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後鳥羽天皇御作無常講式

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年4月20日 (木) 11:47時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

『無常講式』は後鳥羽上皇(1180-1239、在位1183-1198)の作。内容は三段になっているが、ここでは『御文章』と関係の深い後鳥羽上皇が目のあたりにしたという情景の第二段を出す。
後鳥羽上皇は、法然聖人の吉水教団を弾圧し、専修念仏の停止と法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と、親鸞聖人ら中心的な門弟7人を流罪に処した。上皇は、承久の乱(1221年)によって隠岐島に流罪となり、そこで生涯を閉じられた。そのような後鳥羽上皇は、世の無常を感じ最後には、阿弥陀如来がまします浄土へ往生したいという意で、この『無常講式』を著されたのであろう。親鸞聖人は御消息(25)で、関東での念仏禁止の訴訟について尽力した性信に「このやうは、故聖人(源空)の御とき、この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず」と、この弾圧事件にふれられ「さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひしかば」と、念仏を弾圧する者は当然の報い(曲事とは、承久の乱による後鳥羽上皇の隠岐への遠島を指す)を受けるといわれている。 また、念仏をやめれば弾圧した者が報いを受けるので念仏を止めてはいけないとされる。


後鳥羽天皇御作無常講式

第二段

擧世如浮蝣。于朝死于夕死別者幾許哉。

世こぞって蜉蝣(かげろう)の如し。(あした)に死し、夕べに死して別れるものの幾許(いくばく)ぞや。

或昨日已埋 槽涙於墓下之者。

或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。

或今夜欲送 泣別棺前之人。凡無墓者人始中終、如幻者一朝過程也。

或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。

三界無常也。自古未聞有萬歳人身。一生易過。在今誰保百年形體。

三界無常なり。(いにしえ)よりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。今に(あり)て誰か百年の形體を保たん。

實我前人前。不知今日不知明日。後先人繁本滴末露。

(まこと)に、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の(しずく)、末の(つゆ)よりも繁し。

指厚野爲獨逝地築墳墓、爲永栖家。燒爲灰埋爲土。人成之終之資也。

厚野を指して獨り逝地に墳墓を築き、永く栖家となす。燒けば灰となり埋めて土となる。人の成りゆく終りの(すがた)なり。

嗚呼。撫雲鬢戲花間朝。百媚雖難別、先露命、臥蓬下。夕九相皆可捨爛一兩日過者悉傍眼。

ああ、雲鬢を撫でて花の間に(たわ)ふるは、(あした)に百媚と別れ難しといえども、露の命を先立ちて蓬の下に臥す。(ゆうべ)九相みな捨つべし、爛れて一兩日を過ぐる者、悉く眼を(そは)む。

臭三五里行人皆塞鼻。便利二道中白蠕蠢出。手足四支上青蠅飛集。

臭くして三五里を行く人、みな鼻を塞ぐ。便利二道の中より白き(むし)蠢き出で、手足四支の上に青蠅飛び集まる。

虎狼野干馳四方、置十二節於所々。鵄梟鵰鷲啄五藏、投五尺腸於色々。肉落皮剥但生髑髏、日曝雨洗、終朽成土。

虎狼・野干は四方に馳せて、十二節を所々に置きて鵄・梟・鵰・鷲は五藏を(くら)ひて、五尺の(はらわた)を色々に投ぐ。肉は落ち皮は剥げ、ただ(なま)しき髑髏、日に曝し雨に洗はる。終に朽ちて土と成んぬ、

雲鬢何収。華貌何壞。眼秋草生。首春苔繁。白樂天云、「故墓何世人。不知姓與名。和爲道頭土。年々春草生云云。」

雲鬢(いずく)にか収まる。華の(かんばせ)(いずく)か壞るる。眼には秋草の()ひ、首には春苔の繁し。白樂天の云く、「故墓、何れの世の人ぞ、姓と名を知らず、和して道の(ほとり)の土となして、年々に春の草生ふと」[1]云云。

西施顔色今何在。春風百草頭云云。

西施の顔色、今や(いず)くに在る。春の風、百草の(ほとり)に有るべしと、云云。

再生汝今過壯位。死衰將近閻魔王。欲往先路、無資糧。求住中間、無所止。

再び生れて、汝いま(さかり)なる位を過ぎたり。死し衰ろえて將に閻魔王に近ずかんと。先路に往かんと欲するに資糧なく、中間に(とど)むを求むるに所止なし。

一切有爲法如夢幻泡影。如露亦如電。應作如是觀。

一切の有爲の法は夢幻(ゆめまぼろし)の泡の影の如し。露の如く(いなびかり)の如し、かくの如きの觀をなすべし。


南無阿彌陀佛

「後鳥羽天皇御作無常講式」第二段。

参照:
仁和寺蔵後鳥羽天皇御作無常講式影印・翻刻並びに解説



  1. 白樂天に「古墓何代人 不知姓与名 化作路傍土 年年春草生(古墓何れの代の人ぞ 姓と名を知らず 化して路傍の土と作り 年年春草生ず)」とある。