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「不断煩悩得涅槃」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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と、浄土は三界を勝過した阿弥陀仏の願力による清浄功徳なる世界であるから、煩悩成就の凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を[[正受]]して往生すれば煩悩を断ぜずして涅槃の[[分斉]]を得るとする。御開山は、この文を「証巻」[[証巻#no9|p.310]]と「真仏土巻」[[真巻#no23|p.357]]や『入出二門偈』[[入出二門偈#P--549|p.549]]、『浄土文類聚』[[浄土文類聚鈔#P--497|p.497]] 等々で引文されておられる。<br />
 
と、浄土は三界を勝過した阿弥陀仏の願力による清浄功徳なる世界であるから、煩悩成就の凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を[[正受]]して往生すれば煩悩を断ぜずして涅槃の[[分斉]]を得るとする。御開山は、この文を「証巻」[[証巻#no9|p.310]]と「真仏土巻」[[真巻#no23|p.357]]や『入出二門偈』[[入出二門偈#P--549|p.549]]、『浄土文類聚』[[浄土文類聚鈔#P--497|p.497]] 等々で引文されておられる。<br />
また「正信念仏偈」で「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」[[行巻#釈迦章|p.203]] とされて、本願に対する信心一発すれば煩悩を断じないままで、煩悩を持ったままで涅槃を得ることが出来るとされておられる。→[[涅槃分]]<br />
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また「正信念仏偈」で「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」[[行巻#釈迦章|p.203]] とされて、本願に対する信心一発すれば煩悩を断じないままで、煩悩を持ったままで往生し涅槃を得ることが出来るとされておられる。→[[涅槃分]]<br />
 
 この「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という文は、以下に示す『維摩詰所説経(維摩経)』が出拠であり、ここでは本当の修行とは、煩悩を惹起するおそれのない清閑な処で修行(宴坐:座禅)するのではなく、市井の、世間の悪縁が群がっている煩悩の渦巻く中にあって、心身がビクとも動かないことが、煩悩を断ぜずして、涅槃に入る(不断煩悩而入涅槃)という本当の修行だ、と在家居士の維摩に語らしめている。たんに煩悩を断ずるのではなく、煩悩の只中にあって涅槃を得ることが真の仏道だというのである。『維摩経』は初期大乗に属する経典だが、煩悩を滅却することを目指すエリート仏教から、煩悩はただ捨てるのではなく、その意味を転じ煩悩をエネルギーとしてさとりへ向かおうという大乗仏教の精神にあふれた経典でもあった。<ref>マハトマ・ガンジーには、「私は、苦い経験を通じて、最高の教訓をひとつ学んだ。怒りをコントロールするということだ。蓄えられた熱がエネルギーに変わるように、抑制された怒りを、世界を動かす力に変えることができる。」といふ言葉がある。</ref><br />
 
 この「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という文は、以下に示す『維摩詰所説経(維摩経)』が出拠であり、ここでは本当の修行とは、煩悩を惹起するおそれのない清閑な処で修行(宴坐:座禅)するのではなく、市井の、世間の悪縁が群がっている煩悩の渦巻く中にあって、心身がビクとも動かないことが、煩悩を断ぜずして、涅槃に入る(不断煩悩而入涅槃)という本当の修行だ、と在家居士の維摩に語らしめている。たんに煩悩を断ずるのではなく、煩悩の只中にあって涅槃を得ることが真の仏道だというのである。『維摩経』は初期大乗に属する経典だが、煩悩を滅却することを目指すエリート仏教から、煩悩はただ捨てるのではなく、その意味を転じ煩悩をエネルギーとしてさとりへ向かおうという大乗仏教の精神にあふれた経典でもあった。<ref>マハトマ・ガンジーには、「私は、苦い経験を通じて、最高の教訓をひとつ学んだ。怒りをコントロールするということだ。蓄えられた熱がエネルギーに変わるように、抑制された怒りを、世界を動かす力に変えることができる。」といふ言葉がある。</ref><br />
 
曇鸞大師と御開山は、この『維摩経』の本来の意を御存じであったがあえて意を転じて、凡夫は煩悩を持ったままで浄土へ往生し、涅槃に入ることが出来るとされたのであった。このように読めるのは『無量寿経』下巻で、<br />
 
曇鸞大師と御開山は、この『維摩経』の本来の意を御存じであったがあえて意を転じて、凡夫は煩悩を持ったままで浄土へ往生し、涅槃に入ることが出来るとされたのであった。このように読めるのは『無量寿経』下巻で、<br />

2020年7月3日 (金) 09:20時点における版

ふだん-ぼんのう-とくねはん

 不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)。(改邪鈔 P.944,正信大意 P.1027)


『論註』の「荘厳清浄功徳成就」で、

荘厳清浄功徳成就とは、偈に「観彼世界相 勝過三界道」といへるがゆゑなり。
これいかんが不思議なる。凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。 (論註 P.111)

