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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(第七章 八選択と三選の文意)
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特に「名を称うれば、必ず生を得る」という「必得」がただ如来の誓願においてのみ成立する事柄であるとすれば、それは仏の本願の権威によってのみ断言することの許される命題だったのである。それが次の「依仏本願故」という一句があらわしている意味であった。「順彼仏願故」にせよ「依仏本願故」にせよ、それは宗教的には、己れを空しくして本願に依順し、[[chu:信順|信順]]する信をあらわしていた。{{DotUL|本願を信ずるとは、願事である「称名必得生」を信受することであり、その信は、必得生の行たる'''称名の実践'''となって具現していく。}} それが本願に包摂されて'''念仏道'''を歩む[[chu:真仏弟子|真仏弟子]]の信行の相なのである<ref>真仏弟子は『散善義』深心釈(真聖全一・五三四頁)に三遺三随順をもって釈顕されている。すなわち「又深信者、仰願一切行者等、一心唯信仏語、不顧身命、決定依行、仏遺捨者即捨、仏遺行者即行、仏遺去処即去。是名随順仏教、随順仏意、是名随順仏願、是名真仏弟子」といわれている。後に親鸞は「信文類」(真聖全二・七五頁)に真仏弟子釈をもうけて詳釈されていく。追記◇: また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。</ref>。
 
特に「名を称うれば、必ず生を得る」という「必得」がただ如来の誓願においてのみ成立する事柄であるとすれば、それは仏の本願の権威によってのみ断言することの許される命題だったのである。それが次の「依仏本願故」という一句があらわしている意味であった。「順彼仏願故」にせよ「依仏本願故」にせよ、それは宗教的には、己れを空しくして本願に依順し、[[chu:信順|信順]]する信をあらわしていた。{{DotUL|本願を信ずるとは、願事である「称名必得生」を信受することであり、その信は、必得生の行たる'''称名の実践'''となって具現していく。}} それが本願に包摂されて'''念仏道'''を歩む[[chu:真仏弟子|真仏弟子]]の信行の相なのである<ref>真仏弟子は『散善義』深心釈(真聖全一・五三四頁)に三遺三随順をもって釈顕されている。すなわち「又深信者、仰願一切行者等、一心唯信仏語、不顧身命、決定依行、仏遺捨者即捨、仏遺行者即行、仏遺去処即去。是名随順仏教、随順仏意、是名随順仏願、是名真仏弟子」といわれている。後に親鸞は「信文類」(真聖全二・七五頁)に真仏弟子釈をもうけて詳釈されていく。追記◇: また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。</ref>。
  
 速やかに生死を出離しようと思う行者が、[[chu:聖道門|聖道]]を<kana>閣(さしお)</kana>き、[[chu:雑行|雑行]]を捨て、[[chu:助業|助業]]をさしおいて、称名一行を必得往生の行法として選びとっていくきびしい求道のありさまは、そのまま行者が己れを空しくして如来の選択本願に依順していくすがたをあらわしていたのである。そのことは、いいかえれば三選は、[[chu:法蔵菩薩|法蔵菩薩]]の'''選択称名の本願'''が行者の上で再現されつつ実現していく相であったといえよう。一往いえば三選の選びの主体は行者にちがいないが、選択本願に気づいたとき、選びの真の主体は、もはや行者ではなくて、如来であり、選択本願そのものであると転換していく。如来の選択本願が真の主体として行者の上に確立するということは、本願の内容である「称名必得生」が、行者の信念となっていくことである。このようなことがらの主体的現成<ref>追記◇: 現成(げんじょう)。現前成就の意。眼前に出現していること。自然にできあがっていること。</ref> を[[chu:回心|回心]]というのである。三選の文は、まさに法然の宗教的回心の構造を明らかにしたものでもあったのである<ref>『本論』第二篇第一章「法然聖人における回心の構造」第九節(二〇一頁)參照。</ref>。後に親鸞が、法然の教化によって[[chu:回心|回心]]された状況を『教行証文類』後序に自ら語って「然愚禿釈鸞、建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願」{{SH3|no13|しかるに愚禿釈の鸞、建仁<kana>辛酉(かのとのとり)</kana>の<kana>暦(れき)</kana>、雑行を棄てて本願に帰す。}} といわれたのも、雑行を捨てて、念仏を選びとることが、本願に帰するという絶対の[[chu:信順|信順]]においてのみ成立する事柄であることを表わしておられるのである。<ref>◇追記:「雑行を棄てて」の対義語ならば「正行に帰す」であろうが「本願に帰す」とされておられる。ここで御開山は「称名必得生、依仏本願故」の選択本願念仏の「[[chu:行|行]]」と「[[chu:信|信]]」に[[chu:信順|信順]]されていたことがわかる。それはまさに、法然聖人の回心の原点である「是名正定之業、順彼仏願故」の「'''仏願故'''」と軌を一にしているのであった。</ref>
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 速やかに生死を出離しようと思う行者が、[[chu:聖道門|聖道]]を<kana>閣(さしお)</kana>き、[[chu:雑行|雑行]]を捨て、[[chu:助業|助業]]をさしおいて、称名一行を必得往生の行法として選びとっていくきびしい求道のありさまは、そのまま行者が己れを空しくして如来の選択本願に依順していくすがたをあらわしていたのである。そのことは、いいかえれば三選は、[[chu:法蔵菩薩|法蔵菩薩]]の'''選択称名の本願'''が行者の上で再現されつつ実現していく相であったといえよう。一往いえば三選の選びの主体は行者にちがいないが、選択本願に気づいたとき、選びの真の主体は、もはや行者ではなくて、如来であり、選択本願そのものであると転換していく。如来の選択本願が真の主体として行者の上に確立するということは、本願の内容である「称名必得生」が、行者の信念となっていくことである。このようなことがらの主体的現成<ref>追記◇: 現成(げんじょう)。現前成就の意。眼前に出現していること。自然にできあがっていること。</ref> を[[chu:回心|回心]]というのである。三選の文は、まさに法然の宗教的回心の構造を明らかにしたものでもあったのである<ref>『本論』第二篇第一章「法然聖人における回心の構造」第九節(二〇一頁)參照。</ref>。後に親鸞が、法然の教化によって[[chu:回心|回心]]された状況を『教行証文類』後序に自ら語って「然愚禿釈鸞、建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願」{{SH3|no13|しかるに愚禿釈の鸞、建仁<kana>辛酉(かのとのとり)</kana>の<kana>暦(れき)</kana>、雑行を棄てて本願に帰す。}} といわれたのも、雑行を捨てて、念仏を選びとることが、本願に帰するという絶対の[[chu:信順|信順]]においてのみ成立する事柄であることを表わしておられるのである。<ref>◇追記:「雑行を棄てて」の対義語ならば「正行に帰す」であろうが「本願に帰す」とされておられる。ここで御開山は「称名必得生、依仏本願故」の本願に選択された念仏の「[[chu:行|行]]」と「[[chu:信|信]]」に[[chu:信順|信順]]されていたことがわかる。それはまさに、法然聖人の[[回心]]の原点である「是名正定之業、順彼仏願故」の「'''仏願故'''」と軌を一にしているのであった。</ref>
  
