操作

正覚門

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

しょうがく-もん

往生門

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:往生門

『教行証文類』には、教・行・信・証の四法と真仏土が顕されている。この真仏土が顕されいる理由を梯實圓和上の『親鸞教学の特色と展開』から窺ってみる。御開山が真仏土を顕された意図を往生門正覚門といふ面から考える示唆となるであろう。

涅槃の浄土

  ──真仏・真土の開顕──

 『教行証文類』の「真仏土文類」には、親鸞聖人独自の大涅槃界としての仏身仏土論が展開されている。
そのことは「証文類」で、報土に往生することは成仏することであり、阿弥陀仏もそこから顕現してこられた一如に証入することであるという難思議往生を開顕されていたことから十分予測されたことであった。往生即成仏ということが、破天荒な論義であるならば、その仏身仏土論もまた従来の浄土教の常識を超えるものであったことは当然である。
 ところで『教行証文類』に「真仏土文類」が顕されたことについて、古来二つの理由が挙げられている。
第一には真実の証果を開く場所を明らかにするためであり、第二には往還二種の回向の本源を顕すためであるというのである。第一は、「証文類」に続いて「真仏土文類」が置かれていることの意味を示すもので、浄土門の証果は、聖道門のように此土において開覚するものではなくて、真仏土において開ける証果であることを明らかにするためであった。「真仏土文類」に引文を結んで、

しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。······ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。(『註釈版聖典』三七〇―三七一頁)

といい、仏性を開覚するのは真仏土においてであることを強調されたものがそれである。その意味で真仏土は衆生往生の因果の究極するところを表していた。このように教・行・信・証・真仏真土という順序で法義を顕していくことを往生浄土門(往生門)の法義という。
 第二は、大涅槃の領域である真仏・真土を本源として、二回向四法[1]が展開していくことを明らかにする立場である。往相・還相の二種の回向は、悲智円満の正覚の全体が衆生救済の妙用を現しているすがたであって、二回向四法となってはたらかないような如来・浄土は存在しない。往相還相の二種を衆生に回向して、一切の衆生を往生成仏せしめ還相せしめているのが本願成就の真仏土であるということを表すために「真仏土文類」が明かされていると見る立場である。『正像末和讃』に、

超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり (『同前』六〇三頁)

と讃仰し、光寿無量の真仏・真土こそ大悲救済の本源であるといい、浄土真宗という法義の本源であるといわれたものがその意を表していた。このように無明煩悩寂滅した浄土を法門の根源として、そこから往生の因果が回向成就されると見る立場を正覚摂化門(正覚門)の法義と呼んでいる。
 往生浄土門は、衆生を中心にして因から果に向かうかたちで法門が語られるから、特に往生の因の真と仮と偽を明らかに分別し廃立する法義の表し方である。それに対して正覚摂化門は、如来・浄土を中心にして、その必然(自然)として南無阿弥陀仏となって衆生に近づき、さまざまな方便を設けて衆生を調熟[2]し、本願を信ぜしめ念仏せしめて、涅槃の浄土へ迎え入れ、成仏せしめ、還相せしめていくという限りない大涅槃の活動を表す法門である。それは仏から衆生へという方向を強調し、浄土真宗とは如来・浄土の活動であるような法門であることを明らかにする法義であった。このように法門の淵源として涅槃の浄土を見ていくところに聖人の浄土教義の特色があった。ともあれ聖人の教義は、この正覚門往生門という二種の法門が絡み合いながら展開しているのであった。

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:より出でたり

浄土真宗では往生門正覚門といふ二つの立場を示し種々に論じられてきた。ここでは、深川宣暢和上の『親鸞教学の二重の構造』──救済の「論理」と「時間」── の論文のPDFから一部分を抜書きした。➡ファイル:「親鸞教学の二重の構造 」.pdf ➡親鸞教学の二重の構造 text

〈3)神子上恵龍氏の所論

 真宗の、ことに本願寺派での伝統的な宗学の方法として、旧来より「往生門」と「正覚門」という二つの立場がある。神子上恵龍氏は「親鸞教学に於ける二の立場」という論文の中で、この二つの立場から親鸞の著述を分類するという見解をあらわして、親鸞教学(教義)を解明する方法を展開する。

