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「持名鈔」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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【2】 しかるに仏道においてさまざまの門あり。いはゆる顕教・密教、大乗・
 
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小乗、[[権教実教|権教・実教]]、[[経家]]・[[論家]]、その部[[八宗|八宗・九宗]]にわかれ、その義千差
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万別なり。いづれも釈迦一仏の説なれば、利益みな甚深なり。説のごとく行ぜ
 
万別なり。いづれも釈迦一仏の説なれば、利益みな甚深なり。説のごとく行ぜ
 
ばともに生死を出づべし、教のごとく修せばことごとく菩提を得べし。ただ
 
ばともに生死を出づべし、教のごとく修せばことごとく菩提を得べし。ただ

2010年1月10日 (日) 10:28時点における版

 本書は書名に「持名」とあるように、南無阿弥陀仏の名を持つことで、一向専修の念仏を勧めることをその根本主張とするものである。

 本書は本末2巻に分れている。本巻においては、まず生死を離れ仏道を求めるべきことを述べ、求道心を確立すべきことを勧め、ついで仏教に八家九宗あるなか、聖道門の教えを捨てて、念仏往生の一門に帰すべきことが説かれる。今の世は末法であり、この末代相応の要法、決定往生の正因は専修念仏の一行であるというのである。この旨を浄土三部経や善導大師の釈によって詳論し、それを法然上人、親鸞聖人が伝承されていることが記されている。また念仏の功徳について、天台大師智や慈恩大師窺基の釈でもって説明し、念仏一行が諸行よりすぐれている点を讃仰されている。

 末巻においては、3問答をあげて浄土真宗の要義を述べられている。第1問答においては、親鸞聖人の一流を汲む念仏者は神明につかえるべきでないことが教示されている。第2問答においては、念仏の行者が諸仏菩薩の擁護と諸天善神の加護を受けるというが、それは浄土に往生させるために、ただ行者の信心を守護したもうのみか、あるいは今生の穢体をまもり、もろもろの願いをも成就させんためかと問い、仏菩薩は信心をまもることを本意とするが、さらに信心の行者も護られ、現世と後生に大きな利益を得ると論じられている。第3問答では、信心と念仏の関係について論じ、一向専修の念仏は信心を具足した他力念仏であるとして、信心具足の念仏を勧められて

持名鈔

持名鈔 本

【1】 ひそかにおもんみれば、人身うけがたく仏教あひがたし。しかるにい ま、片州なれども人身をうけ、末代なれども仏教にあへり。生死をはなれて 仏果にいたらんこと、いままさしくこれときなり。このたびつとめずして、もし 三途にかへりなば、まことに宝の山に入りて、手をむなしくしてかへらんがご とし。なかんづくに、無常のかなしみはまなこのまへにみてり、ひとりとして もたれかのがるべき。三悪の火坑はあしのしたにあり、仏法を行ぜずはいかで かまぬかれん。みなひとこころをおなじくして、ねんごろに仏道をもとむべし。


【2】 しかるに仏道においてさまざまの門あり。いはゆる顕教・密教、大乗・ 小乗、権教・実教経家論家、その部八宗・九宗にわかれ、その義千差 万別なり。いづれも釈迦一仏の説なれば、利益みな甚深なり。説のごとく行ぜ ばともに生死を出づべし、教のごとく修せばことごとく菩提を得べし。ただ し、時末法におよび、機下根になりて、かの諸行においては、その行成就 して仏果をえんことはなはだ難し。いはゆる釈尊の滅後において、正像末の 三時あり。そのうち正法千年のあひだは教・行・証の三つともに具足しき、 像法千年のあひだは教行ありといへども証果のひとなし、末法万年のあひだ は教のみありて行証はなし。今の世はすなはち末法のはじめなれば、ただ諸 宗の教門はあれども、まことに行をたて証をうるひとはまれなるべし。され ば智慧をみがきて煩悩を断ぜんこともかなひがたく、こころをしづめて禅定 を修せんこともありがたし。


【3】 ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この 門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願 に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修 といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一 切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生 の業とす。そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆ ゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師 なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがため に、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟の むかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等 のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてそ の本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と 誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。 如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。これによりて 釈尊はこの法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したま へり。かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸 仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。諸行はしからず。弥陀選択の本 願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。