 
===第三節 偏依善導と造由の縁由===
 
===第三節 偏依善導と造由の縁由===

2019年11月11日 (月) 10:38時点における版

法然教学の研究/第一篇/第七章 八選択と三選の文意

第七章 八選択と三選の文意

第一節 八選択の釈意

 『選択集』第十六「慇付章」(*) は、他の章と異って引文についての私釈がなく、上来のべてきた十六章全体の法義を「選択」の二字にしぼり、それを八選択として収約する、いわば総結の釈がおかれている[1]。すなわち浄土三部経は諸行の中から念仏を選択することに帰結するとして、『大経』に三種の選択が、『観経』に三種の選択が、『小経』に一種の選択が示されているといい、さらに本説中にはなかったが『般舟三昧経』に一種の選択があるから、都合八選択が示されていることがわかるといわれるのである。

先ず『大経』によれば、念仏は阿弥陀仏によって諸行を選捨して、選取された選択本願の行であった。この「選択本願」を明かしたのが「本願章」(*) である。釈尊はその本願の意をうけて、諸行は小利有上と選び捨て、念仏のみを選んで一念大利無上功徳と讃嘆された。この「選択讃嘆」を明かしたのが「利益章」(*) である。かかる本願の行であり、無上功徳の法門であるから、釈尊は諸経が滅尽する末法万年の後までも念仏を選んで特留すると宣言された。この「選択留教」を明かしたのが「特留章」(*) である。次に『観経』によれば、弥陀の心光は、余行のものを照摂せず、本願に報いてただ念仏の行者を選んで摂取されると説かれている。この「選択摂取」の義を明かしたのが「摂取章」(*) である。また下品上生には、来迎された弥陀の化仏が、聞経等の非本願の雑行をさしおいて本願行たる念仏のみを選んで讃嘆されたという。この「選択化讃」の義を明かしたのが「化讃章」(*) である。ことに付属のところでは、釈尊は、自ら開説した定散諸行を非本願の故をもって廃捨して付属せず、本願の意に順じて本願行たる念仏のみを選択して付属された。この「選択付属」の意義を明かしたのが「付属章」(*) であった。また『小経』には、六方恒沙の諸仏が悉く本願行たる念仏を選んで証誠されると説かれている。この「選択証誠」の義を明かしたのが「証誠章」(*) である。さらに正依の三部経のみならず一巻本の『般舟三昧経』には、

菩薩於此間国土、念阿弥陀仏、専念故得見之、即問、持何法得生此国、阿弥陀仏報言、欲来生者、当念我名、莫有休息、則得来生[2]「隠/顕」
菩薩この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問いたてまつれ。いかなる法を持ちてかこの国に生ずることを得ると。
 阿弥陀仏報(こた)へてのたまはく、来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、すなはち来生することを得ん。

とあり、阿弥陀仏自ら「当(常)念我名」(まさに(常に) わが名を念ずべし。)と名号を選択されている。この「選択我名」を加えた八選択をもって、選択念仏の義が開顕されていることがわかる。これを仏に約してみれば、選択本願、選択摂取、選択化讃、選択我名の四種は阿弥陀仏の選択であり、選択讃嘆、選択留教、選択付属の三種は釈迦の選択であり、選択証誠は諸仏の選択であることがわかる。

