唯信鈔

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著者である聖覚法印は、隆寛律師とともに、師法然上人からあつく信任されていた人である。本書は上人より相承する念仏往生の要義を述べて、表題のごとくただ信心を専修念仏の肝要とすることを明らかにされたものである。

 前半には、まず仏道には聖道門浄土門の二門があり、浄土門こそが末法の世の衆生にかなうものであると選びとる。その浄土門にまた諸行をはげんで往生を願う諸行往生と、称名念仏して往生を願う念仏往生とがあるが、自力の諸行では往生をとげがたい旨を示して他力の念仏往生こそ仏の本願にかなうことが述べられる。さらにこの念仏往生について専修雑修とがあることを示して、阿弥陀仏の本願を信じ、ただ念仏一行をつとめる三心具足の専修のすぐれていることを明らかにし、念仏には信心を要とすることが述べられる。

 また後半には(1)臨終念仏と尋常念仏、(2)弥陀願力と先世の罪業、(3)五逆と宿善、(4)一念と多念の4項についての不審をあげて、それを明確に決択されている。すなわち前半は顕正の段、後半は破邪の段である。 親鸞聖人は関東在住の頃から本書を尊重され、門弟にもしばしば本書の熟読を勧められた。しかも、帰洛後には本書を註釈されて『唯信鈔文意』を著され、本書の意義をさらに説き明かされている。


唯信鈔

   唯信鈔

                         安居院法印聖覚作


【1】 それ生死をはなれ仏道をならんとおもはんに、二つのみちあるべし。一つには聖道門、二つには浄土門なり。

 聖道門といふは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて、今生に証をとらんとはげむなり。いはゆる真言をおこなふともがらは、即身に大覚の位にのぼらんとおもひ、法華をつとむるたぐひは、今生に六根の証をえんとねがふなり。まことに教の本意しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億々の人のなかに一人もありがたし。これによりて、今の世にこの門をつとむる人は、即身の証においては、みづから退屈のこころをおこして、あるいははるかに慈尊(弥勒)の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきの空をのぞみ、あるいはとほく後仏の出世をまちて、多生曠劫、流転生死の夜の雲にまどへり。あるいはわづかに霊山補陀落霊地をね がひ、あるいはふたたび天上・人間の小報をのぞむ。結縁まことにたふとむべけれども、速証すでにむなしきに似たり。ねがふところなほこれ三界のうち、のぞむところまた輪廻の報なり。なにのゆゑか、そこばく行業慧解をめぐらしてこの小報をのぞまんや。まことにこれ大聖(釈尊)を去ることとほきにより、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。


【2】 二つに浄土門といふは、今生の行業を回向して、順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。まことにたくみなりとす。ただし、この門にまた二つのすぢわかれたり。一つには諸行往生、二つには念仏往生なり。


【3】 諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。


【4】 二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。

これはかの仏の本願に順ずるがゆゑに、正定の業となづく。ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆゑに、他力の往生となづく。そもそも名号をとなふるは、なにのゆゑにかの仏の本願にかなふとはいふぞといふに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏に成りたまはざりしむかし、法蔵比丘と申しき。そのときに仏ましましき、世自在王仏と申しき。法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまゐりて申したまはく、「われすでに菩提心をおこして清浄の仏国をまうけんとおもふ。

願はくは、仏、わがためにひろく仏国を荘厳する無量の妙行ををしへたまへ」と。そのときに世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人・天の善悪、国土の粗妙をことごとくこれを説き、ことごとくこれを現じたまひき。

 法蔵比丘これをききこれをみて、悪をえらびて善をとり、をすてて妙をねがふ。たとへば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず、三悪道なき世界をば、これをねがひてすなはちとる。自余の願もこれになずらへてこころ を得べし。このゆゑに、二百一十億の諸仏の浄土のなかより、すぐれたることをえらびとりて極楽世界を建立したまへり。たとへば、柳の枝に桜のはなを咲かせ、二見の浦清見が関をならべたらんがごとし。これをえらぶこと一期のにあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。

布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進をとせんとすれば、瞋恚懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。

 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚 られんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。

如来尊号甚分明 十方世界普流行
 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)

といへる、このこころか。

 さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。

彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深

 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)