【4】 されば善導和尚の『往生礼讃』(六五九)のなかに、くはしく二行の得 失をあげられたり。まづ専修の得をほめていはく、「もしよく上のごとく念々 相続して、畢命を期とするものは、十はすなはち十ながら生れ、百はすなは ち百ながら生る。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆ ゑに、仏の本願に相応するがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順す るがゆゑに」といへり。「外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに」といふは、 雑行雑善をくはへざれば、そのこころ散乱せずして一心の正念に住すとな り。「仏の本願と相応するがゆゑに」といふは、弥陀の本願にかなふといふ。 「教に違せざるがゆゑに」といふは、釈尊のをしへに違はずとなり。「仏語に 随順するがゆゑに」といふは、諸仏のみことにしたがふとなり。

 つぎに雑修の失をあげていはく、「もし専を捨てて雑業を修せんとするもの は、百のときにまれに一二を得、千のときにまれに五三を得。なにをもつての ゆゑに。雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるに よるがゆゑに、教と相違するがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せ ざるがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、 貪・瞋・諸見の煩悩きたりて間断するがゆゑに、慚愧してとがをくゆることな きがゆゑに、また相続して仏恩を念報せざるがゆゑに、心に軽慢を生じて業行 をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、人我みづから覆ひて同 行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽ひて雑縁にちかづきて、往生の正行を 自障障他するがゆゑに」といへり。雑修のひとは弥陀の本願にそむき、釈迦 の所説にたがひ、諸仏の証誠にかなはずときこえたり。

 なほかさねて二行の得失を判じていはく、「意をもつぱらにしてなすもの は、十はすなはち十ながら生る。雑を修して心を至さざるものは、千のなかに ひとりもなし」といへり。雑修のひとの往生しがたきことをいふに、はじめ には、しばらく百のときに一二をゆるし、千のときに五三を挙ぐといへども、 のちにはつひに千人のなかにひとりもゆかずと定む。三昧発得の人師、ことば を尽して釈したまへり。もつともこれを仰ぐべし。


【5】 おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸 行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判 ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑ に源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひ とは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

 しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなか に難し」といへるは、『経』(大経・下)の文なれば、まことにことわりなるべし。 そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をす てがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。 これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰 すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、 念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

 おほよそ持戒・坐禅のつとめも転経誦呪の善も、その門に入りて行ぜん に、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行なるがゆ ゑに、凡夫の身には成じがたし。われらも過去には三恒河沙の諸仏のみもとに して、大菩提心を発して仏道を修せしかども、自力かなはずしていままで流転 の凡夫となれり。いまこの身にてその行を修せば、行業成ぜずしてさだめて 生死を出でがたし。されば善導和尚の釈(散善義 四七二)に、「わが身無際 よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他 はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位にすすみて、因まどかに果熟す。 聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで、 虚然として流浪す」といへるはこのこころなり。しかれば、仏道修行は、よく よく機と教との分限をはかりてこれを行ずべきなり。すべからく末法相応の易 行に帰して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。


【6】 そもそも、この念仏はたもちやすきばかりにて功徳は余行よりも劣なら ば、おなじくつとめながらもそのいさみなかるべきに、行じやすくして功徳は 諸行にすぐれ、修しやすくして勝利は余善にすぐれたり。弥陀は諸仏の本師、 念仏は諸教の肝心なるがゆゑなり。これによりて、『大経』には一念をもつて 大利無上の功徳と説き、『小経』には念仏をもつて多善根福徳の因縁とする むねを説き、『観経』には念仏の行者をほめて人中の分陀利華にたとへ、『般舟経』 (意)には「三世の諸仏みな弥陀三昧によりて正覚を成る」と説けり。 このゆゑに善導和尚の釈(定善義 四三七)にいはく、「自余衆善 雖名是善  若比念仏者 全非比校也」といへり。こころは、「自余のもろもろの善も、こ れ善と名づくといへども、もし念仏にたくらぶれば、まつたくならべたくらぶ べきにあらず」となり。またいはく、「念仏三昧 功能超絶 実非雑善 得為比類」 (散善義 四九九)といへり。こころは、「念仏三昧の功能、余善に超えす ぐれて、まことに雑善をもつてたぐひとすることを得るにあらず」となり。

 ただ浄土の一宗のみ念仏の行をたふとむにあらず。他宗の高祖またおほく 弥陀をほめたり。天台大師(智顗)の釈(摩訶止観)にいはく、「若唱弥陀  即是唱十方仏 功徳正等 但専以弥陀 為法門主」といへり。こころは、 「もし弥陀を唱ふれば、すなはちこれ十方の仏を唱ふると功徳まさにひとし。 ただもつぱら弥陀をもつて法門の主とす」となり。また慈恩大師の釈(西方要 決)にいはく、「諸仏願行 成此果名 但能念号 具包衆徳」といへり。ここ ろは、「諸仏の願行、この果の名を成ず。ただよく号を念ずれば、つぶさにもろもろの徳を包ぬ」となり。おほよそ諸宗の人師、念仏をほめ西方をすすむ ること、挙げてかぞふべからず。しげきがゆゑにこれを略す。ゆめゆめ念仏の 功徳をおとしめおもふことなかれ。