 かくて法然は、

然則釈迦、弥陀及十方各恒沙等諸仏、同心選択念仏一行、余行不爾、故知三経共選念仏以為宗致耳。「隠/顕」
しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

と結ばれる。こうして念仏往生は釈迦、弥陀、十方の諸仏が同心に選択された三仏随自意の法門であり、浄土三部経は、この選択念仏を宗致とする経典だったのである。ところで釈迦、諸仏の選択といっても、それは阿弥陀仏の本願の意に順じて、本願の行法を讃嘆し、留教し、付属し、証誠するのであるからその根源は阿弥陀仏の選択本願に帰する。又弥陀の摂取も化讃も選択本願の成就相であるから、要するに八選択は選択本願の一つに収まる。十六章にわたって、三仏の八選択を明かし、それによって念仏往生の宗義を確立されたこの書を『選択本願念仏集』と名づけられた所以である。

 ところで『三部経大意』の終わりに『小経』の法義を要約して、

(もし)またこれを信ずれば、たゞ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所説を信ずるなり。釈迦の所説を信ずれば、六方恒沙の諸仏の所説を信ずるなり。一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるなり。この信ひろくして広大の信心也[3](*)

といわれている。この『三部経大意』には、選択という用語は使われていないが、念仏一行が弥陀、釈迦、諸仏の本意であることを顕わされたもので、その心は『選択集』と同じである。特に最後の「この信ひろくして広大の信心也」といわれたものは、親鸞が「化身土文類」に「良勧既恒沙勧、信亦恒沙信」「隠/顕」まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。[4]といわれたものと照応しているようにみえる。尚「三経共選念仏以為宗致」「隠/顕」三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。 といわれた『選択集』の文意を、親鸞は「是以三経真実、選択本願為宗也」「隠/顕」ここをもつて三経の真実は、選択本願をとするなり。 [5] と伝承されている。また『愚禿鈔』上に、『大経』と『観経』の上に十六選択があると釈出されたのも、明らかに法然を承けて展開されたものである[6]

第二節 三選の文意

 こうして浄土三部経の旨帰が、選択本願念仏にあることを八選択をもって説明されたあと、法然は『選択集』十六章を、八十三字に要約される。それが有名な「三選の文」とか「略選択」とよばれるものである。

計也、夫速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門、選入浄土門、欲入浄土門、正雑二行中、且抛諸雑行、選応帰正行、欲修於正行、正助二業中、猶傍於助業、選応専正定、正定之業者、即是称仏名、称名必得生、依仏本願故[7]「隠/顕」
はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を(さしお)きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行(なげす)てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業(かたわ)らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

 この三選の文は、聖道門を(さしお)いて、浄土門を選びとる第一選と、雑行(なげう)って正行を選びとる第二選と、助業(かたわら)にして正定業を選びとる第三選と、「称名必得生、依仏本願故「隠/顕」名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。 と宗因を成ずる二句とに分けることができる。

 この三選の文が、第一章、第二章、第三章をうけていることはいうまでもないが、両者の配当については古来異説がある。良忠の『決疑鈔』五[8] や、存覚の『註解鈔』五[9] には、第一選は「二門章」(教相章)、第二選以下はすべて「二行章」にあたり、「本願章」はその全体を根拠づけているものとされている。柔遠の『錐指録』七[10] は、第一選は「二門章」、第二選は「二行章」、第三選以下は「本願章」とみている。行観の『選択集秘鈔』五[11] は、第一選は「二門章」、第二選、第三選は「二行章」、最後の二句は「本願章」に配当されている。
 思うに第一選は「二門章」の意によって捨聖帰浄を勧められたものであり、第二、第三選は、「二行章」の意によって、往生行を簡択し、称名一行を正定業として専修すべきことを勧められたものであるとすべきであろう。それをうけて「称名必得生(しょうみょう-ひっとくしょう)」という宗義を確立し、その根拠を選択本願に求めて「依仏本願故(えぶつ-ほんがんこ)」と結ばれたところは、「本願章」の義意によっているといわねばならない。こうして三選の文と照応すると、『選択集』の宗義は、前三章に尽されていることが領解できる。ことに第二章と第三章が相俟って「選択本願念仏」の義意があきらかになるわけであるから、この二章がこの集の肝要であるとみるべきである。

 ところで古来、第二章と第三章のどちらが今集の中心であるかという議論がおこなわれてきた。先ず「二行章」中心説は、古くは良忠の『決疑鈔』五[12] が唱え、深励の『選択集講義』にも「二行章ニ明ストコロガ今集一部ノ肝要」[13] であるといっている。「本願章」中心説は、古くは行観の『選択集秘鈔』一に「第一第二序重、第三正宗分、第四已下流通意料簡」「隠/顕」第一第二は序の重、第三は正宗分、第四已下は流通の意と料簡す。[14] といっているのが自ずから第三章中心説になる。又慧雲の『通津録』一に「初二則為本願章之楷梯也」「隠/顕」初めの二は則ち本願章の為の楷梯なりといわれたものもそれである[15]。それらと少し異るのが了祥の『昨非鈔』二の説で、

