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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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2019年12月29日 (日) 00:43時点における版

ごう

 梵語カルマン(karman)の漢訳。広い意味の行為のこと。通例、身口意(からだ・言葉・心)の三業に分ける。→三業 (さんごう)、補註5

 【左訓】「なりはひ」(唯信 P.1340)

 往生浄土の業因。 (法事讃 P.573)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ごう 業

 梵語カルマン(karman) の意訳。広い意味の行為、結果を引き起こすはたらきをいう。元来、仏教における業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場に拠る業論である。それは、衆縁によって成り立つ自己を、縁起的存在であるとし、固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調するものである。
 なお親鸞には、法蔵菩薩本願よりおこる「智慧清浄の業」、その果徳としての阿弥陀仏の「大願業力」などと用いられる場合、また阿弥陀仏光明に映し出される煩悩具足凡夫のすがたを、機の深信として表白(ひょうびゃく)されたときに「罪業深重(ざいごう-じんじゅう)」などと用いられる場合、本願力回向大行大信について「本願名号正定業(ほんがんみょうごう-しょうじょうごう)」「称名正定業(しょうみょう-しょうじょうごう)」「至心信楽(ししんしんぎょう)業因(ごういん)」などと用いられる場合の3種の用法がある。→宿業 (浄土真宗辞典)

Dharma wheel

補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

5 業(ごう)・宿業(しゅくごう)

 業とは、梵語カルマン(karman)の漢訳であり、広い意味の行為のことで、おこない、はたらきのことである。通常、身口意の三業に分ける。また行為の結果、すなわち「善因楽果、悪因苦果」といわれるように、業による報いとしての業報の意味も含めて用いられる。

 元来仏教の業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場に立つ業論である。それは衆縁(しゅえん)によって成り立つ自己を、縁起的存在であるとみ、固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調する立場であった。

 ことに親鸞聖人が用いられた業には、三つの用法があったとうかがえる。第一は、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)本願よりおこる「智慧(ちえ)清浄(しょうじょう)の業」と、その果徳としての阿弥陀仏の「大願(だいがん)業力(ごうりき)」とであり、第二には、その阿弥陀仏の大智大悲の光明(こうみょう)に映し出され、あきらかに知らされた煩悩具足凡夫(ぼんぶ)のすがたを、機の深信(じんしん)として表白(ひょうびゃく)されたときに用いられる「罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)」の業である。第三には、かかる罪業深重の私の上に、如来より回向(えこう)された大行(だいぎょう)大信(だいしん)を「本願名号(ほんがん-みょうごう)正定業(しょうじょうごう)」とか、「称名正定業」とか、「至心(ししん)信楽(しんぎょう)の業因」といわれるときの業がそれである。従来の浄土真宗の業に対する誤解は、その第二の用法にみられる「罪業」とか「業障(ごっしょう)」という言葉だけが、機の深信から切り離されて取り上げられたところから生ずるものである。

 『歎異抄』第十三条の宿業説は、悪をつつしみ、善人にならねば救われないと主張する異義を破るために、機の深信の立場に立って、煩悩具足の凡夫という存在をあらわそうとされたものである。宿業とは、宿世(過去世)の行為とその報いという意味の言葉であるが、現実の自己が限りない過去とつながっているという宗教的な見方を強調する言葉として用いられていた。そこで『歎異抄』はこの言葉を用いて、人間は自己の思いのままにすぐに善人になれるほど単純なものではなく、縁によってどのようなふるまいをするかわからない存在であり、自分でも手のつけようのない煩悩の深みをもつものであるという人間のありさまをあらわそうとしたのである。こうして『歎異抄』の宿業説は、「さればよきことも、あしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ」といわれるように、法の深信と一つに組みあって自力無功と信知する機の深信の内容としてのみ用いられるものであった。

 この業、宿業の語が、仏教、ことに浄土教において誤って用いられた例が多い。「因果応報」というような表現をもって固定的な因果論を説き、現実社会の貧富、心身の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴までもが、その人の個人の前世の業の結果によるものと理解させ、貴賤、浄穢というような差別を助長し、それによって一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方で被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。

