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「常倫に…現前し」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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浄土論の訓
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*浄土論の訓
 
:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
 
:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
本願寺派原典版の訓
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*本願寺派原典版の訓
 
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
 
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
  
本願寺註釈版の訓
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*本願寺註釈版の訓
 
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
  
 
浄土論の訓では、浄土に於いては修行の環境が勝れているので、常倫の諸地の行を現前する意である。しかし、親鸞聖人は還相を、常倫に超出し、諸地の行が(娑婆世界)で現前することであると見られた。これが『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳」(みな普賢大士の徳に遵へり)という普賢菩薩の慈悲行を実践することとされた。
 
浄土論の訓では、浄土に於いては修行の環境が勝れているので、常倫の諸地の行を現前する意である。しかし、親鸞聖人は還相を、常倫に超出し、諸地の行が(娑婆世界)で現前することであると見られた。これが『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳」(みな普賢大士の徳に遵へり)という普賢菩薩の慈悲行を実践することとされた。

2012年6月27日 (水) 17:54時点における版

じょうりんに…げんぜんし

 通常は「常倫諸地の行を超出し、現前に」と読む。常倫はつねなみ、普通一般の意。 (行巻 P.193)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

読み方が三種類有る。

設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。
超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。


  • 浄土論の訓
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
  • 本願寺派原典版の訓
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
  • 本願寺註釈版の訓
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

浄土論の訓では、浄土に於いては修行の環境が勝れているので、常倫の諸地の行を現前する意である。しかし、親鸞聖人は還相を、常倫に超出し、諸地の行が(娑婆世界)で現前することであると見られた。これが『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳」(みな普賢大士の徳に遵へり)という普賢菩薩の慈悲行を実践することとされた。