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「行不退」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「御開山は「龍樹讃」に、 :不退のくらゐすみやかに ::えんとおもはんひとはみな ::恭敬の心に執持して ::弥陀の名号称すべし ...」)
 
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::弥陀の名号称すべし  ([[高僧和讃#no6|高僧 P.579]])
 
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とあり、〔恭敬の心に執持して〕は、[[信不退]]、〔弥陀の名号称すべし〕は、[[行不退]]をあらわしている。『十住毘婆沙論』「易行品」に、
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とされ、〔恭敬の心に執持して〕は、[[信不退]]、〔弥陀の名号称すべし〕は、[[行不退]]をあらわしている。『十住毘婆沙論』「易行品」に、
 
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:〈もし人疾く'''[[不退転]]地'''に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。もし菩薩、この身において'''[[阿惟越致]]地'''に至ることを得、[[阿耨多羅三藐三菩提]]を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。([[十住毘婆沙論 (七祖)#P--6|十住毘婆沙論 P.6]]) [[顕浄土真実行文類#no15|(行巻P.152で引文)]]
 
:〈もし人疾く'''[[不退転]]地'''に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。もし菩薩、この身において'''[[阿惟越致]]地'''に至ることを得、[[阿耨多羅三藐三菩提]]を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。([[十住毘婆沙論 (七祖)#P--6|十住毘婆沙論 P.6]]) [[顕浄土真実行文類#no15|(行巻P.152で引文)]]

2017年12月23日 (土) 22:33時点における版

御開山は「龍樹讃」に、

不退のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし  (高僧 P.579)

とされ、〔恭敬の心に執持して〕は、信不退、〔弥陀の名号称すべし〕は、行不退をあらわしている。『十住毘婆沙論』「易行品」に、

〈もし人疾く不退転に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。もし菩薩、この身において阿惟越致に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。(十住毘婆沙論 P.6) (行巻P.152で引文)

とあるように、不退転に至るには「恭敬の心(信)」と「執持名号(行)」をあげられている。この「易行品」の行と信を示す文は御開山の現生正定聚説の根拠の一つでもある。 →正定聚
覚如上人は、称名を強調する鎮西浄土宗に対抗するために信心を力説し称名を軽視する傾向があり、そのような意もあって信を強調するために「信楽両座」の一段を記されたのであろうが、御開山がこのような信の座と行の座を明確に分判する挙に出られるとは領解しがたい逸話である。