 例えば、『大経』(下 62)の「五善五悪」(一般に「五悪段」と呼ばれる)に、「強きものは弱きを(ぶく)し、うたたあひ剋賊(こくぞく)し、残害殺戮(せつろく)してたがひにあひ呑噬(とんぜい)す(中略)神明(じんみょう)記識(きし)して、犯せるものを(ゆる)さず。ゆゑに貧窮(びんぐ)・下賤・乞丐(こつがい)・孤独・(ろう)・盲・(おんあ)・愚痴・弊悪(へいあく)のものありて(中略)また尊貴・豪富・高才(こうざい)明達(みょうだつ)なるものあり。みな宿世に慈孝(じきょう)ありて、善を修し徳を積むの致すところによる」と説かれたものを、江戸時代の説教などでは、これは現在の果を見て過去の因を知らしめるもので、現世の貴賤、貧富や、心身の障害も、すべてその人の過去世の業(宿業)の報いであると教えたものと解説してきた。

こうして政治的につくりあげられた封建的な身分差別までも、すべて個人の業報であると説くことによって、社会的身分制度を正当化するような役割を果してきたのであった。このような宿業理解は近年までつづいている。すなわち、仏教は因果応報という天地宇宙の真理を説くもので、自己の幸、不幸は、あくまで自己の負うべきもので、いかなる不幸や逆境に遭遇しても愚痴や不平をいわず、他人をうらまず、その原因は自己にあることを知り懺悔(さんげ)して自己の欠点をあらため、善(よ)き因(たね)をまくようにしなければならないというふうに解説するものも少なくなかった。しかし現実の幸、不幸の原因のすべてを本人の宿業のせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことはむしろ縁起の道理にそむく見解である。

 現実の矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであり、それによってもたらされた不幸を、被害者である本人の責任に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらさせてしまうような業論が説かれるならば、それは誤りであるといわねばならない。

 浄土真宗では『大経』の「五悪段」は、第十八願成就文(じょうじゅもん)逆謗(ぎゃくほう)抑止(おくし)の教意を広く説かれたものと領解(りょうげ)されてきた。すなわち、未信者に対しては、悪を(いまし)めつつ自身の罪悪を知らしめて本願の念仏に導き、信者に対しては、機の深信の立場から、自身をつねに顧みて、五悪をつつしみ、五善をつとめるように信後の倫理生活を勧誡されたものとうけとめられてきたのである。このように宗教的倫理を勧めたものであるかぎり、現実を過去によって正当化することを目的として説かれたものではなく、現実の生き方を誡めて、正しい未来を開くための教説であるとしなければならない。ところがそのことを強調するために功績と褒賞、犯罪と刑罰というような因果の関係をすべてにおよぼすという論理が用いられている。たしかにわかりやすい倫理説である。   しかしそれはどこまでも悪を誡めて善をすすめるという本来の目的にそって領解されなければならない。もしそうでなくて現実に存在するさまざまな社会的な差別事象や、個人的な幸、不幸を説明するための教説と受けとるならば、すべての不幸は、その人の過去世の悪業の報いとしての罰であり、すべての幸福は過去の善行に対する褒賞であるという固定的な現実理解を生み出し、教説の本意から外れていくことになるであろう。さきにあげた説教などにおける教説の誤用はそこから生れてきたのである。ことにこのような説が輪廻(りんね)転生(てんしょう)という一種の宗教的な考え方に裏づけられたとき、それの誤解は人間の心の深い領域までも決定するような力を持ってくる。すべての不幸を罰として受けとるというような社会意識も、そこから生れてきたのである。「五悪段」の成立や翻訳には、その当時の時代背景や思想の影響があったことを十分留意して経の真意を読みとっていかねばならない。『大経』は、一切の不幸を罰として甘受せよと教えてはいなかった。あらゆる人々の苦悩を共感する大悲心をもって、苦悩の衆生(しゅじょう)を背負って立ちたもう阿弥陀仏の大願業力(だいがんごうりき)が、衆生の煩悩悪業を転じて、涅槃(ねはん)浄土にあらしめるという救いを説く経典であるかぎり、「五悪段」の経説も大悲救苦の仏意にたって領解しなければならない。

 なお、宿業とよく似た語であるが、意味の異なるものに宿善(しゅくぜん)ということがいわれる。宿善とは、「宿世の善因縁」ということで、信心を得るための過去の善き因縁という意味である。蓮如(れんにょ)上人が『御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』(末 1307)に、「宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」といわれたように、宿善の体は如来のお育てのはたらきであるとあおぐべきである。もともと宿善とは、他力の信心を得た上で、過去をふりかえって、仏のお育てをよろこぶものである。すなわち、獲信(ぎゃくしん)以前になしたさまざまな行善(ぎょうぜん)は、そのときは自力のつもりであったが、ふりかえってみると、他力の仏意に気づかせるための如来のお育てであったといただくものである。これを宿善の当相は自力だが、その体は他力であるといいならわしている。 (持名鈔 P.1013,一代記 P.1263)  

