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「五願開示」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 一願建立に対する語。阿弥陀仏の四十八願の中、第十八願にもとづいて善導・法然の打ち立てた念仏往生の法義の内容を、親鸞が第十七・十八・十一・十二・十三の真実五願に開き示したこと。<br />
 
 一願建立に対する語。阿弥陀仏の四十八願の中、第十八願にもとづいて善導・法然の打ち立てた念仏往生の法義の内容を、親鸞が第十七・十八・十一・十二・十三の真実五願に開き示したこと。<br />
すなわち第十八願の「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚)」([[大経上#P--18|大経 P.18]])について、ここに誓われてある行(=<kana>乃至十念(ないし-じゅうねん)</kana>)は第十七願、信(=<kana>至心信楽(ししん-しんぎょう)</kana> <kana>欲生我国(よくしょう-がこく)</kana>)は第十八願、証(=<kana>若不生者(にゃくふ-しょうじゃ)</kana>)は第十一願、そして真仏土(=<kana>不取正覚(ふしゅ-しょうがく)</kana>)は第十二、十三願にそれぞれ配当され、親鸞はこれらの願を『教行信証』各巻の冒頭にかかげている。これによって浄土真宗の法義は、総じていえば第十八願、開いていえば真実五願によって成就され回向されたものであることが知られる。(浄土真宗辞典)
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すなわち第十八願の「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚)」([[大経上#P--18|大経 P.18]])について、ここに誓われてある行(=<kana>乃至十念(ないし-じゅうねん)</kana>)は第十七願、信(=<kana>至心信楽(ししん-しんぎょう)</kana> <kana>欲生我国(よくしょう-がこく)</kana>)は第十八願、証(=<kana>若不生者(にゃくふ-しょうじゃ)</kana>)は第十一願、そして真仏土(=<kana>不取正覚(ふしゅ-しょうがく)</kana>)は第十二、十三願にそれぞれ配当され、親鸞はこれらの願を『教行信証』各巻の冒頭にかかげている。これによって浄土真宗の法義は、総じていえば第十八願、開いていえば真実五願によって成就され回向されたものであることが知られる。(浄土真宗辞典)<br />
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 なお、阿弥陀仏の四十八願の中の、第十七願・第十八願・第十一願・第十二願・第十三願に、最初に着目されたのは『三部経大意』によれば法然聖人であった。御開山はこの法然聖人の意を承けられて、法然聖人が『選択本願念仏集」で示された三経一論(浄土三部経と『浄土論』)の指示に従い、天親菩薩の『浄土論』の注釈書である曇鸞大師の『浄土論註』の示唆により、往相・還相という本願力回向の宗義を展開されたのである。

2017年6月15日 (木) 15:26時点における版

ごがん-かいじ

 一願建立に対する語。阿弥陀仏の四十八願の中、第十八願にもとづいて善導・法然の打ち立てた念仏往生の法義の内容を、親鸞が第十七・十八・十一・十二・十三の真実五願に開き示したこと。
すなわち第十八願の「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚)」(大経 P.18)について、ここに誓われてある行(=乃至十念(ないし-じゅうねん))は第十七願、信(=至心信楽(ししん-しんぎょう) 欲生我国(よくしょう-がこく))は第十八願、証(=若不生者(にゃくふ-しょうじゃ))は第十一願、そして真仏土(=不取正覚(ふしゅ-しょうがく))は第十二、十三願にそれぞれ配当され、親鸞はこれらの願を『教行信証』各巻の冒頭にかかげている。これによって浄土真宗の法義は、総じていえば第十八願、開いていえば真実五願によって成就され回向されたものであることが知られる。(浄土真宗辞典)
 なお、阿弥陀仏の四十八願の中の、第十七願・第十八願・第十一願・第十二願・第十三願に、最初に着目されたのは『三部経大意』によれば法然聖人であった。御開山はこの法然聖人の意を承けられて、法然聖人が『選択本願念仏集」で示された三経一論(浄土三部経と『浄土論』)の指示に従い、天親菩薩の『浄土論』の注釈書である曇鸞大師の『浄土論註』の示唆により、往相・還相という本願力回向の宗義を展開されたのである。