章段ヲ分別スルニ、畢竟二門二行ハ所立也、三経選択ハ能立也、所立ニヨラバ二行肝要ナリ、能立ニヨレバ本願肝要也。順彼仏願故偏ニトリカタカルベシ、但シイマコノ集、(なまじいに)述念仏要義ノ書ニシテ、元祖制作ノ前ヨリハ、能立ニヨリテ本願章肝要トイフベシ。順彼仏願故ノ文、フカク心ニトメ、(たましい)ニソメタマフヨリ起ル此集ナレバ、題ニモ選択本願ヲ能別ノ言トシテ、念仏集トオキタマへリ。但シ、シヒテコレヲイハバ害ヲ成ズベシ、一往能成ノ手前ニヨリテ、コレヲイフ耳[16]

といって、どちらかといえば第三章中心説であるが、ほぼ中間的な説である。また僧朗の『戌寅記』一は、「二行章」、「本願章」の二章中心説を立てている[17]

 各説それぞれに意味深いものがあるが、今はしばらく了祥の説に従う。すなわち「二行章」の結論は「称名必得生」ということに帰するし、「本願章」の所顕は「依仏本願故」にきわまる。この両者は論理的にいえば結論()と理由(因)の関係にあるから、了祥のいわゆる所立と能立にあたる。独立した浄土宗の宗義を表示するときは、「称名必得生」すなわち念仏往生の旗幟を鮮明にしなければならないから「二行章」に力点がおかれる。しかしすでにのべたように、選択本願という用語を用いて阿弥陀仏の本願の性格を明確にし、諸行と念仏の廃立を根源から極成することによって、念仏往生義を不動のものたらしめられたところに、『選択本願念仏集』述作の意義があったとみなければならない。その意味で、「二行章」と「本願章」は切り離すことはできないが、どちらかといえば、選択本願を開顕された「本願章」を中心にみるべきであろう。

 さて「称名必得生(しょうみょう-ひっとくしょう)依仏本願故(えぶつ-ほんがんこ)「隠/顕」称名は必ず生ずることを得る、仏の本願によるが故に。は『散善義』の「是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう)順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)「隠/顕」これを正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に。 をより的確に表現されたものであるが、それを実践的にみるならば、の関係をあらわしているといえよう。「称名必得生」という念仏往生を裏づけているのが、「依仏本願故」の信心であり、仏の本願に依順する信は、称名行として具現していくからである。『選択集』は決して客観的な教学理論を構築するために書かれたものではなかった。法然自身が生きておられる念仏往生の信行の世界を理論的に表現したものであると同時に、これを読む人々に厳しい宗教的決断を迫る信仰と実践の書であった。そのことは、何よりもこの三選の文が示している。速やかに生死を離れんと欲するものは、全存在をかけて聖道門(さしお)きて浄土門を選びとり、雑行(なげう)って正行を選びとり、助業(かたわ)らにさしおいて正定業たる念仏一行を選び取れといわれるのである[18]。この場合、選びの主体は、どこまでも願生行者である。しかしその選びがもし行者の恣意的な、偶然的な選びに止まるならば、決して決定心はおこりえない。人間の選びには誤謬がつきものであり、選びの基準となる価値観もたえず動揺するからである。従って三重の選びも、それがもし凡夫のはからいであるならば、常に不安と動揺がつきまとい、決して「称名必得生」と断定する定言命題は成立しないはずである。「称名必得生」とは、如来が本願において一切の余行を選び捨てて、念仏の一行のみを選び取り、正定業と選び定めて、「若不生者 不取正覚」「隠/顕」もし生ぜずは、正覚を取らじ。と誓願されたという、まさにその本願の願事としてある事柄なのである。
特に「名を称うれば、必ず生を得る」という「必得」がただ如来の誓願においてのみ成立する事柄であるとすれば、それは仏の本願の権威によってのみ断言することの許される命題だったのである。それが次の「依仏本願故」という一句があらわしている意味であった。「順彼仏願故」にせよ「依仏本願故」にせよ、それは宗教的には、己れを空しくして本願に依順し、信順する信をあらわしていた。本願を信ずるとは、願事である「称名必得生」を信受することであり、その信は、必得生の行たる称名の実践となって具現していく。 それが本願に包摂されて念仏道を歩む真仏弟子の信行の相なのである[19]

 速やかに生死を出離しようと思う行者が、聖道(さしお)き、雑行を捨て、助業をさしおいて、称名一行を必得往生の行法として選びとっていくきびしい求道のありさまは、そのまま行者が己れを空しくして如来の選択本願に依順していくすがたをあらわしていたのである。そのことは、いいかえれば三選は、法蔵菩薩選択称名の本願が行者の上で再現されつつ実現していく相であったといえよう。一往いえば三選の選びの主体は行者にちがいないが、選択本願に気づいたとき、選びの真の主体は、もはや行者ではなくて、如来であり、選択本願そのものであると転換していく。如来の選択本願が真の主体として行者の上に確立するということは、本願の内容である「称名必得生」が、行者の信念となっていくことである。このようなことがらの主体的現成[20]回心というのである。三選の文は、まさに法然の宗教的回心の構造を明らかにしたものでもあったのである[21]。後に親鸞が、法然の教化によって回心された状況を『教行証文類』後序に自ら語って「然愚禿釈鸞、建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願」「隠/顕」しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉(かのとのとり)(れき)、雑行を棄てて本願に帰す。 といわれたのも、雑行を捨てて、念仏を選びとることが、本願に帰するという絶対の信順においてのみ成立する事柄であることを表わしておられるのである。[22]