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


オンライン版 仏教辞典より転送

saṃgati, saṃ-√sṛj, saṃsarga, saṃnikarṣa (S)、phrad par ḥgyur ba (T)

 二つのものが結びつくこと。結合。 〔倶舎論30〕

 サーンキヤ学派で想定する、精神と物質との結合。プルシャ(purṣa)とプラクリティ(prakṛti)との結合。

 ヴァイシェーシカ学派では、二つの実体の結合すること。これは性質( guṇa)の一つとみなされる。

 ともにあること。二つのものがともに存在すること。(yamaka, saha-bhāba)

 因明で、五分作法における第4支。適用。大前提()を主張命題の主語()に適用すること。upasaṃhāra(S)〔因明正理門論

従縁不合生 a-sāmagrī-kṛta 〔中論20・24〕
衆縁合 sāmagrī 〔中論20・7,8〕
従縁合生 sāmagrī-kṛta 〔中論20・24〕

karman कर्मन् (S)、kamma कम्म (P)

 サンスクリットの「カルマン」(karman)は動詞の「クリ」(kṛ)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じた名詞である。したがって、「なすことそれ自身」という意味であって、古人が「造作」の義と言い伝えてきたとおり、動作の抽象的非人格的なものを言う。そこには、一般に言われている「なすもの」「なされたこと」「つくられたもの」などの意味はない。

釈迦以前の業

 インドにおいて、古い時代から重要視された。ベーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。

 善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
 善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる
以上『百道梵書』(Śatapathā-brāhmana)

 このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。

 あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある
『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

 インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論や宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。
 ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。

釈迦の立場

 このような風潮の中で釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去乃至未来乃至現在の応供等正覚者は業論者、業果論者、精進論者であった」といわれたといわれるように、正しい因果論の主張者であった。しかも、それは釈迦の根本的立場であった無我論のうえに説かれたものであるから、は明らかにその字義通りの「造作」であり、「行為それ自身」として考えられ、それを実体視することはなかった。

業力

 しかし、業が行為それ自身であるということは、単に刹那に生滅するものとして刹那的なものではなく、そこには力の余勢というものが当然考えられねばならない。すなわち、業は業ということだけでなく、業の力、業力として考えられた。
 は刹那に生滅するもののままで、将来への余勢を残すものとして、単に身体や言葉にあらわれるだけでなく、心への印象として、また心の働きとして重視すべきであると考えられる。このことが仏教で後に業の体は心所であるといわれるようになった。
 仏教では心を造作せしめる働きとして、善悪等の心を働かさせる力として業を考えたので、これをまず思業となづけ、思の所作を思已業と名づける。

二業・三業

 の主体は善悪の心を働かせる思(cetanā)という心のはたらきにあるという点で、その思に相応する意を主として、これを意業とよび、思の所作は身体と言語のうえに具体的に現われるから、思已業について、それを身業語業(=口業)とにわける。かくて、業は思業思已業の二業説から、身口意の三業説になる。

五業

 意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業語業は具体的な表現となって現われる。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kāya-vijñapti-karman)といい、語業を語表業(vāg-vijñapti-karman)という。
 このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業(しんむひょうごう、kāya-avijñapti-karman)、語無表業(vāg-avijñapti-karman)という。このようにして、初めの意業と身語二業の表無表の四業とで五業説を形成する。

