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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 一念義と多念義のこと。一念義とは、[[浄土]][[往生]]は信心ひとつで<kana>決定(けつじょう)</kana>する、またはひと声の<kana>[[称名]](しょうみょう)</kana>で決定するとし、その後の称名を軽視する説。<br />
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 これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終<kana>来迎(らいこう)</kana>をまって往生が決定するとする説。[[親鸞聖人]]在世の頃、[[法然]]門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを一念多念の<kana>諍論(じょうろん)</kana>という。
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 これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終<kana>来迎(らいこう)</kana>をまって往生が決定するとする説。[[親鸞聖人]]在世の頃、[[法然]]門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを一念多念の<kana>[[諍論]](じょうろん)</kana>という。
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一念義と多念義のこと。またこれらをめぐる教学論争を一念多念の諍論などという。<br />
 
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一念義は浄土往生は信心ひとつで決定する、または一声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する。<br />
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一念義は浄土往生は信心ひとつで決定する、または一声の称名で決定するとし、その後の[[称名]]を軽視する。<br />
多念義は、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって浄土往生が決定すると主張する。一念義と多念義の論争は、法然の存命中からみられ、その示寂後も続いた。法然の門下である隆寛は『一念多念分別事』を著して、一念や多念に偏執してはならないと諭した。親鸞の門下にもこの論争が生じており、親鸞は、[[隆寛]]の『一念多念分別事』を注釈した『一念多念文意』を著し、また『御消息』第41通([[消息下#no41|消息 P.804]])などで、一念多念の争いが誤りであることを示している。(浄土真宗辞典)
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多念義は、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって浄土往生が決定すると主張する。一念義と多念義の論争は、法然の存命中からみられ、その示寂後も続いた。法然の門下である[[隆寛]]は『一念多念分別事』を著して、一念や多念に偏執してはならないと諭した。親鸞の門下にもこの論争が生じており、親鸞は、[[隆寛]]の『一念多念分別事』を注釈した『一念多念文意』を著し、また『御消息』第41通([[消息下#no41|消息 P.804]])などで、一念多念の争いが誤りであることを示している。(浄土真宗辞典)
 
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法然聖人は、御開山が記述された『西方指南抄』で、称名の一多について、
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法然聖人は、『和語灯録』「禅勝房にしめす御詞」で、称名の一多について、
:信おば一念に生るととり、行おば[[一形]]をはげむべし。 ([[hwiki:西方指南抄/下本#P--216|西方指南抄/下本p.216]])
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と、信の一念と行の多念の念仏の相続について語られておられた。<br />
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:又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
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:かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは[[一形]]にはげむべし。([[hwiki:和語灯録#P--633|『和語灯録』禅勝房にしめす御詞]])
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と、'''「[[信]]」'''と'''「[[行]]」'''について述べておられた。[[一念]](一声)で往生するのだと信に固執し、多念相続の念仏(行)を粗略にすることは、「信」が「行」の相続を妨げることである。また、一念(一声)の念仏では往生にとって不足だと不安に思い、多念の念仏に執着することは、「行」が「信」を妨げるのだとされていた。そして正統の浄土門の領解は、信を一念に生まれると決定し行(念仏)を多念に相続するのが本意であるとされておられた。→'''[[行信不離]]'''<br />
 
御開山は『一念多念文意』で、一念に関する要文を十三文引証し多念に関する要文を八文引証され、その結論として、
 
御開山は『一念多念文意』で、一念に関する要文を十三文引証し多念に関する要文を八文引証され、その結論として、
:これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。 ([[一多#no22|一多 P.694]])
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と、一念や多念に固執するのではなく念仏往生であるとされておられた。
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と、一念や多念に固執するのではなく'''[[念仏往生]]'''であるとされておられた。<br />
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源信僧都の師である慈慧大師良源は『極楽浄土九品往生義』で、第十八願の十念の語に着目し「聞名信樂十念定生願」とされていた[[hwiki:三生果遂|(*)]]。<br />
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これに対して法然聖人は、[[第十八願]]の乃至十念の十念という数に固執するのではないとして「[[念仏往生の願]]」とされた。([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1214|選択集 P.1214]]) 御開山はこの意を承けて「信巻」で、[[第十八願]]の信心を釈し、
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[[Category:追記]]

2019年12月7日 (土) 22:25時点における版

いちねん-たねん

 一念義多念義のこと。一念義とは、浄土往生は信心ひとつで決定(けつじょう)する、またはひと声の称名(しょうみょう)で決定するとし、その後の称名を軽視する説。
 これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終来迎(らいこう)をまって往生が決定するとする説。親鸞聖人在世の頃、法然門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを一念多念の諍論(じょうろん)という。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

一念多念

一念義と多念義のこと。またこれらをめぐる教学論争を一念多念の諍論などという。
一念義は浄土往生は信心ひとつで決定する、または一声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する。
多念義は、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって浄土往生が決定すると主張する。一念義と多念義の論争は、法然の存命中からみられ、その示寂後も続いた。法然の門下である隆寛は『一念多念分別事』を著して、一念や多念に偏執してはならないと諭した。親鸞の門下にもこの論争が生じており、親鸞は、隆寛の『一念多念分別事』を注釈した『一念多念文意』を著し、また『御消息』第41通(消息 P.804)などで、一念多念の争いが誤りであることを示している。(浄土真宗辞典)

法然聖人は、『和語灯録』「禅勝房にしめす御詞」で、称名の一多について、

又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。(『和語灯録』禅勝房にしめす御詞)

と、について述べておられた。一念(一声)で往生するのだと信に固執し、多念相続の念仏(行)を粗略にすることは、「信」が「行」の相続を妨げることである。また、一念(一声)の念仏では往生にとって不足だと不安に思い、多念の念仏に執着することは、「行」が「信」を妨げるのだとされていた。そして正統の浄土門の領解は、信を一念に生まれると決定し行(念仏)を多念に相続するのが本意であるとされておられた。→行信不離
御開山は『一念多念文意』で、一念に関する要文を十三文引証し多念に関する要文を八文引証され、その結論として、

これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。 (一多 P.694)

と、一念や多念に固執するのではなく念仏往生であるとされておられた。

源信僧都の師である慈慧大師良源は『極楽浄土九品往生義』で、第十八願の十念の語に着目し「聞名信樂十念定生願」とされていた(*)
これに対して法然聖人は、第十八願の乃至十念の十念という数に固執するのではないとして「念仏往生の願」とされた。(選択集 P.1214) 御開山はこの意を承けて「信巻」で、第十八願の信心を釈し、

この心すなはちこれ念仏往生の願第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。(信巻 P.211)

と、念仏往生の願とされた所以である。

大行
大信
安心門
起行門

参照WEB版浄土宗大辞典の「一念多念」の項目
参照WEB版浄土宗大辞典の「一念業成・多念業成」の項目