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「苦」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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武内義範師は、著『親鸞と現代』の「苦への洞察」で、
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[[JWP:武内義範|武内義範]]師は、著『親鸞と現代』の「苦への洞察」で、
  
: [[四諦]]は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまず苦ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。 ([[hwiki:無明と業─親鸞と現代|無明と業─親鸞と現代]])
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: [[四諦]]は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち[[無明]]だといわれている。四つの真理のうちでまず[[苦]]ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。 ([[hwiki:無明と業─親鸞と現代|無明と業─親鸞と現代]])
  
と、「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている」云々とされているのだが、我々は、煩悩の背後にある無明を見つめる力が劣ってきているのかも知れないと思ふ。
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と、「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている」云々とされているのだが、我々は、煩悩の背後にある無明を見つめる力が劣ってきているのかも知れないと思ふ。それは、必ず来る厳然たる死の前で、自我としての「存在の不安」について考察したこともない現代人の宗教的無知であった。
  
 
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2020年11月7日 (土) 23:59時点における最新版

武内義範師は、著『親鸞と現代』の「苦への洞察」で、

 四諦は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまずということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。 (無明と業─親鸞と現代)

と、「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている」云々とされているのだが、我々は、煩悩の背後にある無明を見つめる力が劣ってきているのかも知れないと思ふ。それは、必ず来る厳然たる死の前で、自我としての「存在の不安」について考察したこともない現代人の宗教的無知であった。