 いま、これらの業の分類を通して、仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。釈迦が

人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる〔スッタニパータ、136〕

といわれるのも、この業説のうえに立っていわれたのである。さらに、このような人間の行為についての因果論的立場は、単に現実の身体的行動や言語活動の上にいわれるものでなく、その根本を人間の精神に位置づけるのが仏教であり、道徳的には結果論でなく、動機論の立場をとるものであることを示している。
 ところで、この厳格な因果関係について、仏教は三時業ということを説いて、因果の連鎖を三世、あるいはそれ以上の世代にまで及ぼし、業の永遠性を説いている点に注意しなければならない。このことは因が結果となることは必ず条件(縁)によるものであることを示すとともに、因であること自体、実は結果である現実に立ってこそ因といわれることを示している。より具体的には果となった時、因が因として働きを完了するのであるから、果とならなければ因とはいえないはずである。
 たとえば、たとえ種子を大地におろしたとしても、条件次第で種子は敗種となってしまう。この点、因果応報は明らかであっても、その応報は因の働きをなさしめる条件次第であるといわねぱならない。仏教はこのように縁を強調することによって、人間の現実を生きる姿勢を正すべきことを教えるものである。良因、良縁のととのった時に良果がえられるので、良因のみで良縁がないならば、良因もその働きを完了することができなく、ついに敗種となる。といっても悪因はたとい条件がよくても、良果とはならないのはいうまでもないが、悪因も良因とともに条件次第で、それを敗種たらしめることが可能であることは注意すべきである。

三時業

 いま、ここにいう三時業とは

  1. 順現業(じゅんげんごう、dṛṣṭa-dharma-vedanīyaṃ karma) 現在法において受くべき業
  2. 順生業(じゅんしょうごう、upapadya-vedanīyaṃ karma) 再生して受くべき業
  3. 順後業(じゅんごごう、aparaparyāya-vedanīyaṃ karma) 他生において受くべき業
  4. 順不定業(じゅんふじょうごう、aniyatāvedanīyaṃ karma) 不定に受けらるべき業

の4種である。
 このように果報を受ける生について4種を立てるのは、業がすべて果についていわれているということで、業そのものから果を見ているのではない。これが仏教の立場を示している。

業道

 とは心の造作であるから、その造作が具体的に働いてゆくところを業道という。すなわち、思という心の造作は貪欲とか瞋恚とかいうものによって、具体的に働くから、このような思を具体的に働かしめるものを業の道、業道というのである。その業道について十不善業道、十善業道を説いている。この中、十不善業道(daśākuśalakarma-pathā)とは殺生、偸盗、邪淫の身体的なもの、妄語、綺語、悪口、両舌の言語的なもの、貪欲、瞋恚、邪見の心的なものの十種の不善をいうのである。思はこのような十種の不善を業道として働くわけである。十善業道については、十不善業道から反顕してしるべきである。

業と因果応報

 善悪等の人間の行為と苦や楽の果報とに関して、業が問題となる。業の善・悪・無記の三性のように道徳的な立場で問題とされ、善因楽果、悪因苦果と人間の生活の中での因果応報との結びつきが説かれる。
 業因業果と業の働きの相続を説く場合、その業力はどうして相続するか。この点が明らかにならねばならないので、業力を何らか把握しうるものとして考えようとするものがでた。
 説一切有部では、その業の体性(ものがら)を、業が具体的には身体の動作や言語のための口や舌の働きによるものであるから、何か物質的なものと考えた。すなわち堅湿煙動などの性格を示す地水火風のような要素の結合による物質的な何ものか(色法)と考えた。その点で表業も無表業も実体と考えていた。
 経量部は、大乗仏教と同じように思の心所の働く姿について身業語業意業などの区別を立てたので、実体的なものがないとして、その思に審慮思(しんりょし)、決定思(けつじょうし)、動発勝思(どうはっしょうし)の三種を立てて説明している。

  1. 審慮思  身語の二業を起そうとするとき、審慮するもの
  2. 決定思  決定心をおこして、まさになさんとする
  3. 動発勝思 身語の二業において動作する

 このような思の三種からして、意業は審慮と決定をその自体とし、身語の表業は動発する善不善の思を自体とし、無表業は思の種子のうえにある不善あるいは善を防ぐ功能(はたらき、可能性)を自体とすると説かれる。

引業・満業

 このように業論は仏教において非常に重要な思想であり、人間生活におけるすべての現象の説明がこの業説に集約されて考えられる。
 人間の現実生活において、人間としての果報を生ずる力を引業(いんごう、ākṣepa karma)といい、その人間の果報上にある種々の要件すなわち支体・諸根・形量等の差異を結果せしめるものを満業(まんごう、paripūrak karma)という。

共業

 相互に共通するような状態にありうるような果報をひきおこす力を共業(ぐうごう、sādhāraṇa-karman)といい、自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業(asādhāraṇa-karman)とよぶ。
 しかし、仏教の業説は釈迦が、「業論者、業道論者、精進論者」と自らを言われたように、本当に真剣に人生を生きてゆこうとする立場のうえに説かれたものである。その点、決して宿命論ではない。