と、浄土は三界を勝過した阿弥陀仏の願力による清浄功徳なる世界であるから、煩悩成就の凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を正受して往生すれば煩悩を断ぜずして涅槃の分斉を得るとする。御開山は、この文を「証巻」p.310と「真仏土巻」p.357や『入出二門偈』p.549、『浄土文類聚』p.497 等々で引文されておられる。
また「正信念仏偈」で「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃(よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり)」p.203 とされて、本願に対する信心一発すれば煩悩を断じないままで、煩悩を持ったままで往生し涅槃を得ることが出来るとされておられる。→涅槃分
 この「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という文は、以下に示す『維摩詰所説経(維摩経)』が出拠であり、ここでは本当の修行とは、煩悩を惹起するおそれのない清閑な処で修行(宴坐:座禅)するのではなく、市井の、世間の悪縁が群がっている煩悩の渦巻く中にあって、心身がビクとも動かないことが、煩悩を断ぜずして、涅槃に入る(不断煩悩而入涅槃)という本当の修行だ、と在家居士の維摩に語らしめている。たんに煩悩を断ずるのではなく、煩悩の只中にあって涅槃を得ることが真の仏道だというのである。『維摩経』は初期大乗に属する経典だが、煩悩を滅却することを目指すエリート仏教から、煩悩はただ捨てるのではなく、その意味を転じ煩悩をエネルギーとしてさとりへ向かおうという大乗仏教の精神にあふれた経典でもあった。[1]
曇鸞大師と御開山は、この『維摩経』の本来の意を御存じであったがあえて意を転じて、凡夫は煩悩を持ったままで浄土へ往生し、涅槃に入ることが出来るとされたのであった。このように読めるのは『無量寿経』下巻で、

かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。 〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」(大経 P.54)  (信巻 P.254 で引文)

という「横に五悪趣()り、悪趣自然に閉ぢ(横截五悪趣 悪趣自然閉)」の、阿弥陀仏の願力自然の文の意によって「不断煩悩得涅槃」の文を読み解かれたからであろう。


『維摩詰所説経(維摩経)』の弟子品以下では、

一切の衆生()むを以っての故に、我()む。もし一切の衆生の病滅すれば、すなわち我が病も滅す(以一切衆生病是故我病。若一切衆生病滅則我病滅)。(菩薩の病

と、一切の衆生の生死の苦悩を病に譬えて、維摩が病を示現する。神通力でこの維摩の病を知られた釈尊が、舎利弗以下、大目揵連、大迦葉、須菩提等々の弟子(声聞)や、菩薩を見舞いに遣わそうとされるのだが、それぞれ過去に維摩に痛い目にあっているので見舞いを固辞する。いわゆる煩悩を断じて自己だけのさとりを目指す小乗仏教から「一切衆生()むをもって 是の故に我れ()む」という大乗仏教の理想を高らかにうたう初期の経典が『維摩経』である。このゆえに釈尊の弟子で智慧第一とされた声聞の舎利弗は『維摩経』に於いては、狂言まわしの役を演じさせられるのであった。


維摩詰所説経 弟子品第三(『大正蔵』一四、五三九頁)

爾時長者維摩詰自念。寝疾于床。世尊大慈寧不垂愍。

その時、長者維摩詰(ゆいまきつ)、自ら(おも)えり。「()みて床に()ぬ。世尊の大慈、なんぞ(あわれ)みを垂れたまわざらんや」と。

仏知其意。即告舎利弗。汝行詣維摩詰問疾。

仏はその意を知ろしめして、すなわち舍利弗に告げたまわく、「汝、維摩詰に行詣して、(やまい)を問え」。

舎利弗白仏言。世尊。我不堪任詣彼問疾。

舍利弗、仏に(もう)して(もう)さく、「世尊よ、我は(かしこ)(いた)りて、疾を問うに堪任せず。

所以者何。憶念我昔曽於林中宴坐樹下。

所以(ゆえん)はいかんとなれば、憶念するに、我、(むかし)()つて林中に於いて、樹下に宴坐(えんざ)(座禅)せり。

時維摩詰来謂我言。

時に、維摩詰来たりて、我に()いて言わく、

唯舎利弗。不必是坐為宴坐也。夫宴坐者。不於三界現身意。是為宴坐。不起滅定而現諸威儀。是為宴坐。

《唯、舍利弗よ、必ずしも、この坐は宴坐と為さざるなり。それ宴坐とは、三界に於いて、身と意とを現ぜざる、これを宴坐と為す。起たず滅定して、しかも諸の威儀を現ずる、これを宴坐と為す。

不捨道法而現凡夫事。是為宴坐。心不住内亦不在外。是為宴坐。於諸見不動而修行三十七品。是為宴坐。

道法を捨てずして、しかも凡夫の事を現ずる、これを宴坐と為す。心、内に住せず、また外に在らざる、これを宴坐と為す。諸見に於いて動ぜずして、しかも三十七品を修行する、これを宴坐と為す。

不断煩悩而入涅槃。是為宴坐。

煩悩を断ぜずして、涅槃に入る、これを宴坐と為す。

若能如是坐者。仏所印可。時我世尊。聞説是語黙然而止不能加報。故我不任詣彼問疾。

もし、よく、かくの如く坐する者は、仏の印可したもう所なり》と。
時に我、世尊よ、この語を説くを聞き、黙然として止み、(こたえ)を加うること能わざりき。故に、我、(かしこ)に詣りて疾を問うに()えず」と。
維摩経

『維摩経』の国訳は、つばめ堂通信さんのページが有用である。ぜひ訪問されたし。


  1. マハトマ・ガンジーには、「私は、苦い経験を通じて、最高の教訓をひとつ学んだ。怒りをコントロールするということだ。蓄えられた熱がエネルギーに変わるように、抑制された怒りを、世界を動かす力に変えることができる。」といふ言葉がある。