このこころか。これを念仏往生とす。


【5】 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』(易行品)のなかに、「仏道を行ずるに難行道・易行道あり。難行道といふは、陸路をかちよりゆかんがごとし。易行道といふは、海路に順風を得たるがごとし。難行道といふは、五濁世にありて不退の位にかなはんとおもふなり。易行道といふは、ただ仏を信ずる因縁〔をもつて〕のゆゑに浄土に往生するなり」といへり。難行道といふは聖道門なり、易行道といふは浄土門なり。わたくしにいはく、浄土門に入りて諸行往生をつとむる人は、海路にふねに乗りながら順風を得ず、櫓をおし、ちからをいれて潮路をさかのぼり、なみまをわくるにたとふべきか。


【6】 つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。専修といふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめてまつたく余行をまじへざるなり。他の経・をもたもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなへ、ひとへに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。雑修といふは、念仏をむねとすといへども、また余 の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。

この二つのなかには、専修をすぐれたりとす。そのゆゑは、すでにひとへに極楽をねがふ、かの土の教主(阿弥陀仏)を念ぜんほか、なにのゆゑか他事をまじへん。電光朝露のいのち、芭蕉泡沫の身、わづかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんとす。あにゆるく諸行をかねんや。諸仏・菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期すべし、大小経典義理は、百法明門のゆふべをまつべし。一土をねがひ一仏を念ずるほかは、その用あるべからずといふなり。念仏の門に入りながら、なほ余行をかねたる人は、そのこころをたづぬるに、おのおの本業を執じてすてがたくおもふなり。

あるいは一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土をねがはんとおもふこころをあらためず、念仏にならべてこれをつとむるに、なにのとがかあらんとおもふなり。ただちに本願に順ぜる易行の念仏をつとめずして、なほ本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなきなり。これによりて善導和尚ののたまはく(礼讃)、「専を捨てて雑におもむくものは、千のなかに一人も生れず、もし専修のものは、百に百ながら生れ、千に千ながら生る」(意)といへり。

極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
 故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)

といへり。随縁の雑善ときらへるは、本業を執ずるこころなり。たとへば、みやづかへをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすぢに忠節を尽すべきに、まさしき主君に親しみながら、かねてまた疎くとほき人にこころざしを尽して、この人、主君にあひてよきさまにいはんことを求めんがごとし。ただちにつかへたらんと、勝劣あらはにしりぬべし。二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。


【7】 これにつきて人疑をなさ、「たとへば、人ありて、念仏の行をたてて毎日に一万遍をとなへて、そのほかは終日にあそびくらし、よもすがらねぶりをらんと、またおなじく一万を申して、そののち経をもよみ余仏をも念ぜんと、いづれかすぐれたるべき。『法華』に〈即往安楽〉の文あり、これをよまんにあそびたはぶれにおなじからんや。『薬師』には八菩薩の引導あり、これを念ぜんはむなしくねぶらんに似るべからず。かれを専修とほめ、これを雑修ときらはんこと、いまだそのこころをえず」と。

 いままたこれを案ずるに、なほ専修をすぐれたりとす。そのゆゑは、もとより濁世の凡夫なり、ことにふれてさはりおほし。弥陀これをかがみて易行の道ををしへたまへり。終日にあそびたはぶるるは、散乱増のものなり。よもすがらねぶるは、睡眠増のものなり。これみな煩悩の所為なり。たちがたく伏しがたし。あそびやまば念仏をとなへ、ねぶりさめば本願をおもひいづべし。専修の行にそむかず。一万遍をとなへて、そののちに他経・他仏を持念せんは、うちきくところたくみなれども、念仏たれか一万遍にかぎれと定めし。精進の機ならば、終日にとなふべし。念珠をとらば、弥陀の名号をとなふべし。本尊にむかはば、弥陀の形像にむかふべし。ただちに弥陀の来迎をまつべし。なにのゆゑか八菩薩の示路をまたん。もつぱら本願の引導をたのむべし。わづらはしく一乗の功能かるべからず。行者の根性に上・中・下あり。上根のものは、よもすがらひぐらし念仏を申すべし。なにのいとまにか余仏を念ぜん。ふかくこれをおもふべし、みだりがはしく疑ふべからず。


【8】 つぎに念仏を申さんには、三心を具すべし。ただ名号をとなふることは、たれの人か一念・十念の功をそなへざる。しかはあれども、往生するものはき はめてまれなり。これすなはち三心を具せざるによりてなり。『観無量寿経』にいはく、「具三心者必生彼国」といへり。善導の釈(礼讃)にいはく、「具此三心必得往生也 若少一心即不得生」といへり。三心のなかに一心かけぬれば、生るることを得ずといふ。世のなかに弥陀の名号をとなふる人おほけれども、往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆゑなりとこころうべし。


