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「垂名示形」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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御開山はこの垂名としての名号を、
 
御開山はこの垂名としての名号を、
 
:いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。([[行巻#no51|行巻 P.180]])
 
:いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。([[行巻#no51|行巻 P.180]])
と、[[可聞可称]]の〔なんまんだぶ〕として真如法性から垂名示形しての名号による衆生[[済度]]の法を示されたのであった。<br />
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と、[[可聞可称]]の〔なんまんだぶ〕として真如法性から垂名示形しての名号による衆生[[済度]]の法を示されたのであった。 →[[名体不二]]<br />
 
その意を、梯實圓和上は『一念多念文意講讃』で、
 
その意を、梯實圓和上は『一念多念文意講讃』で、
:無相中に相を示現し、無名中に名号を垂れて、衆生を呼び覚ましていくことを方便というといわれているのである。これを垂名示形といいならわしている。まさに「正直を方といふ、外己を便といふ」といわれた方便の釈そのままの姿であった。その相が南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、南無不可思議光仏だったのである。それはまさに一如が名号となって私どもの前に「如来」する相であった。 →[[親鸞聖人の仏身論]]
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:無相中に相を示現し、無名中に名号を垂れて、衆生を呼び覚ましていくことを方便というといわれているのである。これを[[垂名示形]]といいならわしている。まさに「正直を方といふ、外己を便といふ」といわれた方便の釈そのままの姿であった。その相が南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、南無不可思議光仏だったのである。それはまさに一如が名号となって私どもの前に「如来」する相であった。 →[[親鸞聖人の仏身論]]
 
といわれていた。<br />
 
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なお[[法性法身]]と[[方便法身]]について垂名示形を論ずる場合もある。
 
なお[[法性法身]]と[[方便法身]]について垂名示形を論ずる場合もある。
 
:法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。([[唯文#P--710|唯文 P.710]])
 
:法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。([[唯文#P--710|唯文 P.710]])
とある、法性法身が名となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり煩悩に覆われた凡夫とは没交渉である、真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。
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とある、法性法身が名となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり煩悩に覆われた凡夫とは没交渉である。真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。→[[トーク:方便]]
  
 
:→[[果分不可説]]
 
:→[[果分不可説]]

2018年3月9日 (金) 19:55時点における版

すいみょう-じぎょう  漢音では、すいめい-じけい

 垂名示形(名を垂れ形を示す)。名を垂れるとは、一切衆生を済度しようとする法蔵菩薩の願心が、南無阿弥陀仏という名のりとなって十方衆生に称えられ聞かせしめられんとすること。形を示すとは、一如より来生した法蔵菩薩の誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。
『一念多念証文』には、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを南無不可思議光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。(一多 P.690-P.691)

とあり、法蔵菩薩が「無碍のちかひ」を建立して阿弥陀仏となられた「仏願の生起本末」を説かれている。この「一如宝海よりかたちをあらはして」が示形であり「法蔵菩薩となのりたまひて」南無阿弥陀仏を成就され名号(名のり)としての活動相を垂名と真宗の先達は示されたのであった。なお同趣旨の文が『唯信鈔文意』極楽無為涅槃界釈(唯文 P.710)にもある。
御開山はこの垂名としての名号を、

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。(行巻 P.180)

と、可聞可称の〔なんまんだぶ〕として真如法性から垂名示形しての名号による衆生済度の法を示されたのであった。 →名体不二
その意を、梯實圓和上は『一念多念文意講讃』で、

無相中に相を示現し、無名中に名号を垂れて、衆生を呼び覚ましていくことを方便というといわれているのである。これを垂名示形といいならわしている。まさに「正直を方といふ、外己を便といふ」といわれた方便の釈そのままの姿であった。その相が南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、南無不可思議光仏だったのである。それはまさに一如が名号となって私どもの前に「如来」する相であった。 →親鸞聖人の仏身論

といわれていた。

なお法性法身方便法身について垂名示形を論ずる場合もある。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。(唯文 P.710)

とある、法性法身が名となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり煩悩に覆われた凡夫とは没交渉である。真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。→トーク:方便

果分不可説
名体不二
浄土系思想論─名号論
親鸞における「言葉」
ノート:方便
親鸞聖人の仏身論
真仮論の救済論的意義
意識の形而上学