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「三帰依」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 仏・法・僧の<kana>[[三宝]](さんぼう)</kana>に帰依すること。略して三帰ともいう。 ([[往生要集下巻 (七祖)#P--1065|要集 P.1065]]、[[往生要集下巻 (七祖)#P--1104|要集 P.1104]]、[[往生要集下巻 (七祖)#P--1137|要集 P.1137]])
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と、あるように仏・法・僧の三宝に帰依することは、凡夫の定義の一つに「畏怖心の去らぬ者」[[怖畏|(*)]] とある、びくびくおどおどしながら暮らしている者への、安らからな心の置き所を示す仏教徒の宗教規範である。
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と、あるように仏・法・僧の三宝に帰依することは、凡夫の定義の一つに'''[[怖畏|「畏怖心の去らぬ者」]]''' とある、びくびくおどおどしながら暮らしている者への、安らからな心の置き所を示す仏教徒の宗教規範である。
 
:ブッダッム・サラナム・ガッチャーミ
 
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::私は仏陀に帰依いたします。
 
::私は仏陀に帰依いたします。
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:サンガッム・サラナム・ガッチャーミ
 
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::私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。
 
::私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。
という帰依三宝は、インド以来の仏教徒の伝統である。在家教団である浄土真宗においては、戒律のない有髪[[剃除鬚髪|(*)]]の坊さんの煩悩充満する僧団([[僧伽]])に帰依するという示唆は、いささか困難のように門徒には思える。しかし、浄土真宗の坊さんが本物の阿弥陀如来の「法」を説くのならば、御開山が「御消息」([[消息上#no10|消息 P.756]])で仰る通り、
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という帰依三宝は、インド以来の仏教徒の伝統である。在家教団である[[浄土真宗]]においては、戒律のない有髪[[剃除鬚髪|(*)]]の坊さんの煩悩充満する僧団([[僧伽]])に帰依するという示唆は、いささか困難のように門徒には思える。しかし、浄土真宗の坊さんが本物の阿弥陀如来の「法」を説くのならば、御開山が「御消息」([[消息上#no10|消息 P.756]])で仰る通り、
 
:三宝といふは、一には仏宝、二には法宝、三には僧宝なり。いまこの浄土宗は仏宝なり。
 
:三宝といふは、一には仏宝、二には法宝、三には僧宝なり。いまこの浄土宗は仏宝なり。
 
と、三宝に言及されておられるので 住持の三宝として領解してもいいのだろうと思ふ。ともあれ仏宝である阿弥陀仏のお勧めは、我が名を称えよという、なんまんだぶの法である。
 
と、三宝に言及されておられるので 住持の三宝として領解してもいいのだろうと思ふ。ともあれ仏宝である阿弥陀仏のお勧めは、我が名を称えよという、なんまんだぶの法である。
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<kana>人身(にんじん)</kana>受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。此の身<kana>今生(こんじょう)</kana>において<kana>度(ど)</kana>せずんば、さらにいずれの<kana>生(しょう)</kana>においてかこの身を<kana>度(ど)</kana>せん。<kana>大衆(だいしゅう)</kana>もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
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無上<kana>甚深(じんじん)</kana><kana>微妙(みみょう)</kana>の法は、百千万<kana>劫(ごう)</kana>にも<kana>遭遇(あいお)</kana>うこと難し。我いま<kana>見聞(けんもん)</kana>し<kana>受持(じゅじ)</kana>することを得たり。願わくは<kana>如来(にょらい)</kana>の真実義を<kana>解(げ)</kana>したてまつらん。
 
無上<kana>甚深(じんじん)</kana><kana>微妙(みみょう)</kana>の法は、百千万<kana>劫(ごう)</kana>にも<kana>遭遇(あいお)</kana>うこと難し。我いま<kana>見聞(けんもん)</kana>し<kana>受持(じゅじ)</kana>することを得たり。願わくは<kana>如来(にょらい)</kana>の真実義を<kana>解(げ)</kana>したてまつらん。
 
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:→[[三宝]]
 
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2019年11月27日 (水) 03:32時点における最新版

さんきえ

 三宝(さんぼう)に帰依すること。略して三帰ともいう。 (要集 P.1065要集 P.1104要集 P.1137)

 三帰戒のこと。 →三帰戒(さんきかい) (要集 P.1107)

 
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

三宝 →帰依

「真仏土巻」(真巻 P.343)に、『涅槃経』四相品を引かれて、

仏、迦葉に告げたまはく、〈善男子、一切衆生、生死怖畏するがゆゑに三帰を求む。三帰をもつてのゆゑに、すなはち仏性決定涅槃とを知るなり。〉

と、あるように仏・法・僧の三宝に帰依することは、凡夫の定義の一つに「畏怖心の去らぬ者」 とある、びくびくおどおどしながら暮らしている者への、安らからな心の置き所を示す仏教徒の宗教規範である。

ブッダッム・サラナム・ガッチャーミ
私は仏陀に帰依いたします。
ダンマッム・サラナム・ガッチャーミ
私は法(真理)に帰依いたします。
サンガッム・サラナム・ガッチャーミ
私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。

という帰依三宝は、インド以来の仏教徒の伝統である。在家教団である浄土真宗においては、戒律のない有髪(*)の坊さんの煩悩充満する僧団(僧伽)に帰依するという示唆は、いささか困難のように門徒には思える。しかし、浄土真宗の坊さんが本物の阿弥陀如来の「法」を説くのならば、御開山が「御消息」(消息 P.756)で仰る通り、

三宝といふは、一には仏宝、二には法宝、三には僧宝なり。いまこの浄土宗は仏宝なり。

と、三宝に言及されておられるので 住持の三宝として領解してもいいのだろうと思ふ。ともあれ仏宝である阿弥陀仏のお勧めは、我が名を称えよという、なんまんだぶの法である。

なお、この三帰依は大乗仏教の興起にともない、以下のように大乗菩薩の目指すべき綱目となった。

三帰依文(大方広仏華厳経巻六 淨行品第七)
自歸於佛 當願衆生 體解大道 發無上意
自ら佛に帰せば、まさに願うべし衆生、大道を體解して、無上の意を發さんと。
自歸於法 當願衆生 深入經藏 智慧如海
自ら法に帰せば、まさに願うべし衆生、深く経蔵に入り、智慧 海のごとくならんと。
自歸於僧 當願衆生 統理大衆 一切無礙
自ら僧に帰せば、まさに願うべし衆生、大衆を統理して、一切無礙ならんと。

大正新脩大藏經テキストデータベース 国訳

  • 大谷派では、説教の前に以下の三帰依文を布教使とともに皆で誦している/いた。
三帰依文

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。此の身今生(こんじょう)において()せずんば、さらにいずれの(しょう)においてかこの身を()せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

 自ら(ぶつ)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(だいどう)体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)(おこ)さん。

 自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(うみ)のごとくならん。

 自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆(だいしゅう)統理(とうり)して、一切無碍(むげ)ならん。

無上甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万(ごう)にも遭遇(あいお)うこと難し。我いま見聞(けんもん)受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来(にょらい)の真実義を()したてまつらん。

三宝