解釈しようという覚如上人の考察が、浄土真宗に「宿善」という名目を導入された意図であろう。もっとも、法然聖人、御開山聖人の示して下さった浄土真宗に於いては、口に〔なんまんだぶ〕と、称える以外の《善》はありえ無いのであった。何故なら阿弥陀仏が選択摂取して下さった念仏成仏正定業(正しく衆生の往生が決定する業因)が、口に称えられる〔なんまんだぶ〕であるからである。如来が選択された意からはいえば、念仏者にとっては「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」(消息 P.807) の非行非善である。ゆえに諸仏の行ずる行と等しい大行なのである。

 御開山は、信心の形而上学ともいえる信を顕す為に『教行証』という行から信を別開されたのであった。その意味において、〔なんまんだぶ〕と称える教行証の「行」は本願力回向の教法であり信に先行するである。「行巻」で「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」(行巻 P.199) とされておられるように大行は教法であり教行だからである。
この救いの教と行を信知した時に往生は決定するのである。その救いの業因である、なんまんだぶが私の上に開け起こったを指して信心正因というのである。「信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に信心正因、称名報恩」(*)というのであり、浄土真宗の信心とは私の口に〔なんまんだぶ〕と称えられている、

「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきり」(歎異抄 P.832)

という「行信」の事実をいうのである。この行信を獲信した事実の上で遇法の善き因縁が、御開山の意でいえば宿善(調熟)の当体ともいえるであろう。自覚や自己責任という智愚の毒におかされた現代人には窺い知ることもできないご法義である。愚鈍の林遊のような門徒にとっては「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息P.737)の〔なんまんだぶ〕を称えて生死を超える大乗至極の仏法であった。ありがたいこっちゃな。
ともあれ、覚如上人・蓮如上人の使われた「宿善」という語は、現在から過去をふり返って「調育」とか「調熟」の「お育て」の義をいうのであって、決して求めるべき往生の「体」として宿善を語られることはなかった。

宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。(*)

と、梯實圓和上が示されたごとくである。「因果の道理」という語に幻惑されて、宿善をまるで獲信の因であると錯誤し宿善を積み重ねて仏果を得ようと誤解する/した者は昔から少なからず存在したものである。しかして、宿善の意味を取り違えて、往生の業因はなんまんだぶであるという全分他力のご法義の中にいることを信知できない者は、「宿善を積み重ねることによって教えに逢おうと」として空しく自力の修善に迷うのであった。

とみえたり
トーク:口伝鈔#光明と名号
業・宿業
安心論題/五重義相
三恒河沙の諸仏

鎮西浄土宗では、聖道門は「自は強く他は弱し」とし、浄土門は「他は強く自は弱き」とし、自力と他力が相俟って救済が成立するとして、浄土真宗のような本願力回向による全分他力説をとらない。

選択伝弘決疑鈔 良忠 決疑鈔の抜粋

自力他力者、自三學力名爲自力、佛本願力名爲他力也。

自力他力とは、自の三学力(戒定慧の三学)を名けて自力となす、仏の本願力を名けて他力となすなり。

問 聖道修行亦請佛加、淨土欣求行自三業、而偏名意如何。

問う、聖道の修行もまた仏加を請う、浄土の欣求も自の三業を行ず、而を偏に名ける意いかん。

答 聖道行人先行三學、爲成此行而請加力、故屬自力。

答う、聖道の行人は先づ三学を行ず、此の行を成ぜんが為に而も加力を請う、故に自力に属す。

淨土行人先信佛力、爲順佛願而行念佛故屬他力也。

浄土の行人は先ず仏力を信じ、仏願に順ぜんが為に而も念仏を行ず、故に他力に属するなり。

自強他弱、他強自弱思之可知、水陸二道譬意自―顯也。

自は強く他は弱しと、他は強く自は弱きとこれを思てしるべし、水陸二道譬の意おのずか顕わるなり。

乘佛願力者 即指第十八念佛往生願。

乗仏願力とは即ち第十八念仏往生の願を指す。

例すれば、聖道門は自力が90%で他力が10%であり、浄土門は他力が90%で自力が10%であるというのであるから、御開山の示された100%の本願力回向の法義と違うのである。

浄土宗名目問答 弁長 浄土宗名目問答の抜粋

問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。

問ふ。有る人の云く。數遍はこれ自力なり、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。

一念是他力也 他力是易行道也。易行道乘船水路 安樂其身 於往生速得之此義如何。

一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。

答。此事極僻也。其故 云他力者 全馮他力 一分無自力事 道理不可然。

答ふ。この事、極たる僻ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。

云雖無自力善根 依他力得往生者 一切凡夫之輩 于今不可留穢土 皆悉可往生淨土。又一念他力數遍自力者 何人師釋耶。

自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。 また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。

善導釋中 有自力他力義 無自力他力釋。一念他力數遍自力釋難得意。

善導の釈の中に自力の他力の義あれども、自力他力の釈無し。一念は他力数編は自力の釈こころ得がたし。

又善導釋中 云以水陸譬難易二道 其釋未見。

また善導の釈の中に、水陸のたとえをもって難易二道と云えること、その釈いまだ見えず。

但曇鸞導綽二師 以水陸譬難易二道。

ただ曇鸞・道綽の二師、水陸をもって難易二道にたとふ。

又雖作自力他力釋 其又以一念 爲易行道 以數遍爲難行道 釋全所不作也。

また自力他力の釈をなすといえども、それまた一念をもって易行道となし、数偏をもって難行道となすという釈まったく作さざりしなり。