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「大行」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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2019年10月22日 (火) 11:42時点における版

だいぎょう

 第十七願に誓われた諸仏称賛の名号をいう。称名はこの名号の活動体であるので、称名を指して大行ともいう。大行の大には大、多、勝の三義がある。すなわち広大、多量、最勝の意味で、行の徳用を表している。
「行巻」(註141) に大行と名づけられる理由を明かしており、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」とあるのは無量の徳で多の義、「極速円満す」とあるのは勝れた用徳で勝の義、「真如一実の功徳宝海なり」とあるのは広大無辺な真如にかなう性徳で、大の義にあたる。

 すなわち、大行とは、真如にかない、無量の徳をもち、衆生をすみやかに涅槃に至らしめるすぐれた行業のことであり、このことから「真実行」ともいわれる。
 「行巻」冒頭には大行の行体を明かし、「大行とはすなはち無礙光如来の(みな)を称するなり」(註141) とある。讃嘆門 これは『論註』讃嘆門釈(七註103)に示される名号破満の釈によったものであり、名義に相応しない自力の念仏に対して、無礙光如来の光明知相にかない、名義と相応している如実行であることを顕している。その名義とは、名号に衆生の無明を破り、往生成仏の志願を満たす力用がそなわっているということで、この名号のもつ破闇満願の力用こそが衆生を涅槃に進趣せしめる行としての徳義である。
すなわち、称名を大行として顕されているが、称えたはたらきによって行となるのではなく、称えられている名号に大行としての徳をもち、この名号にかなって称えているから称名もまた大行といわれる徳がある。
このような能所不二の大行の義趣を示すのが出体出願の訳である。もともと、信心、称名といっても名号の活動相のほかにないので、「称名即名号」、「信心即名号」、「称名即信心」という。 このように信心、称名となって活動する名号大行を顕すのが「行巻」である。 「信巻」は、この法体としての大行が衆生の上にとどいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となっていくという機受の要義を顕すことから、行と信とは、法と機との関係にあるとされる。 (浄土真宗辞典)

補註10 (行巻 P.141, 浄文 P.478, 名号 P.731)
行信不離
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

10 大行・真実行

 大行とは、第十七願に誓われた諸仏讃嘆(さんだん)名号(みょうごう)をいう。大行の大には大、多、勝の三義がある。すなわち広大、多量、最勝の意味で、行の徳用(とくゆう)を表している。「行巻(ぎょうかん)」に大行と名づけられる理由を明かして、「もろもろの善法(ぜんぽう)摂し、もろもろの徳本を具せり」( 141) といわれたのは無量の徳で多の義にあたり、「極速円満す」は勝れた用徳(ゆうとく)で勝の義、「真如(しんにょ)一実の功徳宝海なり」は広大無辺な真如にかなう性徳(しょうとく)で、大の義にあたるといえよう。

 行とは、一般に教・行・証という場合の行は、梵語のチャリヤー(caryā)の漢訳で、菩提涅槃に至るための行為を意味する。『唯信鈔(ゆいしんしょう)文意(もんい)』には「行」の字に左訓(さくん)して「おこなふとまうすなり」といわれている。

 このように大行とは、真如にかない、無量の徳をもち、衆生(しゅじょう)をすみやかに涅槃に至らしめるすぐれた行業(ぎょうごう)(おこない)のことである。それゆえ「真実(ぎょう)」ともいわれるのである。

 「行巻」の出体(しゅったい)出願(しゅつがん)の釈に、「大行とはすなはち無碍(むげ)(こう)如来(にょらい)(みな)を称するなり」(141) と行体を指定されている。これは『論註』(下 103)の起観(きかん)生信(しょうしん)章の名号破満の釈によられたもので、名義(みょうぎ)にかなわない自力の念仏に対して、無碍光如来光明(こうみょう)智相にかない、名義と相応している如実行であることを顕すためである。

その名義である光明智相とは、衆生の無明(むみょう)を破り、往生成仏の志願を満たす力用(りきゆう)をもつ名号であるということで、この名号のもつ破闇満願の力用こそ衆生を涅槃に進趣せしめる行としての徳義である。

 「無碍光如来の名を称するなり」(141) と行体を指して称名を大行であるといわれているが、称えたはたらきによって行となるのではなく、称えられている名号に大行としての徳をもち、この名義にかなって称えているから称名また大行といわれる徳があると、能所(のうじょ)不二(ふに)の大行の義趣[1]を示されたのが出体出願の釈である。

 もともと、信心称名といっても名号の活動相のほかになく、衆生は、称えているまま能称を忘れて無碍光如来の名義を聞き、本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)聞信(もんしん)しているのである。それを「称名即名号」、「信心即名号」、「称名即信心」といい、このように信心、称名の全体が名号大行の活動相であるというのが「行巻」のあらわすところである。「信巻(しんかん)」は、この法体(ほったい)大行が衆生の上にとどいて大信(だいしん)となり、衆生の往生成仏の正因(しょういん)となっていくという機受の要義を顕すのであって、は、の関係にあるのである。


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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  1. 物事の根本的な意味。意義