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三恒河沙の諸仏

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年10月18日 (水) 09:55時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

さんごうがしゃのしょぶつ

 恒河沙(ガンジス河の砂)を三倍したほどの数の諸仏。『安楽集』(上)所引の『涅槃経』の文(註釈版聖典七祖篇187頁11行以下)によっていう。(正像 P.603, 唯文 P.713)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『安楽集』「発心の久近」で、

 第三に大乗の聖教によりて、衆生の発心の久近、供仏の多少を明かすとは、『涅槃経』(意)にのたまふがごとし。
「仏、迦葉菩薩に告げたまはく、〈もし衆生ありて、熙連半恒河沙等の諸仏の所において菩提心を発せば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいて、この大乗経典を聞きて誹謗を生ぜず。
{─中略─}
もし三恒河沙等の仏の所において菩提心を発すことあれば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいてこの法を謗ぜず、経巻を書写し、人のために説くといへども、いまだ深義を解らず〉」と。
なにをもつてのゆゑにかくのごとき教量を須ゐるとならば、今日坐下にして経を聞くものは、曾(むかし)すでに発心して多仏を供養せることを彰さんがためなり。 (安楽集 P.187)

とあり、現在、法を聞解できるのは、過去世に無数の諸仏の出現に値(あ)い、その一仏一仏の前で菩提心を発したからだとする。

御開山は、この意を『唯信鈔文意』では、

 おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。 ( 唯文 P.713)

と、自力の菩提心のお育てを感佩しておられる。同時に、阿弥陀仏以外の仏・菩薩を軽蔑したり、余の善を謗ってはならないとされておられる。過去世において、ガンジス河の砂の数を三倍したほどの無数の仏陀たちに出あい、自力の菩提心を発し恒沙の善根を修してきたからこそ、ただいま、本願他力の救いをはからいなく受け入れることの出来る身になったといわれるのである。

しかし、ご和讃では、『唯信鈔文意』と少しく違い、そのような長い間、煩悩具足の凡夫として流転したのは自力の菩提心であったからだとし、すみやかに本願である阿弥陀如来の菩提心に依るべきだとされている。

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり (正像 P.603)

つまり、ガンジス河の砂の数を三倍したほどの仏陀に出あうほどの久遠の時間がかかったということは、自力に囚われて阿弥陀如来の選択本願念仏の教えを聞かず、雑行を修し自力に固執していたからであるとされる。『唯信鈔文意』では過去のお育てを慶ばれているのだが、ご和讃では、三恒河沙の諸仏に出あいながら、いまなお凡夫でいるのは、よほど自分の罪業が深かったせいだと慙愧されておられるのであろう。いわゆる機の深信である。
また、『御消息』に、

世々生々に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死を出でずありしゆゑに、曠劫多生のあひだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまゐらせて候ふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだに申さんは、ふかき御恩をしらず候ふべし。 (消息 P.786)

と、「よろづの善を修行せしかども、自力にては生死を出でずありし」とあり、自力の善行を否定しておられる。
いわゆる覚如上人が提唱し、蓮如さんが盛んに用いられた宿善論の立場で見れば、『唯信鈔文意』は両師の意に近く、ご和讃や『御消息』は宿善の否定である。もっとも、梯實圓和上が『聖典セミナー 口伝鈔』で、

宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。(*)

と喝破なさったように、遇法の因縁とは、

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。 (総序 P.132)

と、あるように「遇獲行信 遠慶宿縁(たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ)」の「宿縁」──阿弥陀仏が遠くはてしない昔から、衆生を救済しようという誓願をたてたのこと──の出来事であったというべきだろう。その意味においては、浄土真宗では自力の行信と他力(本願)の行信を論ずるべきであり、御開山が用いられなかった宿善云々の論議は不毛であるともいえるだろう。
『歎異抄』の著者が「耳の底に留むる」という御開山の述懐である、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。 (歎異抄 P.832)

とある「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」の、本願に選択された他力の〔なんまんだぶ〕を往生の業因と信順するご法義であった。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…… ありがたいこっちゃ。


参考

『涅槃経』の三恒河沙の部分の抜粋。

若有衆生於三恒河沙等佛所發菩提心。然後乃能於惡世中不謗是法。受持讀誦書寫經卷雖爲他説未解深義。

もし衆生、三恒河沙等の佛の所において、菩提心を發すこと有れば、しかして後にすなわちよく惡世中において、この法を謗ぜず、經卷を受持し讀誦し書寫して、他のために説くといへども、いまだ深義を解せず。

『涅槃経』では、三恒河沙等の数の仏の所(みもと)で自力(聖道)の菩提心を発して修行してきても、なお仏法の奥深い義理は解からないということ。一恒河沙や二恒河沙等では、正解し信楽し受持し読誦しても、他の人のために説くは出来ないとされている。

ノート:三恒河沙の諸仏