【7】 しかるにひとつねにおもへらく、つたなきものの行ずる法なれば念仏の 功徳は劣るべし、たふときひとの修する教なれば諸教は勝るべしとおもへり。 その義しからず。下根のもののすくはるべき法なるがゆゑに、ことに最上の 法とはしらるるなり。ゆゑいかんとなれば、薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病 をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。 機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機 には念仏をすすむ。これすなはち、戒行まつたく、智慧もあらんひとは、 たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたす けつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごと し。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かる がゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、 ことにしらるるなり。されば『選択集』(一二五八)のなかに、「極悪最下の 人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵 の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五 逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、 なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

 そもそも、弥陀如来の利益のことにすぐれたまへることは、煩悩具足の凡夫 の界外の報土に生るるがゆゑなり。善導和尚の釈(法事讃・下 五五二)にいは く、「一切仏土皆厳浄 凡夫乱想恐難生 如来別指西方国 従是超過十万億」 といへり。こころは、「一切の仏土はみないつくしくきよけれども、凡夫の乱想 おそらくは生れがたし。如来別して西方国をさしたまふ。これより十万億を 超え過ぎたり」となり。ことに阿閦宝生の浄土もたへにしてすぐれたり。 密厳華蔵の宝刹もきよくしてめでたけれども、乱想の凡夫はかげをもささず、 具縛のわれらはのぞみをたてり。しかるに阿弥陀如来の本願は、十悪も五逆も みな摂して、きらはるるものもなく、すてらるるものもなし。安養の浄土は謗 法も闡提もおなじく生れて、もるるひともなく、のこるひともなし。諸仏の浄 土にきらはれたる五障の女人は、かたじけなく聞名往生の益にあづかり、無間の炎にまつはるべき五逆の罪人は、すでに滅罪得生の証をあらはす。されば 超世の悲願ともなづけ、不共の利生とも号す。かかる殊勝の法なるがゆゑに、 これを行ずれば諸仏・菩薩の擁護にあづかり、これを修すれば諸天・善神の加 護をかうぶる。ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。

持名鈔 本

持名鈔 末

【8】 問うていはく、念仏の行者、神明に事うまつらんこと、いかがはんべる べき。

 答へていはく、余流の所談はしらず、親鸞聖人の勧化のごときは、これをい ましめられたり。いはゆる『教行証の文類』の六(化身土巻)に諸経の文を 引きて、仏法に帰せんものは、その余の天神・地祇に事うまつるべからざる旨 を判ぜられたり。この義のごときは念仏の行者にかぎらず、総じて仏法を行じ 仏弟子につらならんともがらは、これに事ふべからずとみえたり。しかれども、 ひとみなしからず、さだめて存ずるところあるか。それを是非するにはあら ず。聖人(親鸞)の一流におきては、もつともその所判をまもるべきものを や。おほよそ神明につきて権社・実社の不同ありといへども、内証はしらず、 まづ示同のおもてはみなこれ輪廻の果報、なほまた九十五種の外道のうちな り。仏道を行ぜんもの、これを事とすべからず。ただしこれに事へずとも、もつ ぱらかの神慮にはかなふべきなり。これすなはち和光同塵は結縁のはじめ、 八相成道利物のをはりなるゆゑに、垂迹の本意は、しかしながら衆生に縁を 結びてつひに仏道に入らしめんがためなれば、真実念仏の行者になりてこのた び生死をはなれば、神明ことによろこびをいだき、権現さだめて笑みを含みた まふべし。一切の神祇冥道、念仏のひとを擁護すといへるはこのゆゑなり。


【9】 問うていはく、念仏の行者は、諸仏・菩薩の擁護にもあづかり、諸天・ 善神の加護をもかうぶるべしといふは、浄土に往生せしめんがためにただ信 心を守護したまふか、また今生の穢体をもまもりてもろもろの所願をも成就 せしめたまふか。あきらかにこれをきかんとおもふ。