第三節 偏依善導と造由の縁由

 こうして『選択集』は、法然自身の回心の原点に立ちつつ、その浄土教学を「称名必得生、依仏本願故「隠/顕」名を称えれば必ず生ずることを得、仏の本願に依るが故に。 という簡潔無比の法句をもって結んでいかれたが、このような選択本願念仏の世界へ法然を導いたものは、何よりも善導の『観経疏』であった。それゆえ上来の所説はすべて善導の指南によって浄土三部経の仏意を領解するという方法をとって来られたのである。そこで最後に問答をもうけて、「偏依善導一師」の意義を明らかにせられる。第一問答では、華厳、天台、真言、禅門、三論、法相等の各宗の諸師も、浄土法門の章疏を造って浄土教を顕彰されてはいるが、いずれも聖道門をもって宗としていて、聖道門中の方便道としての浄土教を示されているに過ぎないから、それには依らず、(ひと)へに浄土を宗とされた善導一師に偏依(へんね)するのであるといわれている。第二問答では、迦才、慈愍等の浄土の祖師も多いが、善導の如く三昧発得して、道において証ある人はいないから、依用しないといわれる。第三問答では、三昧発得の故に依るというのならば、懐感になぜ依らないかと問い、懐感は善導の弟子であるから、師に依って弟子には依らない。また懐感の釈には、師の善導と相違する処が甚だ多いから用いられないといわれる。もちろんこの二つの理由の中では、後者が主たる理由である[23]。第四問答では、もし師に依って弟子に依らずというのならば、善導の師の道綽に何故依らないのかと問う。それに対して「道綽禅師是雖師、未発三昧故、自不知往生得否」「隠/顕」道綽禅師はこれ師なりといへども、いまだ三昧を発さず。ゆゑにみづから往生の得否を知らず。 といって『新修往生伝』[24] によって、善導が入定して道綽に往生の得否を教えたといい、「爰知、善導和尚者、行発三昧、力堪師位、解行非凡将是暁矣」「隠/顕」ここに知りぬ。善導和尚は行、三昧を発し、(つと)め、師の位に堪へたり。解行凡に非ず、まさにこれ(あき)らかし。 [25] といって、善導は師の道綽をも超えているから、(ひと)へに善導一師に依るのであるといわれている。

 次いで善導の『観経疏』は、霊瑞を感じ、聖化に預ってあらわされた証定の疏であって、経法の如く貴ばるべきものであることを『散善義』後述の文を引いて明かし、

静以、善導観経疏者、是西方指南、行者目足也、然則西方行人、必須珍敬矣。就中毎夜夢中有僧指授玄義、僧者恐是弥陀応現、爾者可謂此疏是弥陀伝説。何況大唐相伝云、善導是弥陀化身也、爾者可謂又此文是弥陀直説、既云欲写者一如経法、斯言誠乎。仰討本地者四十八願之法王也、十劫正覚之唱、有憑于念仏、俯訪垂迹者、専修念仏之導師也。三昧正受之語、無疑于往生、本迹雖異化導是一也[26]「隠/顕」
静かにおもんみれば、善導の『観経の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり。しかればすなはち西方の行人、かならずすべからく珍敬すべし。就中、毎夜に夢のうちに僧ありて、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ弥陀の応現なり。しかればいふべし、この『疏』はこれ弥陀の伝説なりと。いかにいはんや、大唐にあひ伝へていはく、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。しかればいふべし、またこの文はこれ弥陀の直説なり。すでに「写さんと欲はば、もつぱら経法のごとくせよ」(散善義)といふ、この言誠なるかなや。仰ぎて本地を討(たず)ぬれば、四十八願の法王(阿弥陀仏)なり。十劫正覚の唱へ、念仏に(たの)みあり。俯して垂迹(とぶら)へば、専修念仏の導師(善導)なり。三昧正受の語、往生に疑なし。本迹異なりといへども化道これ一なり。

と口を極めて讃嘆されている。法然にとって善導は弥陀の垂迹 応化身であり、『観経疏』は弥陀の直説だったのである。従って『観経疏』によって浄土三部経の幽意を釈顕することは、仏語によって、仏語を釈し、仏意を開顕することにほかならなかったのである。

 ついでこうした聖典に遇うことを得たことのよろこびをのべて、

於是貧道、昔披閲茲典、粗識素意、立舎余行云帰念仏、自其已来至于今日、自行化他、唯縡念仏、然間希問津者、示以西方通津、適尋行者、誨以念仏別行、信之者多、不信者尠、当知浄土之教、叩時機、而当行運也、念仏之行、感水月而得昇降也[27]「隠/顕」
ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を()る。立ちどころに余行を(とど)めてここに念仏に帰す。それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を(こと)とす。しかるあひだ(まれ)に津を問ふものには、示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬるものには、(おし)ふるに念仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは(すく)なし。まさに知るべし。浄土の教、時機を叩きて行運に当れり。念仏の行、水月を感じて昇降を得たり

