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「別時意」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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この摂論学徒の往生別時意の論破が善導大師の願行具足論である。([[観経疏_玄義分_(七祖)#P--324|玄義分p.324]])
 
この摂論学徒の往生別時意の論破が善導大師の願行具足論である。([[観経疏_玄義分_(七祖)#P--324|玄義分p.324]])
  
『摂大乗論』では、「唯だ発願するに由りて安楽仏土に於いて、彼に往きて生を受くるを得」[[トーク:別時意#.E5.88.A5.E6.99.82.E6.84.8F|(*)]]という経の文は別時意であるとする。それを『摂大乗論釈』では「譬えば、一金銭を営むに由つて千金銭を覓(もと)めて得るとは、一日に千を得るには非ず、別時に由つて千を得るが如し。如来の意もまた爾なり。此の一金銭を千金銭の因と為す。仏名を誦持するもまた爾なり。退堕せずを菩提の因と為すなり」と、今の称仏は、遠い未来 (別時)に得ることをすぐに得られるように説いた方便説であるという。結果を得るのは遠い未来のことだするのである。<br />
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『摂大乗論』では、「唯だ発願するに由りて安楽仏土に於いて、彼に往きて生を受くるを得」[[トーク:別時意#.E5.88.A5.E6.99.82.E6.84.8F|(*)]]という経の文は別時意であるとする。それを『摂大乗論釈』では「譬えば、一金銭を営むに由つて千金銭を覓(もと)めて得るとは、一日に千を得るには非ず、別時に由つて千を得るが如し。如来の意もまた爾なり。此の一金銭を千金銭の因と為す。仏名を誦持するもまた爾なり。退堕せずを菩提の因と為すなり」[[トーク:別時意#.E5.88.A5.E6.99.82.E6.84.8F.28.E6.87.88.E6.80.A0.E3.81.AE.E9.9A.9C.E3.82.8A.E3.82.92.E9.99.A4.E3.81.8F.E3.81.9F.E3.82.81.E3.81.AB.E7.94.A8.E3.81.84.E3.82.8B.E8.AA.AC.E3.81.8D.E6.96.B9.29|(*)]]と、今の称仏は、遠い未来 (別時)に得ることをすぐに得られるように説いた方便説であるという。結果を得るのは遠い未来のことだするのである。<br />
 
善導大師は、たしかに願のみでは「遠生のために因」であるといえるが、行について論じていないから後の摂論学徒は誤解したのだとする。善導大師は、「今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする」と「凡小の論にすなはち信受を加へ」と仰信の強烈な言葉を発している。<br />
 
善導大師は、たしかに願のみでは「遠生のために因」であるといえるが、行について論じていないから後の摂論学徒は誤解したのだとする。善導大師は、「今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする」と「凡小の論にすなはち信受を加へ」と仰信の強烈な言葉を発している。<br />
 
そして、有名な'''六字釈'''、
 
そして、有名な'''六字釈'''、

2017年3月7日 (火) 22:19時点における版

べつじい

 別時意趣のこと。 『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』に説かれる四意趣(しいしゅ) (仏の四種類の方便説。 平等・別時・別業(べつごう)・衆生楽欲) の一。 遠い未来 (別時) に得る利益を即時に得られるかのように説くこと。 摂論(しょうろん)学徒は 『観経』の念仏往生を別時意趣とし、念仏はたんに仏縁を結ばせるだけの往生の遠因にすぎないと主張した。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

  1. 平等意 差別にとらわれた者を導く説き方
  2. 別時意 懈怠の障りを除くために用いる説き方
  3. 別義意 法を軽んずる心を破るために用いる説き方
  4. 衆生楽欲意 向上心を起こさせるための説き方
願行具足論

この摂論学徒の往生別時意の論破が善導大師の願行具足論である。(玄義分p.324)

『摂大乗論』では、「唯だ発願するに由りて安楽仏土に於いて、彼に往きて生を受くるを得」(*)という経の文は別時意であるとする。それを『摂大乗論釈』では「譬えば、一金銭を営むに由つて千金銭を覓(もと)めて得るとは、一日に千を得るには非ず、別時に由つて千を得るが如し。如来の意もまた爾なり。此の一金銭を千金銭の因と為す。仏名を誦持するもまた爾なり。退堕せずを菩提の因と為すなり」(*)と、今の称仏は、遠い未来 (別時)に得ることをすぐに得られるように説いた方便説であるという。結果を得るのは遠い未来のことだするのである。
善導大師は、たしかに願のみでは「遠生のために因」であるといえるが、行について論じていないから後の摂論学徒は誤解したのだとする。善導大師は、「今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする」と「凡小の論にすなはち信受を加へ」と仰信の強烈な言葉を発している。
そして、有名な六字釈

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(玄義分p.325)

と、南無阿弥陀仏と称えることは、南無は帰命という「願」であり、阿弥陀仏とは第十八願の乃至十念という阿弥陀仏が選択された「行」であり、南無という「願」と阿弥陀仏の「行」が具足しているから、必得往生(ひっとく-おうじょう)、必ず安楽仏土へ往生するのだとされた。
また、浄土へ往生するということは、正報(仏陀と成ること)ではなく、依報(仏の報仏国土)を目指すものであるから、摂論学徒は、この点でも誤解・錯誤しているのであると論破された。なお御開山の六字釈は、この善導大師の六字釈を元に本願力回向の立場で解釈されておられるので注意。