 すなわち第一には、親鸞が教・行・証の三法を教・行・信・証の四法に開いて信心正因 称名報恩の義を主張されたことなどは、従生向仏[3]の往生門としての理解であり、これを「体験的立場」ということができる。第二にはその信心称名が他力回向によるものであるという他力回向説を主張されたことなどは、従仏向生[4]の正覚門としての理解であり、これを「論理的立場」での主張と見ることができる。親鸞においては、この体験と論理とは二而不離一体[5]の関係にあると言わねばならないが、その著述を検討すると『教行信証』を中心とした往生門的体験の立場に据わって著されたものと、『和讃』[6]、『文類聚鈔』、『入出二門偈』等のように正覚門的論理の立場に据して著されたものとが見えるとし、晩年には体験というより後者の正覚門的論理的立場に立って著されたものが多くなるという論を展開して、そこに「往生門的体験的立場」と「正覚門的論理的立場」という二つの立場を明らかにしている。

 同様の観点は基本的には伝統的な宗学が用いるもので、たとえば大原性実氏は『真宗教学の伝統と己証』において、

抑々(そもそも)本典を研鑽する視角には二個ありと考えられる。その一つは教を起点として行・信・証・真仏土と進行する順観の立場であり、その二は真仏・真土を起点として、行・信・証と進行する逆観のそれである。真宗学においては前者を往生門(趣入門)といい、後者を正覚門(摂化門)と名づけている。この二門の見方は学者によりて必ずしも一様ではないが、私は順観の往生門は真宗救済における「体験の事実」を語るものであり、逆観の正覚門は真宗救済における「先験の論理」[7]を示すものと見る。

と述べて、伝統的な「往生門」と「正覚門」の立場を解説されている。二つの立場の見方は全く同じ表現ではないが、伝統的宗学におけるこの二つの立場は基本的には重なるものと見ることができよう。

 仏教の特色は、「智慧」と「慈悲」にあるといわれ、浄土教は特に慈悲の面を強調する。その意味では「往生門」は慈悲の面であり「正覚門」は智慧の面を顕しているともいえる。また善導・法然両師は「往生門」に立ち、曇鸞大師は「正覚門」ともいえよう。御開山の著書を時系列で拝読すると、御開山は晩年に到るほど慈悲よりも智慧にご関心の重点を置かれているようである。

 なお、蓮如さんには「往生門」のみで「正覚門」が欠けている。それは、親鸞聖人と蓮如上人の置かれた時代や歴史的思想背景の違いなどもあって、強調する力点が違うのであろう。→トーク:蓮如


親鸞聖人の仏身論
垂名示形
hwiki:仏教の思想5(相対の上の絶対)

  1. 二回向四法(にえこう-しほう)。往相と還相の二廻向と教・行・信・証の四法。
  2. 調熟(ちょうじゅく)。本願を受け容れられるように機を調(ととの)え成熟させること。
  3. 従生向仏(じゅうしょう-こうぶつ)。衆生より仏に向かう。衆生が仏に成るベクトル。
  4. 従仏向生(じゅうぶつ-こうしょう)。仏より衆生に向かう。仏のさとりから衆生に対してのベクトル。
  5. 二而不離一体(にに-ふりいったい)。二にして不離一体。
  6. 『和讃』。「讃阿弥陀仏偈」は浄土の三厳の徳を讃えるので「真仏土」、三部経を讃ずる「浄土和讃」は「教」、「高僧和讃」は七高僧の「行・信」に配当される。「正像末和讃」冒頭には、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」とあり、正・像・末の三時にわたって凡夫が「証」を得ることができるのは、阿弥陀仏の本願以外には無いということを示している、とみることができる。この意味において「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ構造になっている。このように「往生門」と「正覚門」は円環構造であるとみることが出来る。
  7. 先験(せんけん)。西洋哲学などの文脈で使われるドイツ語「transzendental」の古い訳語である「先験的」などという言葉の中で見られる表現。「経験に先立つ」という意味合いであるが、「先天的」などの別の言い回しもあり、現在では通常「超越論的」という表現が用いられる。 weblio