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唯信仏語

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

ゆいしん-ぶつご

 ただ仏語のみが真実であり、その仏語のみを信じるということ。→
善導大師の『観経疏』深心釈下にある語である。浄土真宗では、(すくわれる者)と(すくいの法)の「二種深信」を強調して説くのだが、御開山はより広く深信を考察して、文章を文節する又の字により深心釈を七つに開いて示された。

「唯信仏語」とは、この「七深信」の第五深信に、

深信者 仰願一切行者等 一心唯信仏語 不顧身命 決定依行 仏遣捨者即捨 仏遣行者即行。仏遣去処即去。
是名随順仏教 随順仏意 是名随順仏願。是名真仏弟子。
また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。 これを真の仏弟子と名づく。 (散善義 P.457),(信巻 P.218で引文)

と、ただ仏語のみを信ずる者を真の仏弟子であるとする。
『愚禿鈔』には、

第五の「唯信仏語」について、三遣三随順三是名あり。
 三遣とは、

一には、「仏の捨て()めたまふをば、すなはち捨つ」と。
二には、「仏の行ぜ()めたまふをば、すなはち行ず」と。
三には、「仏の去ら()めたまふ処をば、すなはち去る」となり。

 三随順とは、

一には、「是を仏教に随順すと名づく」と。
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり。

 三是名とは、

一には、「是を真仏弟子と名づく」となり。
 上の是名とこれと合して三是名なり。(愚禿下 P.522)

と、雑行雑修を捨てて、仏の選択された〔なんまんだぶ〕を行じ、異学異解いの人と交わるなかれと、浄土真宗の行信を示しておられた。なお第五の右傍に「利他信心」と註記がある。

インクルード ノート:第五

「唯信仏語」についての、三遣・三随順 (愚禿下 P.522)

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、

仏の捨て遣(し)めたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)
仏の行ぜ遣(し)めたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)
仏の去ら遣(し)めたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)
これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順し)
仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]に随順と名づけ)
これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[本願]に随順すると名づける。)
これを真の仏弟子と名づく。
(このような者を真の仏弟子と名づけるのである)

と、釈尊の教え、諸仏の意(おこころ)であり、阿弥陀仏の本願に随順することであるとされておられた。
また、この「唯信」を『唯信抄文意』では、

「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。

と、「信」とは疑いの無い心であり、利他である本願を憑んで自力をはなれたことを「唯信」といわれている。本願力回向の「信」とは疑いの無いことをいうのであり、疑わない心が私に有るという不疑心ではないのであった。→「疑蓋無雑

真仏弟子
七深信
第五