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「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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::舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説して、この言をなしたまはく、〈釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなし、よく娑婆国土の五濁悪世の劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの 衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ〉と。
 
::舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説して、この言をなしたまはく、〈釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなし、よく娑婆国土の五濁悪世の劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの 衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ〉と。
 
:舎利弗、当知我於、五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法。是為甚難。
 
:舎利弗、当知我於、五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法。是為甚難。
::舎利弗、まさに知る べし、われ五濁悪世において、この難事を行じて阿耨多羅三藐三菩提を得て、 一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚難となす。([[小経#P--128|小経 P.128]])
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::舎利弗、まさに知る べし、われ五濁悪世において、この難事を行じて阿耨多羅三藐三菩提を得て、 一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚難となす。
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:仏、説此経已、舎利弗及諸比丘、一切世間天・人・阿修羅等、聞仏所説、歓喜、信受、作礼而去。
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::仏、この経を説きたまふこと已りて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きて、歓喜し、信受して、礼をなして去りにき。([[小経#P--128|小経 P.128]])
 
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と、『阿弥陀」の「一日、もしは二日……七日」の称名行は、易行であるから「[[一切世間難信の法]]」であるとする<ref>なんまんだぶを称える行は易行中の易行であるから「一切世間難信の法」なのである。「信巻」横超の特絶を示して、「律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」とある。([[信巻本#no54|信巻 P.248]])</ref>。<br />
 
と、『阿弥陀」の「一日、もしは二日……七日」の称名行は、易行であるから「[[一切世間難信の法]]」であるとする<ref>なんまんだぶを称える行は易行中の易行であるから「一切世間難信の法」なのである。「信巻」横超の特絶を示して、「律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」とある。([[信巻本#no54|信巻 P.248]])</ref>。<br />

2020年2月7日 (金) 15:29時点における版

ごじょくぞうじたぎほう どうぞくそうけんふようもん けんうしゅぎょうきしんどく ほうべんはえきょうしょうおん

 「五濁増の時は多く疑謗し、道俗あひ嫌ひて聞くことを用いず。修行することあるを見ては瞋毒を起こし、方便破壊して競ひて怨を生ず」 (消息 P.787)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

方便破壊
大地微塵劫

善導大師の『阿弥陀経』の注釈書である『法事讃』にある文。『阿弥陀経』の流通分に、

舎利弗、如我今者称讃諸仏不可思議功徳、彼諸仏等亦、称説我不可思議功徳、而作是言、釈迦牟尼仏、能為甚難希有之事、能於娑婆国土五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁中、得阿耨多羅三藐三菩提、為諸衆生、説是一切世間難信之法。
舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説して、この言をなしたまはく、〈釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなし、よく娑婆国土の五濁悪世の劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの 衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ〉と。
舎利弗、当知我於、五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法。是為甚難。
舎利弗、まさに知る べし、われ五濁悪世において、この難事を行じて阿耨多羅三藐三菩提を得て、 一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚難となす。
仏、説此経已、舎利弗及諸比丘、一切世間天・人・阿修羅等、聞仏所説、歓喜、信受、作礼而去。
仏、この経を説きたまふこと已りて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きて、歓喜し、信受して、礼をなして去りにき。(小経 P.128)

と、『阿弥陀」の「一日、もしは二日……七日」の称名行は、易行であるから「一切世間難信の法」であるとする[1]
この『阿弥陀経』がまさに終わらんとするとき、釈尊が娑婆国土の五濁悪世の中で一切世間難信の法(なんまんだぶ)を説かれたことに由来する。

世尊説法時将了 慇懃付嘱弥陀名
五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞
見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身
大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁 (法事讃 P.576)

〔読み下し〕

世尊法を説きたまふこと、時まさに 了(おわ)りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。
五濁増の時は多く疑謗し、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。
修行(なんまんだぶ)することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教(本願の教え)を毀滅して永く沈淪す。
大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。
大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ。『法事讃』p.576

 この文は、念仏往生の願によって、なんまんだぶを称えて浄土へ往生し、仏のさとりを開くことを目指す浄土教を誹謗中傷する輩に、なんまんだぶを称える行をそしるべきではない。もし、そしる者がいるなら、その者は生死流転の世界を流転し続けて、微塵劫を経ても苦悩の闇から出ることは出来ない、と戒めたものである。法然聖人はじめ門弟の間では、なんまんだぶの成仏法を誹謗中傷する輩に、なんまんだぶの法をそしるとこのような罪の報いがありますと法然聖人門下でよく依用された文である。

御開山が『正像末和讃」で、
(13)

五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり (正像 P.602)

(14)

菩提をうまじきひとはみな
 専修念仏にあだをなす
 頓教毀滅のしるしには
 生死の大海きはもなし (正像 P.602)

とされるのも、その意であろう。御開山は、念仏をさまたげるのは世の常である。しかし、それよって、阿弥陀仏の法義をよろこんでいる者がなんまんだぶを称えることを止めれば、念仏をさまたげた者は、その報いによって流転輪廻することになるから、なんまんだぶを称えることを止(や)めてはいけませんともお示しであった[2](*)

阿弥陀仏選択本願南無阿弥陀仏一切世間難信の法であり、この阿弥陀如来の成就された法を、口に、なんまんだぶと受け容れることが信受であり信順であり本願力回向のご信心であった。南無阿弥陀仏は救済のでありでありであるのだが、近代の知の毒に侵された者には理解不能なのであろう。
その知におかされた代表が、なんまんだぶを称えない浄土真宗の坊さんならば、まさにアイロニー以外の何物でもないと思っていたりする。浄土真宗のお寺で、なんまんだぶの声を聞くことが少なくなったのは、信心正因名目に迷い、行なき観念の信に酔っている坊さんの不作為という謗法であるやも知れぬと思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

かねて仏の説きおかせ
曲事

  1. なんまんだぶを称える行は易行中の易行であるから「一切世間難信の法」なのである。「信巻」横超の特絶を示して、「律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」とある。(信巻 P.248)
  2. 「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひと(法然聖人)は申され候ひしか」とある。法然聖人は流罪に接して「此法の弘通は、人をとゞめんとすとも、法さらにとゞまるべからず。諸佛済度のちかひふかく、冥衆護持の約ねんごろなり。しかればなんぞ世間の機嫌をはゞかりて、経釈の素意をかくすべきや。たゞしいたむところは、源空が興ずる浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるがゆゑに、常随守護の神祇冥道、さだめて無道の障難をとがめ給はんか、命あらんともがら、因果のむなしからざる事をおもひあはすべし」円光大師行状画図翼賛と、念仏を弾圧した者はその報いを受けるであろうとされておられた。