【9】 その三心といふは、一つには至誠心、これすなはち真実のこころなり。おほよそ仏道に入るには、まづまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。阿弥陀仏の、むかし菩薩の行をたて、浄土をまうけたまひしも、ひとへにまことのこころをおこしたまひき。これによりてかの国に生れんとおもはんも、またまことのこころをおこすべし。その真実心といふは、不真実のこころをすて、真実のこころをあらはすべし。まことにふかく浄土をねがふこころなきを、人にあうてはふかくねがふよしをいひ、内心にはふかく今生の名利にしながら、外相には世をいとふよしをもてなし、外には善心あり、たふときよしをあらはして、内には不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。これを虚仮のこころとなづけて、真実心にたが へる相とす。

これをひるがへして真実心をばこころえつべし。このこころをあしくこころえたる人は、よろづのことありのままならずは、虚仮になりなんずとて、身にとりてはばかるべく、恥がましきことをも人にあらはししらせて、かへりて放逸無慚のとがをまねかんとす。いま真実心といふは、浄土をもとめ穢土をいとひ、仏の願を信ずること、真実のこころにてあるべしとなり。かならずしも、恥をあらはにし、とがを示せとにはあらず。ことにより、をりにしたがひてふかく斟酌すべし。善導の釈(散善義)にいはく、「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」といへり。


【10】 二つに深心といふは、信心なり。まづ信心の相をしるべし。信心といふは、ふかく人のことばをたのみて疑はざるなり。たとへば、わがためにいかにもはらぐろかるまじく、ふかくたのみたる人の、まのあたりよくよくみたらんところををしへんに、「そのところにはやまあり、かしこにはかはあり」といひたらんをふかくたのみて、そのことばを信じてんのち、また人ありて、「それはひがことなり、やまなしかはなし」といふとも、いかにもそらごとすまじき人のいひてしことなれば、のちに百千人のいはんことをばもちゐず、もとき きしことをふかくたのむ、これを信心といふなり。いま釈迦の所説を信じ、弥陀の誓願を信じてふたごころなきこと、またかくのごとくなるべし。

 いまこの信心につきて二つあり。一つには、わが身は罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに沈みつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定してふかく、阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂取したまふことを疑はざれば、かの願力に乗りて、さだめて往生することを得と信ずるなり。世の人つねにいはく、「仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わが身のほどをはからふに、罪障のつもれることはおほく、善心のおこることはすくなし。こころつねに散乱して一心をうることかたし。身とこしなへに懈怠にして精進なることなし。仏の願ふかしといふとも、いかでかこの身をむかへたまはん」と。

このおもひまことにかしこきに似たり、驕慢をおこさず高貢のこころなし。しかはあれども、仏の不思議力を疑ふとがあり。仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。

三念五念仏来迎」(法事讃・下)とのべたり。むなしく身を卑下し、こころを怯弱にして、仏智不思議を疑ふことなかれ。

 たとへば、人ありて、高き岸の下にありてのぼることあたはざらんに、ちから強き人、岸のうへにありて綱をおろして、この綱にとりつかせて、「われ岸のうへにひきのぼせん」といはんに、ひく人のちからを疑ひ、綱の弱からんことをあやぶみて、手ををさめてこれをとらずは、さらに岸のうへにのぼること得べからず。ひとへにそのことばにしたがうて、たなごころをのべてこれをとらんには、すなはちのぼることを得べし。仏力を疑ひ、願力をたのまざる人は、菩提の岸にのぼることかたし。ただ信心の手をのべて誓願の綱をとるべし。仏力無窮なり、罪障深重の身をおもしとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のものをもすつることなし。信心を要とす、そのほかをばかへりみざるなり。信心決定しぬれば、三心おのづからそなはる。本願を信ずることまことなれば、虚仮のこころなし。浄土まつこと疑なければ、回向のおもひあり。このゆゑに三心ことなるに似たれども、みな信心にそなはれるなり。


【11】 三つには回向発願心といふは、名のなかにその義きこえたり。くはしくこれをのぶべからず。過現三業の善根をめぐらして、極楽に生れんと願ずるな り。


【12】 つぎに本願の文にいはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。いまこの十念といふにつきて、人疑をなしていはく、「『法華』の〈一念随喜〉といふは、ふかく非権非実の理に達するなり。いま十念といへるも、なにのゆゑか十返の名号とこころえん」と。

この疑を釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中 除八十億劫生死之罪」といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。