 答へていはく、かの仏の心光、このひとを摂護して捨てずともいひ、六方の 諸仏、信心を護念すとも釈すれば、信心をまもりたまふことは仏の本意なれば 申すにおよばず。しかれども、まことの信心をうるひとは、現世にもその益に あづかるなり。いはゆる善導和尚の『観念法門』に、『観仏三昧経』・『十往 生経』・『浄土三昧経』・『般舟三昧経』等の諸経を引きて、一心に弥陀に帰 して往生をねがふものには、諸仏・菩薩かげのごとくにしたがひ、諸天・善 神昼夜に守護して、一切の災障おのづからのぞこり、もろもろのねがひかな らずみつべき義を釈したまへり。  されば阿弥陀仏は、現世・後生の利益ともにすぐれたまへるを、浄土の三部経 経には後生の利益ばかりを説けり、余経にはおほく現世の益をもあかせり。か の『金光明経』は鎮護国家の妙典なり。かるがゆゑに、この経より説きいだす ところの仏・菩薩をば、護国の仏・菩薩とす。しかるに正宗四品のうち、「寿 量品」を説きたまへるは、すなはち西方の阿弥陀如来なり。これによりて阿弥 陀仏をば、ことに息災延命、護国の仏とす。かの天竺(印度)に毘舎離国といふ 国あり。その国に五種の疫癘おこりて、ひとごとにのがるるものなかりしに、 月蓋長者、釈迦如来にまゐりて、「いかにしてかこの病をまぬかるべき」と申 ししかば、「西方極楽世界の阿弥陀仏を念じたてまつれ」と仰せられけり。さ て家にかへりて、をしへのごとく念じたてまつりければ、弥陀・観音・勢至の 三尊、長者の家に来りたまひしとき、五種の疫神まのあたりひとの目にみえ て、すなはち国土を出でぬ。ときにあたりて、国のうちの病ことごとくすみや かにやみにき。そのとき現じたまへりし三尊の形像を、月蓋長者、閻浮檀金 をもつて鋳うつしたてまつりけり。その像といふは、いまの善光寺の如来これ なり。霊験まことに厳重なり。またわが朝には、嵯峨の天皇の御時、天下に 日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづれ の行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師(最澄)に勅問あり しかば、「七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず」とぞ申されける。おほよ そ弥陀の利生にて、わざはひをはらひ難をのぞきたるためし、異国にも本朝 にもそのあとこれおほし。つぶさにしるすにいとまあらず。されば国の災難を 鎮め、身の不祥をはらはんとおもはんにも、名号の功用にはしかざるなり。

 ただし、これはただ念仏の利益の現当かねたることをあらはすなり。しか りといへども、まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏を もつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念 仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩経 』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成 就すべきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひ とありて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いでき ぬれば、藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を 得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは 稲を得ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果を ば得ずとなり。

 経釈ののぶるところかくのごとし。ただし、今生をまもりたまふことは、 もとより仏の本意にあらず。かるがゆゑに、前業もしつよくは、これを転ぜぬ こともおのづからあるべし。後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本 懐なり。かるがゆゑに、無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべ し。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆ めゆめ往生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかる まじきことは聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をい たして一向に念仏を行ずべきなり。


【10】 問うていはく、真実の信心をえてかならず往生を得べしといふこと、 いまだそのこころをえず。南無阿弥陀仏といふは、弥陀の本願なるがゆゑに決 定往生の業因ならば、これを口にふれんもの、みな往生すべし、なんぞわづ らはしく信心を具すべしといふや。また信心といふは、いかやうなるこころを いふぞや。

 答へていはく、南無阿弥陀仏といへる行体は往生の正業なり。しかれど も、機に信ずると信ぜざるとの不同あるがゆゑに、往生を得ると得ざるとの 差別あり。かるがゆゑに、『大経』には三信と説き、『観経』には三心と示し、 『小経』には一心とあかせり。これみな信心をあらはすことばなり。このゆ ゑに、源空聖人は、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには 信をもつて能入とす」(選択集 一二四八)と判じ、親鸞聖人は、「よく一念喜愛の心 を発せば、煩悩を断ぜずして涅槃を得」(正信偈)と釈したまへり。他 力の信心を成就して報土の往生を得べしといふこと、すでにあきらかなり。 その信心といふは、疑なきをもつて信とす。いはゆる仏語に随順してこれを 疑はず、ただ師教をまもりてこれに違せざるなり。