といわれる。遠く四十三歳のとき黒谷において『観経疏』によって、本願念仏の真実義を信知せしめられたことを想起しつつ、それ以来自行化他たゞ念仏に生きてきたと述懐し、しかもその自行化他をとおして、この法門の時機相応性をいよいよ深く確認するようになったと絶大の自信のほどを披瀝される。

 最後に藤原兼実命旨に従ってこの書を述作することになったと造書の因縁をのべて、

而今不図蒙仰、辞謝無地、仍今憖集念仏要文、剰述念仏要義、唯顧命旨、不顧不敏、是即無慚無愧之甚也、庶幾一経高覧之後、埋于壁底、莫遺窓前、恐為不令破法之人、堕於悪道也[28]「隠/顕」
しかるにいま図らざるに仰せを蒙る。辞謝するに地なし。よりていまなまじひに念仏の要文を集めて、あまつさへ念仏の要義を述ぶ。ただし命旨を顧みて不敏を顧みず。これすなはち無慚無愧のはなはだしきなり。庶幾(こいねが)はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に(のこ)すことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

といって巻を閉じていかれる。それにしても「埋于壁底、莫遺窓前」「隠/顕」壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。といわれたところに、一つにはこの書のもつ革命的な思想史的意味をだれよりも法然自身が知悉しておられたことがわかる。二つには、それゆえに従来の聖道門的な思想を絶対のものと考えている人々にとっては、この書は悪魔の書の如く見えるにちがいない。彼等は必ず選択本願を誹謗し、念仏者を迫害するという破法の罪を犯し、悪道に堕するにいたるであろう。それを懸念して、この書は、時がくるまで公開しないようにと配慮されているわけである。さきにあげた「鎌倉の二位の禅尼に答ふる書」に「(おほよそ)縁あさく往生の時いたらぬものは、きけども信ぜず、念仏のものをみればはらだち、声を聞ていかりをなし、悪事なれども、経論にもみえぬことを申也……あながちに信ぜざらむ人をば、御すゝめ候べからず」[29] といわれたものとあわせ考えるべきである。

 事実法然は、この書を公開することをいましめ、深く信頼を寄せる少数の弟子にだけ秘かに伝授されたようである。たとえば隆寛の弟子でもあった信瑞の『明義進行集』二には、隆寛への選択相伝をのべて、

慇懃ノ教訓ヲ蒙ルコト数十ケ度ナリ、ヤウヤクニスヽミテ数遍六万返ニナリニキ、然間(しかるあいだ) 元久元年三月十四日、コマツトノノ御堂ノウシロニシテ、上人フトコロヨリ選択集ヲ取出シテ、ヒソカニサツケ給フコトハニイハク、コノ書ニノスル処ノ要文等ハ、善導和尚ノ浄土宗ヲタテタマヘル肝心ナリ、ハヤク書写シテ披読ヲフヘシ、モシ不審アラハ、タツネ給ヘト、タヽシ源空カ存生ノ間ハ披露アルヘカラス、死後ノ流行ハナムノコトカアラムト、コレヲモチカヘリテ、隆寛ミツカラフテヲソム、イソキ功ヲオエムカタメニ、三ツニヒキハケテ、尊注昇蓮ニ助筆セサセテ、オナシキ廿六日ニ書写シオハテ、本ヲハ返書シテ、シツカニ披読スルニ、不審アレハ、カナラス上人ノ許ヘ参シテ、ヒラキヽ[30]、然レハマサシク選択集ヲ付属セラレタルモノハ隆寛ナリト云云。[31]

といわれている。尚ここには「元久元年三月十四日」に伝授されたとなっているが、『法然上人伝法絵』下(高田本)には「元久三年七月、吉水をいでて、小松殿におはしましける時……権律師隆寛、こまつどのへいられたりけるに、御堂のうしろどにて、上人一巻の書を持て、隆寛のふところにおしいれ給ふ。月輪殿の仰によりてつくり給へる選択集これなり」[32] とあり、元久三年七月以降のことになっている。田村円澄氏は、これは『明義進行集』が、元久三年を元年に読み誤ったものであろう、隆寛が元久二年二月に権律師に任ぜられていることがその傍証となるといわれている。[33]

 また弁長は『徹選択集』上に、法然から『選択集』を伝授されたときの模様を次のように語っている。

上人又告言、有我所造之書、所謂選択本願念仏集是也。欲以此書秘伝汝也、……已造此書畢、以進殿下、殿下告上人言、今此書浄土宗之奥義也。上人在世之時従禅室草庵勿令披露、大師入滅之後、従博陸槐門可弘通之、源空雖蒙此炳誡、露命難定、今日不知死、明日不知死、故以此書、密付属汝、勿及外聞云云。爰弟子某甲、低頭挙手合掌恭敬、跪以賜之畢、歓喜余身、随喜留心[34]「隠/顕」
上人また告げて言く、我が所造の書あり、いわゆる選択本願念仏集これ也。この書をもって秘かに汝に伝えんと欲す也、……すでにこの書を造りおわりて、もって殿下に進ず、殿下上人に告げて言く、今この書は浄土宗の奥義也。上人在世の時 禅室草庵より披露することなかれ、大師入滅の後、博陸槐門よりこれを弘通す、源空この炳誡を蒙るといへども、露命定め難く、今日死せんも知らず、明日死せんも知るべからず、故にこの書をもつて、密かに汝に付属す、外聞に及ぶことなかれと云云。ここに弟子某甲、低頭挙手合掌恭敬して、(ひざまずき)てもってこれを賜りおわんぬ、歓喜身に余り、随喜心に留まる。