【13】 一 つぎにまた人のいはく、「臨終の念仏は功徳はなはだふかし。十念に五逆を滅するは臨終の念仏のちからなり。尋常の念仏はこのちからありがたし」といへり。

 これを案ずるに、臨終の念仏は功徳ことにすぐれたり。ただしそのこころを得べし。もし人いのちをはらんとするときは、百苦身にあつまり、正念みだれやすし。かのとき仏を念ぜんこと、なにのゆゑかすぐれたる功徳あるべきや。これをおもふに、病おもく、いのちせまりて、身にあやぶみあるときには、信心おのづからおこりやすきなり。まのあたり世の人のならひをみるに、その身おだしきときは、医師をも陰陽師をも信ずることなけれども、病おもくなりぬれば、これを信じて、「この治方をせば病いえなん」といへば、まことにいえなんずるやうにおもひて、口ににがき味はひをもなめ、身にいたはしき療治をもくはふ。「もしこのまつりしたらば、いのちはのびなん」といへば、たからを も惜しまず、ちからを尽して、これをまつりこれをいのる。これすなはち、いのちを惜しむこころふかきによりて、これをのべんといへば、ふかく信ずるこころあり。

臨終の念仏、これになずらへてこころえつべし。いのち一刹那にせまりて存ぜんことあるべからずとおもふには、後生のくるしみたちまちにあらはれ、あるいは火車相現し、あるいは鬼率まなこにさいぎる。いかにしてか、このくるしみをまぬかれ、おそれをはなれんとおもふに、善知識のをしへによりて十念の往生をきくに、深重の信心たちまちにおこり、これを疑ふこころなきなり。これすなはち、くるしみをいとふこころふかく、たのしみをねがふこころ切なるがゆゑに、極楽に往生すべしときくに、信心たちまちに発するなり。いのちのぶべしといふをききて、医師・陰陽師を信ずるがごとし。もしこのこころならば、最後の刹那にいたらずとも、信心決定しなば、一称・一念の功徳、みな臨終の念仏にひとしかるべし。


【14】 二 またつぎに世のなかの人のいはく、「たとひ弥陀の願力をたのみて極楽に往生せんとおもへども、先世の罪業しりがたし、いかでかたやすく生るべきや。業障にしなじなあり。順後業といふは、かならずその業をつくりたる 生ならねども、後後生にも果報をひくなり。されば今生に人界の生をうけたりといふとも、悪道の業を身にそなへたらんことをしらず、かの業がつよくして悪趣の生をひかば、浄土に生るることかたからんか」と。

 この義まことにしかるべしといふとも、疑網たちがたくして、みづから妄見をおこすなり。おほよそ業ははかりのごとし、おもきものまづ牽く。もしわが身にそなへたらん悪趣の業ちからつよくは、人界の生をうけずしてまづ悪道におつべきなり。すでに人界の生をうけたるにてしりぬ、たとひ悪趣の業を身にそなへたりとも、その業は人界の生をうけし五戒よりは、ちからよわしといふことを。もししからば、五戒をだにもなほさへず、いはんや十念の功徳をや。五戒は有漏の業なり、念仏は無漏の功徳なり。五戒は仏の願のたすけなし、念仏は弥陀の本願のみちびくところなり。念仏の功徳はなほし十善にもすぐれ、すべて三界の一切の善根にもまされり。いはんや五戒の小善をや。五戒をだにもさへざる悪業なり、往生のさはりとなることあるべからず。


【15】 三 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生す ることを得んや」と。

 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


【16】 四 つぎに念仏を信ずる人のいはく、「往生浄土のみちは、信心をさきとす。信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とておほきにあざけりふかくそしる」と。 まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にてたれりといふは、その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、すこぶるそのことばすぎたりとす。一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、いたづらにあかし、いたづらにくらすに、いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、またしかるべからず。

一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。


【17】 これをみん人、さだめてあざけりをなさんか。しかれども、信・謗ともに因として、みなまさに浄土に生るべし。
今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして、来世さとりのまへの縁をむすばんとなり。われおくれば人にみちびかれ、われさきだたば人をみちびかん。生々に善友となりてたがひに仏道を修せしめ、世々に知識としてともに迷執をたたん。

本師釈迦尊 悲母弥陀仏
左辺観世音 右辺大勢至
清浄大海衆 法界三宝海
証明一心念 哀愍共聴許

 [草本にいはく、「承久三歳仲秋中旬第四日、安居院の法印聖覚の作る」と。

  寛喜二歳仲夏下旬第五日、かの草本真筆をもつて愚禿釈親鸞これを書写す。]

 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)