 おほよそ無始よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いま ながき輪廻のきづなをきりて無為の浄土に生ぜんこと、釈迦・弥陀二世尊の大 悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先徳・善知識の恩徳にあらずと いふことなし。そのゆゑは、われらがありさまをおもふに、地獄・餓鬼・畜生 の三悪をまぬかれんこと、道理としてはあるまじきことなり。十悪・三毒、身 にまつはれて、とこしなへに輪廻生死の因をつみ、五塵六欲こころに染みて、 ほしいままに三有流転の業をかさぬ。五篇・七聚の戒品ひとつとしてこれをた もつことなく、六度・四摂の功徳ひとつとしてこころにもかけず。朝な夕なに おこすところはみな妄念、とにもかくにもきざすところはことごとく悪業なり。 かかる罪障の凡夫にては、人中・天上の果報を得んこともなほかたかるべし。 いかにいはんや出過三界の浄土に生れんことは、おもひよらぬことなり。

 ここに弥陀如来、無縁の慈悲にもよほされ、深重の弘願を発して、ことに 罪悪生死の凡夫をたすけ、ねんごろに称名往生の易行を授けたまへり。こ れを行じこれを信ずるものは、ながく六道生死の苦域を出でて、あまつさへ 無為無漏の報土に生れんことは、不可思議のさいはひなり。しかるに弥陀如来 超世の本願を発したまふとも、釈迦如来これを説きのべたまはずは、娑婆の 衆生いかでか出離のみちをしらん。されば『法事讃』(下 五八七)の釈に、 不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞」といへり。こころは、「釈迦仏のをしへ にあらずは、弥陀の名願いづれのときにかきかん」となり。たとひまた、釈 尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の 往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相 承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まこ とに連劫累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり。これによりて善導和 尚の解釈(観念法門・意 六三七)をうかがふに、「身を粉にし骨を砕きても、 仏法の恩をば報ずべし」とみえたり。これすなはち、仏法のためには身命を もすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。このゆゑに『摩訶止観』(意) のなかには、「一日にみたび恒沙の身命を捨つとも、なほ一句の力を報ずるこ とあたはじ。いはんや両肩に荷負して百千万劫すとも、むしろ仏法の恩を報 ぜんや」といへり。恒沙の身命を捨てても、なほ一句の法門をきける報ひに はおよばず。まして順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身と なりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜し むべからず。いはんや財宝をや。このゆゑに斯琴王の私訶提仏に仕へ、梵摩達 が珍宝比丘に仕へし〔に〕飲食・衣服・臥具・医薬の四事の供養をのべき。こ れみな念仏三昧の法をきかんがためなり。おほよそ仏法にあふことは、おぼろげ の縁にてはかなはず、おろかなるこころざしにてはとげがたきことなり。 大王の妙法をもとめし給仕を千載にいたし、常啼の般若をききし五百由旬の城 にいたる。されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、 世をもそむかず名利にもまつはれながらめでたき無上の仏法をききて、なが く輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。まことに これ、本師知識の恩徳にあらずといふことなし。ちからの堪へんにしたがひて、 いかでか報謝のこころざしをぬきいでざらんや。『長阿含経』のなかに、 師長に仕うまつるに五つのことあることを説けり。「一つには給仕をいたし、 二つには礼敬供養す、三つには尊重頂戴す、四つには師、教勅あれば敬 順してたがふことなし、五つには師にしたがひて法をきき、よくたもちてわす れず」といへり。しかれば、きくところの法をよくたもち、その命をすこしも そむかず、こころざしをぬきいでて給仕・供養をいたし、まことをはげまして 尊重・礼敬すべきなり。

 これすなはち、木像ものいはざればみづから仏教をのべず、経典くちなけ ればてづから法門を説くことなし。このゆゑに仏法を授くる師範をもつて、滅 後の如来とたのむべきがゆゑなり。しかのみならず善導和尚は「同行・善知 識に親近せよ」(礼讃・意 六六〇)とすすめ、慈恩大師は「同縁のともを敬へ」 (西方要決)とのべられたり。そのゆゑは、善知識にちかづきてはつねに仏法 を聴聞し、同行にむつびては信心をみがくべしといふこころなり。わろから んことをばたがひにいさめ、ひがまんことをばもろともにたすけて、正路にお もむかしめんがためなり。かるがゆゑに、師のをしへをたもつはすなはち仏 教をたもつなり、師の恩を報ずるはすなはち仏恩を報ずるなり。同行のこと ばをもちゐては、すなはち諸仏のみことを信ずるおもひをなすべし。他力の大 信心をうるひとは、その内証、如来にひとしきいはれあるがゆゑなり。

持名鈔 末