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「常倫に…現前し」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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*浄土論の訓
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*浄土論註の訓
 
:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
 
:常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
  
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*本願寺派註釈版の訓
 
*本願寺派註釈版の訓
 
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
 
:常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
原典版及び註釈版は、除其本願の除外の係りが違うだけで文意は同じ。諸地の行とは十地の菩薩の利他行。
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原典版及び註釈版は、除其本願の除外の文のかかりが違うだけで文意は同じ。諸地の行とは一地から十地へという菩薩の階位における利他行。
  
『浄土論』の訓では、浄土は修行の環境が勝れているので、浄土に於いて常倫の諸地の行を現前する意である。娑婆世界においては、[[歴劫迂回の行]]を修して仏果に至るのであるが、浄土では娑婆のような常倫の菩薩の諸地(十地)の行を超出するというのが『浄土論』の訓であろう。<br />
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『浄土論註』の訓では、浄土は修行の環境が勝れているので、順次に菩薩の修行の段階を経るのではなく、常倫(つねなみのともがら)の修行階梯である諸地を超出する意である。娑婆世界においては、[[歴劫迂回の行]]を修して多くの劫を経て仏果に至るのであるが、浄土では常倫の菩薩の諸地(十地の階梯)の行を超出して上位の菩薩に成るというのが『浄土論註』の訓の意であろう。(七祖p.133) 「この経を案じてかの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来の、閻浮提における一の応化道なるのみ。他方の浄土はなんぞかならずしもかくのごとくならん。五種の不思議のなかに仏法もつとも不可思議なり。」(七祖p.134)とされる所以である。『浄土論註』の結論である「三願的証」において、第十八願、第十一願に続いて、第二十二願を重ねて引かれるのもその意である。<br />
しかし、親鸞聖人は、往生と同時に、常倫に超出して、十地の諸地の行が(娑婆世界)で現前する、という還相の相であると見られた。往生の徳として諸地の行が現前するのである。これがまさに『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳」(みな普賢大士の徳に遵へり)という普賢菩薩の慈悲行を実践することとされた。法蔵菩薩の菩提心(本願)に感動し、その菩提心に包まれて浄土へ往生する者には、智慧の必然としての大悲を行ずる利他行も用意されているというのである。<br />
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ところが、親鸞聖人は、第二十二願を還相を誓われた願とし、往生と同時に常倫に超出して諸地の行(普賢の徳)が娑婆世界で現前する、という還相の相であると見られた。往生浄土の徳として諸地の行が現前するのである。これがまさに『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳(みな普賢大士の徳に遵へり)」p.4  という普賢菩薩の慈悲行を実践することであるとされた。法蔵菩薩の菩提心(本願)に感動し、その菩提心に包まれて浄土へ往生する者には、智慧の必然としての大悲を行ずる利他行も用意されているというのである。<br />
 
以下の「讃阿弥陀仏偈和讃」の普賢の徳の左訓には、「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲をまうすなり」とある。
 
以下の「讃阿弥陀仏偈和讃」の普賢の徳の左訓には、「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲をまうすなり」とある。
  
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: 普賢の徳を修するなり 『[[高僧和讃#bo36|高僧和讃]]』
 
: 普賢の徳を修するなり 『[[高僧和讃#bo36|高僧和讃]]』
  
なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。
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なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相(還来穢国の相状)せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。
  
 
→[[常倫に]]
 
→[[常倫に]]
  
 
[[Category:追記]]
 
[[Category:追記]]

2015年11月9日 (月) 10:33時点における版

じょうりんに…げんぜんし

 通常は「常倫諸地の行を超出し、現前に」と読む。常倫はつねなみ、普通一般の意。 (行巻 P.193)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

第二十二願の読み方には三種類有る。

設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。
超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。


  • 浄土論註の訓
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
  • 本願寺派原典版の訓
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
  • 本願寺派註釈版の訓
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

原典版及び註釈版は、除其本願の除外の文のかかりが違うだけで文意は同じ。諸地の行とは一地から十地へという菩薩の階位における利他行。

『浄土論註』の訓では、浄土は修行の環境が勝れているので、順次に菩薩の修行の段階を経るのではなく、常倫(つねなみのともがら)の修行階梯である諸地を超出する意である。娑婆世界においては、歴劫迂回の行を修して多くの劫を経て仏果に至るのであるが、浄土では常倫の菩薩の諸地(十地の階梯)の行を超出して上位の菩薩に成るというのが『浄土論註』の訓の意であろう。(七祖p.133) 「この経を案じてかの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来の、閻浮提における一の応化道なるのみ。他方の浄土はなんぞかならずしもかくのごとくならん。五種の不思議のなかに仏法もつとも不可思議なり。」(七祖p.134)とされる所以である。『浄土論註』の結論である「三願的証」において、第十八願、第十一願に続いて、第二十二願を重ねて引かれるのもその意である。
ところが、親鸞聖人は、第二十二願を還相を誓われた願とし、往生と同時に常倫に超出して諸地の行(普賢の徳)が娑婆世界で現前する、という還相の相であると見られた。往生浄土の徳として諸地の行が現前するのである。これがまさに『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳(みな普賢大士の徳に遵へり)」p.4 という普賢菩薩の慈悲行を実践することであるとされた。法蔵菩薩の菩提心(本願)に感動し、その菩提心に包まれて浄土へ往生する者には、智慧の必然としての大悲を行ずる利他行も用意されているというのである。
以下の「讃阿弥陀仏偈和讃」の普賢の徳の左訓には、「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲をまうすなり」とある。

(17)

安楽無量の大菩薩
 一生補処にいたるなり
 普賢の徳に帰してこそ
 穢国にかならず化するなれ 『浄土和讃

(36)

還相の回向ととくことは
 利他教化の果をえしめ
 すなはち諸有に回入して
 普賢の徳を修するなり 『高僧和讃

なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相(還来穢国の相状)せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。

常倫に