 これによっても、『選択集』が人を選んでひそかに伝授されていたことがわかる。「浄土随聞記」には、勢観房源智が『選択集』を授けられたもようを、

又一時師召予言曰、汝見選択集否、予対曰、未見、師曰、此我所述、汝当見之、我生存間、不欲流布、故未許他焉[35]「隠/顕」
また一時師(われ)を召して言いて曰く、汝 選択集を見るや否や、予(こた)えて曰く、未だ見ず、師曰く、これは我の所述なり、汝これを見るべし、我 生存の間には、流布することを欲せず、故に未だ他に許さざる。

というふうに伝えている。ところが、同じ源智の聞書をもとにして成立していると考えられる醍醐本『法然上人伝記』には、

或時云、汝有選択集云文知否、不知云由、此文我作文也。汝可見之、我存生之間、不可流布之由禁之、故人々秘之、依之以成覚房本写之 [36]「隠/顕」
ある時に云く。汝、『選択集』と云ふ文有るを知るや否や。知らざるの由を云ふ。この文は我が作れる文なり、汝これを見るべし。我れ存生の間は流布すべからずの由これを禁ぜむ。ゆゑに人々これを秘す。これに依って成覚房の本を以ってこれを写す。

といい、法然から『選択集』を伝授されたが、その本は、成覚房幸西が筆写したものであったといわれている。又「人々秘之」といっている所からみて、伝授を受けた人々はいずれも秘蔵していたことがわかるのである。

 親鸞は『教行証文類』後序に、元久二年四月十四日、法然から親しく『選択集』を授けられたのみならず、内題と標宗の文、それに「釈綽空」と願主の名を法然の自筆をもってしたためられたといわれている。さらに同日、法然の真影を図画することを許され、閏七月二十九日、出来あがった真影に、法然みずから銘を書き、また同日「綽空」を改めた新しい法名(善信)[37] を真筆をもって書き与えられたといわれている。

元久乙丑歳、蒙恩恕兮書選択、同年初夏中旬第四日、選択本願念仏集内題字、并南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本、与釈綽空字、以空真筆令書之。同日空之真影申預奉図画、同二年閏七月下旬第九日、真影銘、以真筆令書南無阿弥陀仏、与若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生之真文。又依夢告、改綽空字、同日以御筆、令書名之字畢、本師聖人、今年七旬三御歳也。選択本願念仏集者、依禅定博陸月輪殿兼実法名円照之教命、所令撰集也。真宗簡要、念仏奥義、摂在于斯、見者易論、誠是希有最勝之華文、无上甚深之宝典也。渉年渉日、蒙其教誨之人雖千万、云親云疎、護此見写之徒甚以難、爾既書写製作、図画真影、是専念正業之徳也、是決定往生之徴也。仍抑悲喜之涙、註由来之縁[38]「隠/顕」
元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまふ。また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ。本師聖人(源空)今年は七旬三の御歳なり。 『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴(しるし)なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。

 ここにも、その教誨を受けたものは千万もいるが、『選択集』の見写を許されたものは、極めて少人数であったことがわかる。またその見写を許されたことを専念正業の徳であり、決定往生の(しる)しであるとまでいわれているところに『選択集』伝授がただごとでなかったことを知るのである。まさに師弟一味の(しる)しと感佩されているもようが鮮やかにうかがわれる。


脚 註:

  1. 『選択集』(真聖全一・九八九頁)、なお八選択は、すでに「阿弥陀経釈」(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二四頁)に同様に述べられている。
  2. 『般舟三昧経』(一巻本)(大正蔵一三・八九九頁)、なお現存の『般舟三昧経』は「当念我名」となっているが、法然は「常念我名」とある本に依られたのであろう
  3. 『三部経大意』専修寺本(真聖全四・七九九頁)、なお金沢文庫本(真宗学報一七・七七頁)や、『和語灯』一所収の「三経釈」(真聖全四・五六四頁)には「諸仏ヲ信スレハ、一切法ヲ信スルニナル、一切法ヲ信スレハ、一切ノ菩薩ヲ信スルニナル」となっている。
  4. 「化身土文類」真門章(真聖全二・一五七頁)
  5. 「同右」要門章(同右・一五三頁)
  6. 『愚禿鈔』上(真聖全二・四五六頁)
  7. 『選択集』三選文(真聖全一・九九〇頁)、この「三選の文」もすでに「阿弥陀経釈」(古本『漢語灯』三・古典叢書本・二五頁)に全く同文で示されている。すでにのべたように、二門章、二行章、本願章をはじめ、八選択からこの三選の文にいたるまで、『選択集』の法義のほとんどが、すでに文治六年(一一九〇)の「三経釈」の頃にはできあがっていたことがわかるのである。
  8. 『選択伝弘決疑鈔』五(浄全七・三四三頁)
  9. 『選択註解鈔』五(真聖全五・二二九頁)
  10. 『選択集錐指録』七(真全一九・一五〇頁)
  11. 『選択集秘鈔』五(浄全八・四三二頁)
  12. 『決疑鈔』五(浄全七・三四三頁)
  13. 『選択集講義』一(二九頁)
  14. 『選択集秘鈔』一(浄全八・三四二頁)に「第一第二章段、釈念仏料理也、其故第一先不分通別位、釈師資相承之面、分難易二道、言捨聖道帰浄土、選択位也。第二付此浄土、分通別、捨通所求、選別所求、付善導一師心地、釈五祖各別重選択位也。故以此二重料理、為序分之重也。此上第三選択念仏法体故正宗分心地也。従第四三輩念仏章、釈顕上本願念仏事故、第四已下流通分心地料簡也。是西山之相伝義也」といっている。追記◇ 第一第二の章段は、念仏を釈する料理也、その故は第一はまず通別を分かたざる位にて、師資相承の面を釈するに、難易二道を分けて、聖道を捨てて浄土に帰すと言ふ、選択の位也。第二はこの浄土に付いて、通別を分け、通所求を捨て、別所求を選びて、善導一師の心地に付て、五祖各別の重を釈する選択の位也。故にこの二重の料理をもつて、序分の重とする也。この上に第三は念仏の法体を選択する故に正宗分の心地也。第四の三輩念仏の章よりは、上の本願念仏の事を釈顕する故に、第四已下は流通分の心地と料簡する也。これ西山の相伝の義也。
  15. 『選択集通津録』一(真全一八・四〇三頁)
  16. 『選択集昨非鈔』二(真全一九・二二四頁)
  17. 『選択集戌寅記』一(真叢六・六二〇頁)
  18. 親鸞は『尊号真像銘文』末(広本)(真聖全二・五九六頁)に、「正助二業中猶傍助業」を釈して、「助業をさしおくべしと也」といわれる。安心門で正定の業因を定めるときには助業は非本願行の故に「さしおき」廃捨されねばならないのである。
  19. 真仏弟子は『散善義』深心釈(真聖全一・五三四頁)に三遺三随順をもって釈顕されている。すなわち「又深信者、仰願一切行者等、一心唯信仏語、不顧身命、決定依行、仏遺捨者即捨、仏遺行者即行、仏遺去処即去。是名随順仏教、随順仏意、是名随順仏願、是名真仏弟子」といわれている。後に親鸞は「信文類」(真聖全二・七五頁)に真仏弟子釈をもうけて詳釈されていく。追記◇: また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
  20. 追記◇: 現成(げんじょう)。現前成就の意。眼前に出現していること。自然にできあがっていること。
  21. 『本論』第二篇第一章「法然聖人における回心の構造」第九節(二〇一頁)參照。
  22. ◇追記:「雑行を棄てて」の対義語ならば「正行に帰す」であろうが「本願に帰す」とされておられる。ここで御開山は「称名必得生、依仏本願故」の本願に選択された念仏の「」と「」に信順されていたことがわかる。それはまさに、法然聖人の回心の原点である「是名正定之業、順彼仏願故」の「仏願故」と軌を一にしているのであった。
  23. 追記:◇ 懐感禅師は元々は唯識系の学問をしていたのだが善導大師の教化を受けて浄土教徒になった。そして懐感禅師は唯識思想と浄土教とを融合しようとして、唯識思想を以て浄土教を理解しようとしていた。そこで法然聖人は、懐感禅師を「いはんや師資の釈、その相違はなはだ多し。ゆゑにこれを用ゐず」とされたのである。
  24. 王古の『新修往生伝』は、序と上巻、下巻は現存し『続浄土宗全書』一六に収録されている。しかし善導伝が出ている中巻は散佚して現存しない。ただ法然の「類聚五祖伝」(古本『漢語灯』九・古典叢書本・二〇頁)に善導伝を収録されているので見ることができる。
  25. 『選択集』(真聖全一・九九一頁)
  26. 『同右』(同右・九九三頁)
  27. 『同右』(同右・九九三頁)
  28. 『同右』(同右・九九三頁)
  29. 「鎌倉の二位の禅尼に答ふる書」(『指南抄』中末・真聖全四・一七一頁)
  30. ◇追記:ヒラキキ。ひたすら聞く。
  31. 『明義進行集』二、隆寛伝(法然伝全・一〇〇一頁)
  32. 『法然上人伝法絵』下(高田本)(法然伝全・五一四頁)、尚これと同じ記事が『法然聖人絵』四(弘願本)(法然伝全・五三八頁)に出ている。
  33. 田村円澄『法然上人伝の研究』(二五一頁)
  34. 『徹選択集』上(浄全七・九六頁)
  35. 「浄土随聞記」(『拾遺語灯』上・真聖全四・七〇二頁)
  36. 醍醐本『法然上人伝記』(法然伝全・七七九頁)
  37. 『六要鈔』六(真聖全二・四四〇頁)には「言令書名之字畢者、善信是也」といい、このとき、綽空を改名して新しく名のるようになったのは「善信」であるといわれている。:追記◇ 名の字を書かしめたまひをはんぬといふは、善信これなり。
  38. 『教行証文類』後序(真聖全二・二〇二頁)